「反戦争」について

本日7/5(土)の東京新聞朝刊に、長谷川如是閑さんについての記事がありました。
主旨は、長谷川如是閑さんが1929年に『我ら』という雑誌に発表した「戦争絶滅受合法」という題名のコラムを考える、というものです。


そもそも長谷川如是閑とはどんな人か。

1875〜1969(明治8年〜昭和44年)【ジャーナリスト】反体制言論人として活躍。 強烈な批判記事が新聞弾圧「白虹事件」の引き金に。明治〜昭和期のジャーナリスト・思想家。本名は山本万次郎。東京都出身。東京法学院卒。新聞「日本」をへて、1908年(明治41)「大阪朝日新聞」に転じ天声人語や評論、小説と活躍。1918年(大正7)に政府の言論弾圧に抗議した「白虹(はつこう)日を貫けり」の記事が、政府の告発により筆禍事件に発展し、社長らと引責退社。翌年雑誌「我等」を創刊。第二次大戦後もリベラリストとし芸術院会員となった。1946年(昭和21)文化勲章受賞。著書「現代国家批判など」


http://kotobank.jp/word/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A6%82%E6%98%AF%E9%96%91


より詳細に
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E8%B0%B7%E5%B7%9D%E5%A6%82%E6%98%AF%E9%96%91


清沢洌さんの『暗黒日記』にも度々その名が登場する言論人です。
『暗黒日記』によく出てくるということからも察せられるように、
戦争、ひいては権力に対して批判的な思想を持っていた人です。
主著の題名がそれを物語っています。
『日本ファシズム批判』、』『現代国家批判』、『現代社会批判』、『真実はかく佯る』、『搦め手から』、『凡愚列伝』などなど。
冒頭にあげた「戦争絶滅受合法」はそんな人により発表されたコラムです。
その内容は下記の通りです。短いので全文を引用します。

世界戦争が終つてまだ十年経つか経たぬに、再び世界は戦争の危険に脅かされ、やれ軍縮条約の不戦条約のと、嘘の皮で張つた太鼓を叩き廻つても、既に前触れ小競り合ひは大国、小国の間に盛に行はれてゐる有様で、世界広しと雖も、この危険から超然たる国は何処にある? やゝその火の手の風上にあるのはデンマーク位なものだらうといふことである。
 そのデンマークでは、だから常備軍などゝいふ、廃刀令以前の日本武士の尻見たやうなものは全く不必要だといふので、常備軍廃止案が時々議会に提出されるが、常備軍のない国家は、大小を忘れた武士のやうに間のぬけた恰好だとでもいふのか、まだ丸腰になりきらない。
 然るに気の早いデンマークの江戸ツ子であるところの、フリツツ・ホルムといふコペンハーゲン在住の陸軍大将は、軍人ではあるがデンマーク人なので、この頃「戦争を絶滅させること受合ひの法律案」といふものを起草して、これを各国に配布した。何処の国でもこの法律を採用してこれを励行したら、何うしたつて戦争は起らないことを、牡丹餅(ぼたもち)判印で保証すると大将は力んでゐるから、どんな法律かと思へば、次ぎのやうな条文である。


 「戦争行為の開始後又は宣戦布告の効力の生じたる後、十時間以内に次の処置をとるべきこと。
 即ち左の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従はしむべし。
  一、国家の××(元首)。但し△△(君主)たると大統領たるとを問はず。尤も男子たること。
  二、国家の××(元首)の男性の親族にして十六歳に達せる者。
  三、総理大臣、及び各国務大臣、并に次官。
  四、国民によつて選出されたる立法部の男性の代議士。但し戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。
  五、キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、其他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。
 上記の有資格者は、戦争継続中、兵卒として召集さるべきものにして、本人の年齢、健康状態等を斟酌すべからず。但し健康状態に就ては召集後軍医官の検査を受けしむべし。
 上記の有資格者の妻、娘、姉妹等は、戦争継続中、看護婦又は使役婦として召集し、最も砲火に接近したる野戦病院に勤務せしむべし。」
 これは確かに名案だが、各国をして此の法律案を採用せしめるためには、も一つホルム大将に、「戦争を絶滅させること受合の法律を採用させること受合の法律案」を起草して貰はねばならぬ。

