連休中は映画をたくさん観ました。


今年のお盆休みは長かったです。
8/10~18の休みの間、戦争関連のテレビ番組、本にたくさん触れました。
今住んでいるところにはJ:COMがもとから入っていることもあり、その中の映画チャンネルでたくさんの戦争関連の映画が放送されていました。
とりわけ素晴らしかったのが、『名もなく貧しく美しく』。戦争そのものが主題ではなく、「戦後の生活」を描いたものですが、これが実に素晴らしかったです。高峰秀子さん、小林桂樹さん主演。聾唖者二人の戦後の生活は実に過酷ですが、実に逞しいものでした。もう一度観たいと思い、観られる動画サイトを探したのですが、どうやらないようです。DVDレンタルでさらに探してみたいと思います。

 

戦争そのものを描いたものもいろいろと観ました。
連合艦隊司令長官 山本五十六』(1968年公開・丸山誠治監督/三船敏郎主演)、『野火』(2015年公開・塚本晋也監督/主演)、『私は貝になりたい』(1958年放送・加藤哲太郎原作/フランキー堺主演)、『ビーチレッド戦記』(1967年・コーネル・ワイルド監督主演)、『スターリングラード』(2001年・ジャン=ジャック・アノー監督/ジュード・ロウ主演)、『ひろしま』(1953年公開・関川秀雄監督/岡田英次山田五十鈴など)。これに、『日本のいちばん長い日』の1967年版(岡本喜八監督)、2015年版(原田眞人監督)の2本も観ました。
2015年版『日本のいちばん長い日』が劇場公開された際の感想がブログにありましたので、再掲します。今読んでも「なるほど」と思います。

 


以下、2015.8.12掲載
「今日の一作 〜 映画『日本のいちばん長い日』」

今日の一作 〜 映画『日本のいちばん長い日』 - 森の中の畑は森か

 

※ ネタバレあり


ここのところ、『野火』、『グローリー』と立て続けに素敵な映画を観ましたが、この作品もその流れに十分入る映画です。
「このタイミングだし観ておこう」くらいで観に行ったのですが、いやはや驚きました。
実に素晴らしい映画で。日本の戦争についてかなりの数の作品がこれまで作られてきていますが、その中でも相当質が高い作品だと僕は感じました。
それは、「真実が描かれている」とか、「戦争の批判が鋭い」とかそういうありがちなレベルではありません。(何が「真実」なのか僕にはわかりませんし)
「あの戦争そのものの一端がここにあるんではないか」という、根本的な部分に対する思考、さらに表現にチャレンジしていて、成功しているといった、「ありがち」を一段も二段も飛び越えているレベルにある映画なのです。
その具体的なところを書きたいと思います。

 

ポツダム宣言に対してどのように対応するか」がメインになっていて、それが最大の盛り上がりを見せた昭和20年8月14日を「日本のいちばん長い日」として描いています。
8月14日は昭和天皇の「ご聖断」がなされた日であり、これにより終戦が決定されたという「事件」なわけですが、これが要因になった別の「事件」が次々に起こりました。
陸軍のクーデター事件がその最たるもので、この映画でもそこは厚く描かれていました。
それもあって、この映画には陸軍、特に若い将校がたくさん出てきます。
彼らはよくしゃべります。とにかく自分の明確な意見を発します。
ただ、映画を観ながら感じたことは、「聞き取りにくいな」ということでした。
それはある種のストレスでもあったのですが、途中で気づきました。
「ああ、これこそ当時の陸軍軍人だったのか!」と。
「彼らは相手に届ける言葉を必要としていなかった。ただ自分の意見を述べることに集中して言葉を発していたのではないか!」
その象徴的な場面がありました。

 

