馬場恒吾にみる‘複雑性’について

「日本人は戦争に信仰を有していた。(中略)事実、これに心から反対したものは、石橋湛山馬場恒吾両君ぐらいのものではなかったかと思う。」
「暗黒日記」P165


長谷川如是閑馬場恒吾氏の如きは、添加稀に見る清廉潔白の士である。戦争の罪悪は、こうした清士が困り、悪人が思う様儲けて添加を我物に振舞うことにある。」
「暗黒日記」P312



馬場恒吾
(ばば つねご、1875年7月18日 - 1956年4月5日)は、ジャーナリスト・政治評論家・実業家。岡山県岡山市出身。
同志社神学校から東京専門学校(現・早稲田大学)政治科を卒業。ジャパン・タイムス、国民新聞の記者を経て、読売新聞社主筆・社長などを歴任した。
リベラリストの言論人として活躍。憲法研究会メンバーとして日本国憲法制定議論にも関わった。著書は戦前に東洋経済新報社から『時代と人物』が出された他は、中央公論社から『立上がる政治家』、『国民政治読本』、『政界人物評論』、『政界人物風景』、『現代人物評論』が出された。
中公文庫で『自伝点描』が、1989年と2005年に復刊された(初版は東西文明社 1952年)。結果的に中央公論社と読売新聞が結びつく遠因の一つとなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/馬場恒吾



清沢洌さんの『暗黒日記』には度々馬場恒吾さんの名が出てきます。
長谷川如是閑さんとともに最も登場回数が多い人物ではないでしょうか。
冒頭の引用の通り、清沢さんは好意的に馬場さんを見ています。


清沢洌と言えば、戦前・戦中最大のリベラリストとも言われる人です。


「第五に自由主義者は平和を愛します。(中略)第六に自由主義者は、自由主義以外に実際に政治を行う有力なるワーキング・プリンシプルはないと考えます。(中略)右翼と左翼との間に挟まって、唯一の実効的プリンシプルは、中庸的自由主義以外にはありません。」
現代日本論』P20〜23


自らを自由主義者と規定し、それに則った言論を戦時中も発し続けた人です。
そんな人が好意的な思いを寄せる馬場恒吾も当然リベラリストであると考えることは自然なことだろうと思います。
戦時中という特異な状況においての、メインストリームから弾かれた者の好意とは、藁にもすがるような強いつながりを信じたくなる渇望をも含むものだったことでしょう。
仲間という言葉では足りない、‘同志’だったのかと僕は勝手に想像してしまいます。
そんな清沢洌の‘同志’である馬場恒吾が戦後、読売新聞社の社長に就任してから出版されたのが『自伝点描』です。
タイトルからも想像できるように自伝的随想録です。
本の裏表紙のミニ解説に「新聞人の四十余年に及ぶ思い出と随想を収録」とあります。
様々なことが書かれていますが、その中にこのようなタイトルの評論があります。


再軍備必至」
再軍備に直面する青年」


今日的に考えると何だか不思議な感じがします。
リベラリスト再軍備支持??」


再軍備必至」の中で馬場恒吾はこのようなこと言います。
「日本憲法は改正されなければならぬ。そうしなければ再軍備は実行出来ないからである」
凡そ今日のリベラリストと言われる人には見られない言葉ではないでしょうか。
リベラリストとは真逆にいる人たちの言葉としてならとても今日的です。


今日のリベラリストの相場は、護憲、反核ハト派といった感じです。
その逆の立場の人たちは、改憲核武装タカ派といった感じでしょうか。
両方共極めてわかり易いものです。
そんなわかり易い色分けが必然とされている今日からみると、
リベラリストによる再軍備必至」
は極めて奇異に思えてしまいます。そして分かりにくい。
もしかしたら馬場恒吾は‘転向’しただけかもしれません。
ただ「再軍備必至」に書かれるこれらの言葉を読むと、そんなわかり易いことでもなさそうです。


「日本人が無抵抗主義的気風に陥ったのは、東条時代の思慮浅薄な軍国思想に対する反動もある」P192
再軍備と言えば直ちに戦前に存在した陸・海・空軍を連想するが、旧制度の復活を考えるのは愚の極みである」P194


戦前の軍国主義ははっきりとダメである。しかし軍備、日本国憲法改憲は必要だ。
そう言っています。
これが複雑なことなのかは、当時の状況について不勉強な僕にはわかりません。
しかし、今日的思考と比べれば断然複雑です。
憲法改憲」と言えば、「戦前回帰」と即繋がってしまう今日とははっきり違います。
僕はこの‘複雑さ’を羨ましく思います。
馬場恒吾的複雑さに憧れます。それこそ思考だよな、と思うからです。
僕は、憲法改憲にも、軍備増強にも明確に反対します。
馬場恒吾の「再軍備必至」に対して羨ましくも、憧れるのでもありません。
リベラリストによる再軍備必至」という複雑さが存在する社会が羨ましいのです。
憧れるのです。
それは、恐らく、リベラリストと呼ばれる人たちと、その反対にいる人たちの交流、融合、融和が全くと言っていいほどない今日の状況に絶望しているからです。
お互いに‘お仲間’を集めて言いっぱなしで一向に善きものが生まれる気配がない現状。
「どっちが取るか」の領地合戦でしかない現状。
そんな状況に辟易してきている自分に気づいてきました。
そんな現状を作っているのは、複雑さを排除した誰が見ても分かる鮮明な色分けです。
この単純な色分けのうちに‘安住’する限り、その社会は決して‘安住の地’にはならないのではないでしょうか。その社会に、思考は必要とされないですから。


ここで再度清沢洌の言葉を引きます。
「第六に自由主義者は、自由主義以外に実際に政治を行う有力なるワーキング・プリンシプルはないと考えます。(中略)右翼と左翼との間に挟まって、唯一の実効的プリンシプルは、中庸的自由主義以外にはありません。」
現代日本論』P20〜23


複雑さが存在し得る社会こそ、中庸的自由主義を実現できる社会なのだ、と僕は思います。



※ デザイン的に整っているので、不本意ながらamazonにリンクをはります(笑)


暗黒日記―1942‐1945 (岩波文庫)

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