デンマークのフリツツ・ホルムという陸軍大将という架空の人物を登場させ、その人が起草した「戦争を絶滅させること受合ひの法律案」を長谷川如是閑さんが紹介する、という体をとっていますが、当然彼の創作です。
このコラムの肝はなんといっても、

 即ち左の各項に該当する者を最下級の兵卒として召集し、出来るだけ早くこれを最前線に送り、敵の砲火の下に実戦に従はしむべし。
  一、国家の××(元首)。但し△△(君主)たると大統領たるとを問はず。尤も男子たること。
  二、国家の××(元首)の男性の親族にして十六歳に達せる者。
  三、総理大臣、及び各国務大臣、并に次官。
  四、国民によつて選出されたる立法部の男性の代議士。但し戦争に反対の投票を為したる者は之を除く。
  五、キリスト教又は他の寺院の僧正、管長、其他の高僧にして公然戦争に反対せざりし者。

の部分ですね。
つまり、戦争が始まったら、国家運営の責任者がまずは戦線に行け、というまさに今そのまま使いたいようななんとも痛快な意見表明です。
これを1929年(昭和4年)に発表しているのです。


その年の前後の状況が東京新聞に載っていましたので参考にします。

1923年 関東大震災。亀戸・甘粕事件で共産主義者無政府主義者らが虐殺される
1925年 治安維持法公布
1927年 昭和金融恐慌
1928年 特別高等警察の設置と共産党への大弾圧(3・15事件)。初の普通選挙実施。関東郡の張作霖爆殺事件。治安維持法改正。昭和天皇即位の礼
1929年 世界大恐慌
1930年 恐慌と大凶作で小作争議が各地で発生。浜口雄幸首相狙撃事件
1931年 満州事変
1932年 傀儡国家・満州国樹立。5・15事件
1933年 国際連盟脱退
1936年 2・26事件
1937年 日中戦争勃発

このような状況でした。
これをみると、「戦争絶滅受合法」が発表されたのは、
まさに‘十五年戦争前夜’においてだった感を受けます。
これだけの‘戦争’を匂わせる事例があったり、その後におこる事例の雰囲気があったことを考えると、「戦争絶滅受合法」であったり、その著者である反戦争の姿勢をとった長谷川如是閑さんが歓迎される空気が日本に充満していた、と考えても不思議ではありません。
しかし、その後に日本が選択した道をみると、そうではなかったことが直ちに了解されます。日本人は戦争をしたわけです。(軍部や政治家のみが戦争を引き起こしたとは僕は考えていません)
ここからは僕の想像が多いに入ってきます。
「なぜ日本人は戦争を選択したのか?」
これは永遠に日本人が考え続けるテーマかもしれません。それを回避する簡単な回答は、軍部が暴走した、ではないでしょうか。とりあえず軍部に押し付けておけ、と。現在日本で最も共有されている認識はそれだと思います。
しかし、先述の通り、僕は日本が戦争を選択したのは、軍部であり、政治家であり、そして日本国民であった、と考えています。国民が支持をしなければいくら軍部なり、政治家なりが専横体制を敷いても、戦争という国家をかける一大事業ができるはずがないと思うからです。
1941年(昭和16年)に太平洋戦争開戦に踏み切った東条英機氏の、飯米応急米の申請に対応した係官が居丈高な対応をしたのを目撃した際に、「民衆に接する警察官は特に親切を旨とすべしと言っていたが、何故それが未だ皆にわからぬのか、御上の思し召しはそんなものではない、親切にしなければならぬ」と諭したというエピソードや、区役所で自ら直接住民に意見を聞こうとしたこと、旅先で毎朝民家のゴミ箱を見て回って配給されているはずの魚の骨や野菜の芯が捨てられているか自ら確かめようとしたことなど、‘悪の親玉’と思われている人であっても国民の生活状況を気にしていたという事実は見逃せません。(多分に受けを狙ったパフォーマンスであっても)
そんな戦争の一翼に担った日本国民を‘悪’である、総懺悔せねば、と言いたいわけではありません。
僕が考えるのは、日本国民が戦争を選択した理由がそこにはあるのではないか、ということです。どんな人間も自分で納得できないものには賛成をしません。
日本人という集団において戦争に賛成したのなら、そこには何かしら、彼らが納得できる理由がなければなりません。それがその時代にはあったはずです。


