「個人」であれ〜同志社大学総長祝辞より


先月20日に行われた同志社大学卒業式における総長の祝辞が素敵な内容でしたのでご紹介します。

2014年度同志社大学卒業式祝辞(2015年3月20日
                                           同志社総長 大谷 實


 一言、お祝いの挨拶を申し上げます。
 皆さん、同志社大学のご卒業、また、大学院のご修了、誠におめでとうございます。学校法人同志社を代表して、心からお祝いを申し上げます。また、ご両親をはじめ、ご家族の皆様、本日は、誠におめでとうございます。心からお喜び申し上げます。


 さて、卒業生の皆さんのほとんどは、これから社会に出て活躍されるはずですが、私は、今日の我が国の社会や個人の考え方の基本、あるいは価値観は、個人主義に帰着すると考えています。個人主義は、最近では「個人の尊重」とか「個人の尊厳」と呼ばれていますが、その意味は何かと申しますと、要するに、国や社会で最も尊重すべきものは、「一人ひとりの個人」であり、国や社会は、何にも勝って、個人の自由な考え方や生き方を大切に扱い、尊重しなければならないという原則であります。個人主義は、利己主義に反対しますし、全体主義とも反対します。
 同志社創立者新島は、今から130年前の1885年、同志社創立10周年記念式典の式辞のなかで、「諸君よ、人一人は大切なり」と申しましたが、この言葉こそ、個人主義を最も端的に明らかにしたものと考えられます。
 この個人主義について、日本の憲法は、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、国政の上で最大の尊重を必要とする」と定めています。遅ればせながら、68年前の1947年5月3日に公布された日本国憲法で、個人主義を高らかに宣言したのです。
 あの悲惨な太平洋戦争の原因の一つであった、全体主義あるいは天皇中心主義といった国や社会のあり方について、深刻に反省し、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し」て、全体主義天皇中心主義の国や社会のあり方を180度転換して、「すべて国民は、個人として尊重される」としたのです。憲法13条は、まさに、日本国憲法の根幹を示すものとして規定されたのでした。


 ところで、諸君も十分判っていると思いますが、安倍首相の憲法改正の意欲は並々ならぬものがありまして、早晩、改正の動きが具体的になってくるものと予想されますが、そのために、自由民主党自民党憲法草案なるものをまとめて公表するに至りました。その中で、「個人の尊重」という文言は改められて、「人の尊重」となっています。起草委員会の説明ですと、従来の「個人の尊重」という規定は、「個人主義を助長してきた嫌いがあるので改める」というものであります。今日の価値の根源となっている個人主義を、柔らかい形ではありますが、改めようとしているのです。このことは、これまで明確に否定されてきた全体主義への転換を目指していると言ってよいかと思います。


 先にも申した通り、日本国憲法は、個人主義を正面から認め、人間社会におけるあらゆる価値の根源は、国や社会ではなく、一人一人の個人にあり、国や社会は、何よりも、一人一人の個人を大切にする、あるいは尊重する、といった原理であると考えています。
 自民党草案の他の規定を見ましても、個人よりも社会や秩序優先の考えかたがはっきりと表れており、にわかに賛成できませんが、私は、個人主義こそ民主主義、人権主義、平和主義を支える原点であると考えています。
 卒業生の皆さんは、遅かれ早かれ憲法改正問題に直面することと存じますが、そのときには、本日の卒業式において、敢えて申し上げた個人主義を思い起こしていただきたいと思います。そして、熟慮に熟慮を重ねて、最終的に判断して頂きたいと思うのであります。


 結びに当たりまして、卒業生、修了者の皆さんのご健康とご多幸をお祈りし、併せて、一国の良心としてご大活躍されますことを期待し、また、お祈りして祝辞とします。
 本日は、誠におめでとうございます。


http://www.doshisha.ed.jp/message/speech.html


極めて率直に思いを語られている祝辞だと思います。
そして具体的です。ふんわりした批判はかえって逆効果にもなりえますが、これほどピンポイントで具体的な批判は力強いものに感じられます。