東条英機が首相の座を降りたあとも何かと陸軍内における力を誇示しようとする場面が前半に複数あります。若い将校が集まる場所にも顔をだします。
そこで彼らに東条は質問します。その瞬間、「○○○であります!」と端的な歯切れのよい言葉で将校は答えます。他の将校も間髪を入れずに「○○○であります!」とこれまた要点のみの答えを発します。
東条は「よし!」といってその場を離れていくのですが、どうみてもそれは対話ではないのですね。
受験のときに散々勉強した一問一答です。
質問と答えを結ぶだけの作業しかそこにはありません。思考もなければ、それに基づくアレンジもありません。決まった言葉が答えなのです。
そしてその場面ではそれが求められていて、思考を介した自分流などまったくいらないのです。
質問したら、即回答する。それが「正しいふるまい」なのです。
そして重要なことは、そのふるまいが上記のような場面だけでなく、帝国陸軍(海軍も含まれるのでしょうが)におけるスタンダードだったのではないか、ということです。
つまり、帝国陸軍において「考えるな、覚えろ」ということが正解であり、それをできる人間が優秀とみなされたのではないか、ということです。
それがどのような状況を生み出すかを想像してみると、それは恐ろしいものになります。
対話がない、です。
常に返ってくることを考慮されずに、乱暴に投げつけるものであり、それは相手に届かなくてもよいものである言葉。
そのような言葉が帝国陸軍内では当たり前のものとして飛び交っていたのではないか、と想像してしまうのです。
そのような言葉は相手を想定していないので、相手が理解する必要性など二の次です。
大きな声でいかに即答、反応するか。それが「正しいふるまい」である組織において、相手に「聞こえますか?」などという気遣いは無用です。
そうすると、軍人の言葉の聞き取りにくさにストレスを覚えたとさきほど書きましたが、実は軍人同士も「聞き取りにくい」という状況にあったのではないでしょうか。
映画の観客だけの感想ではなく。
そしてその「聞き取りにくい」状況が普通であった帝国陸軍は、思考よりも、大きな声、淀みない言葉=決まった言葉、または自分が強烈に信じる言葉が圧倒的に力をもっていた組織だったのではないでしょうか。

 

ここにこの映画の素晴らしさがあると思います。
映画としては観客に聞き取りにくさを与えることはマイナスでしかありません。
どんな時代背景でもそれを無視して、観客に配慮するのが普通の映画です。それはそれで間違いはないでしょうが、この映画はその配慮をしませんでした。
それは制作のミスでも、観客を無視したわけでもありません。意図です。
「聞き取りにくさを感じてください」という意図です。
なぜなら、その「聞き取りにくさ」こそが帝国陸軍の特徴の一つだったのではないか、という考えによるからです。
そして、特徴を浮き彫りにすることは、その組織が大きな力をもって実行した日中戦争、太平洋戦争の特徴を表現する手段として極めて有効であるということです。
その意欲をこの映画から感じられます。
昭和前期の日本の戦争は後世からみると「なんでこんなことやったの?」という疑問がそこらじゅうにあるものです。様々な検証がされていますが、言葉の問題という根本にもその要因があったのではないでしょうか。思考を重要視しない組織であれば、アホなことをやってもある意味おかしくありません。

 

言葉の問題でいえば、もう一つ象徴的な場面がありました。
8月14日、陸軍将校が皇居(宮城)に乱入して占拠する場面です。
宮内省の侍従二人が天皇防空壕である御文庫に行くのですが、そこへの道に軍人が大勢います。
それをみて二人はひそひそ話をします。
「御文庫に行くというのはまずそうだ。御文庫に戻るというのはどうでしょう?」
「言葉の問題か?」
という会話の直後、軍人に
「御文庫に戻るのですが」と言うと、すんなりと通ることができました。
「言葉の問題でしたね」と侍従が小さな声でいってその場面は終了します。
くすっと笑ってしまいそうですが、ここは極めて重要な場面だと思いました。
この場面、急に挿入されているのです。特になくても映画の流れ上、まったく問題ありません。
そういう場面は大きな意味があるというのが物語の定石です。
この場面の意味とは?
それは、まさに言葉の問題でしょう。
「御文庫に行く」はまずいけど、「御文庫に戻る」はよい。
これは戦時中軍部が多用した言葉の言い換えを表現したものでしょう。
「撤退」を「転進」といい、「全滅」を「玉砕」といった言い換えです。
この場面は、帝国陸軍(海軍もでしょうが。しつこく)が言葉を疎かにし、弄んでいたことを意味するものと思いました。
「言葉なんてどうにでもなるんでしょ」という、言葉の軽視が当たり前のようになされていた帝国陸軍
そのことを無理やり差し込んだ意味はしっかり考えるべきことです。

 

この映画は、帝国陸軍における言葉の問題を主題にしたものだと思います。
ありきたりな反戦映画でもなければ、記録映画でもない。史実映画でもない。
このような視線からあの戦争を描いた映画を僕は他に知りません。
この映画の素晴らしい所以です。
本当に勉強になりました。言葉の問題から戦争を考えること。

「武器輸出三原則」を「防衛装備移転三原則」、安保法制を「平和安全法制整備法案」などと言葉を言い換える人がいます。
この映画は、言葉の言い換えをする人間、組織に注意しろ、と観る者に訴えています。