日本人が戦争を欲した理由、それは‘利益’だったのではないでしょうか。
太平洋戦争以前、日本は戦争に負けたことがありませんでした。
日清戦争日露戦争第一次世界大戦
日清戦争では、領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と、賠償金支払い(7年年賦で2億両(約3.1億円)、清の歳入総額2年半分に相当)、日本に対する最恵国待遇を獲得しました。
日露戦争では、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する、ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する、ロシアは東清鉄道の内、旅順−長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える、などを獲得しました。(賠償金を獲得できなかったことで当時の国民には多いに不満があったそうですが)
第一次世界大戦では、ドイツ領だったマリアナ諸島パラオ諸島カロリン諸島マーシャル諸島など南洋の島々を占領(1920年ヴェルサイユ条約に基づき統治開始)、中国山東省も獲得しました。さらに、輸出入の総額が1914年から1919年にかけて4倍近くも増加し、従来の輸入超過から輸出超過に転じ、大戦期を通じて超過額は14億円にのぼったそうです。成金がたくさん発生した、というのは教科書にも載っていましたね。
元老・井上馨の言葉が象徴的です。
「今回欧州の大禍乱は、日本国運の発展に対する大正新時代の天佑。」  
「東洋に対する日本の利権を確立せざるべからず」
(戦争終結後に不況になりましたが、戦争で好景気になった、という事実の方が記憶の上では優先されるのは、現代でも通用するのではないでしょうか。)


以上のような‘利益’を日本は戦争によって獲得してきました。
1894年〜1918年のたった24年の間で、です。
ここからも、当時の日本において戦争は‘利益’になるもの、という認識が広く共有されていても何ら不思議ではありません。
当然その裏で多くの日本人が亡くなっているのですが、
それでも‘利益’を戦争によって獲得した、という認識は強かったのではないでしょうか。
日本人の中に戦争に賛成する理由の一つがそこにあったのではないか、と僕は考えています。

そのような状況において、長谷川如是閑さんの「戦争絶滅受合法」がどのように受け入れられたのでしょうか。詳しいことは今の段階では僕には分かりませんが、恐らくメインストリームにはなり得なかっただろうと想像します。その後の、いうなれば「戦争絶滅受合法」とは真逆の方向に進んだ日本をみると、そう想像せざるを得ません。
そんな時代に長谷川如是閑さんは反戦争の意見を言い続けたわけです。他にも、石橋湛山さん、清沢洌さん、水野広徳さん、河合栄治郎さん、矢内原忠雄さんなども、反体制、反軍部、反戦争の著作物などを残しています。
そんな時代においての、反戦争という思想を持ち続け、発表する気力体力はいかばかりのものだったのでしょうか。想像するだけで身震いしそうなほど、多大なエネルギーが必要だったことでしょう。