「個人であれ!」


僕は個人主義者です。
この国に生まれ、日本語を話し、日本の文化の中で育ち、日本食を食べ、日本の習俗の中で呼吸をし、日本の歴史の事実の中で生きている、そしてそれらに心地よさを感じている者です。ですので、それらを守ることに快感をもつ者でもあります。その意味で保守主義者です。
しかし、ある一点においてそれらは最上のものではなくなります。
それは、「日本が滅びても、身体が生存していれば僕は生きてしまう」という点です。
身体が死ななければ僕は生きてしまう。
そこに日本や国は一切関係ありません。関与できません。
僕の身体の声と国とは次元の違うところにあります。
身体に比べれば日本が下位であることは紛れもない事実です。気持ちの問題ではなく、事実としての問題です。
ゆえに保守主義者である以上に個人主義者です。身体的個人主義です。(そんな言葉ありませんが)


そんな僕には同志社大学総長の


日本国憲法は、個人主義を正面から認め、人間社会におけるあらゆる価値の根源は、国や社会ではなく、一人一人の個人にあり、国や社会は、何よりも、一人一人の個人を大切にする、あるいは尊重する、といった原理であると考えています。」


という言葉は心地よく身体に入ってきます。



私立大学も国から補助金を受けています。
最近は大学への補助金の報道もよく目にします。その多くが「大学は即戦力人材を育てろ。それをやる大学には補助金を多くする。それをしない大学は減らす」といった類いのものです。
これはその象徴的な報道です。

スーパーグローバル大学に37校 国際化へ文科省選定


文部科学省は26日、大学の国際競争力を高めるために重点的に財政支援する「スーパーグローバル大学」に、国公私立大37校を選んだと発表した。2023年度までの10年間に1大学当たり最高約4億2千万円の補助金を毎年支給する。日本の大学の国際化を促し、グローバル人材の育成を急ぐ。
(後略)


日経新聞 2014/9/26
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG26H03_W4A920C1CR0000/


要は、「政府の方針に従えばお金をあげる」です。
政府の教育への食い込みの一環ですが、以下の報道もその一種でしょう。

教科書検定、加筆促す 「政府見解に基づく記述がない」


2016年度から使われる中学校の教科書について、文部科学省は6日、検定結果を公表した。社会科の検定基準が変わって初めての検定で、「東京裁判」や「慰安婦」などの記述に関連して、政府の統一的見解が盛り込まれていない、などとする意見が6件ついた。今回の検定では初めて特定の事柄を加筆するよう促し、各社とも盛り込んだ結果、政府の主張が教科書に反映される形となった。


 文科省は昨年1月、社会科の検定基準に、「政府見解がある場合はそれに基づいた記述」「近現代史で通説的な見解がない数字などはそのことを明示」などを追加した。
(後略)


朝日デジタル 4/6
http://www.asahi.com/articles/ASH426456H42UTIL035.html


「政府見解」に基づいて「加筆」を促した、という内容です。
この是非はひとまず置いときますが、今回の教科書検定から政府見解が教科書に濃厚に反映されるようになった=政府の影響力が強まった、という事実は押さえておかなければなりません。
大学にも、小学校、中学校にも政府の食い込みが目に見えた状態として表面に浮上してきた事例です。


僕たちはそのような社会で生きています。
同志社大学総長は、僕などより当然そのことを肌で感じて生きていられるはずです。
そんな社会において、大学とはどのような機関であるべきか。
創立者新島襄の「諸君よ、人一人は大切なり」という言葉を引きながら述べた祝辞の内容こそ、総長が考える大学の姿だったのだと思います。


「個人であれ!」


大学とは個人の研鑽、そして個人であるための研鑽を目指す機関である。
政府が教育に食い込む意思をなりふり構わず表現する社会において、この確固たる思いをベースにした自民党憲法草案批判は説得力があり、切実なものとして響いてきます。
何度も読みたい文章です。


同志社大学、良いなあ。