現代において反戦争を思想とするジャーナリストは存在します。その数は戦前の比ではないでしょう。ジャーナリストのみならず、一般国民にもその思想は広く共有されています。先日の安倍政権による集団的自衛権容認の閣議決定に対する国民の反応をみてもそれは明らかでしょう。
なぜ一般国民にも反戦争が共有されているかと言えば、それは太平洋戦争における多大な被害の経験があるからでしょう。その経験において、日本人は「戦争はいけない」という思想を手に入れました。現在の反戦争を唱える人の言説を聞けば、「先の無謀な大戦において、日本人だけでなく、アジア諸国の人々にも多大な被害を与えてしまった。そんな戦争は二度としてはいけない」といった内容は必ずといっていいほど、ほぼ100%入っています。
現在の日本の反戦争論は、そんな日本人が共有する‘経験’に基づいています。
それを踏まえると、反戦争を唱える、ということは同じでも、戦前と現在では全く違うことに気づきます。
戦争に失敗した経験があるか、ないかの違いです。
戦前においては、戦争に失敗した経験がなかったわけです。
その中で反戦争論を唱えるのに必要なのは、「ひどい被害を被ったのだから戦争はいけない」といった経験即ではなく、もっと根源的な反戦争の論理であり、思考です。
「戦争は利益だよ」という人々に耳を傾けさせる力をもった強靭な思想こそ必要とされたのです。戦争そのものの愚かさ、非道さ、不利益さをしっかり思考、構築し、それを支柱とする必要があったはずです。
それは「あんなひどい目にあったのだから再び戦争をしてはいけない」という経験即からの論理よりもずっと思考を要するものです。
時間も、エネルギーも比ではないでしょう。
戦前、長谷川如是閑さんなど、反戦争を唱えた人々は、己の思考を鍛えに鍛え、まだ戦争に失敗した経験がない人々に対し反戦争を唱え続けたわけです。
自分に不利な環境にいながら、それを克服する思考を生み出すことを続けることは相当に大変であると容易に想像できます。
その姿勢には敬意を表すとともに、
そこに今後の反戦争論の‘種’があるのではないかと僕は思っています。


現在の経験に基づく反戦争論はそう遠くない将来力を失うと思います。
実際に戦争を経験された方々が高齢であることを考えれば、日本からそれらの人々が姿を消す時が必ず訪れます。
当然、戦争を経験していない人でも、受け継いだ経験に基づく話による反戦争論を構築することは可能でしょうが、それが大きな力を持ち得るかはまた別問題です。
やはり、現在の経験即による反戦争論は実際に戦争を体験した人々の口から語られる、それらの人々が実際に存在している状況において力を発揮するものだと僕は思います。
それらの人々が全ていなくなった時、その反戦争論は力を持ちうるか。
先述のとおり、僕は力を失うと思います。
その時に日本人はどのような反戦争論を唱えるようになるのでしょうか。
経験即のものに頼ってきた日本人がそれを構築することができるのか。
「世界状況が切迫している。よって自衛隊国防軍にする。核を保持する」
という言葉に対し、どのように対することができるのか。
僕の結論から言えば、‘経験’を失った日本人がそれに対するには、強靭な反戦争論を構築する必要がある、ということです。
「ひどい目にあった」という‘経験’に依らない、反戦争そのものに対する論理を構築すること。それが必要なのではないでしょうか。
当然、その論理から‘経験’を排除するのではなく、それも込みにしていく形で。
今からそれを用意しなくてはなりません。
それほど時間があるように僕には思えません。それを怠ると、気づいた時には
「世界状況が切迫している。徴兵制を敷きます」
という言葉に対抗できないことになるでしょう。
‘経験’に基づかない論理でその言葉に対抗できる状態にしておくことが必要なのです。
それに大きな助けになるのではないかと思うのが、
まさに長谷川如是閑さんをはじめとする方々の戦前の反戦争論です。
そしてその思考であり、論理です。
‘経験’のない状態で創られた、思考された論理がいまこそ大きな役割を果たすのではないでしょうか。
まさに‘種’です。
それを‘花’にするのは僕たちの役割です。80年前に蒔かれた‘種’をしっかり育てなくてはなりません。
これまで‘経験’に基づく反戦争論で頑張ってこられた方々の後を継いでいかなければなりません。
時代、状況にあわせた反戦争論を唱え、戦争そのものから遠い国にすることが受け継ぐ者の役割であると僕は信じています。