本と人との出会い方〜『人間の生き方、ものの考え方』福田恆存


「出会い」は豊かな萌芽を内包している、と僕は信じたい。
本と人の「出会い」にもきっとそれがあるはず、と僕は思いたい。



 僕が福田恆存を知ったのは、中島岳志さん(北海道大学准教授)を経由してのことです。


 ゆるゆると読書をしている中で、「中島岳志」という名前にたびたび出会うようになりました。「たびたび出る名」はチェックする、という僕ルールを発動させて、中島さんの著作や文章を読んでいたところ、「福田恆存」という名がちょいちょい出てくる。正直「なんて読むんだ?」と最初は思ったほどで、福田恆存についてそれまでまったく知りませんでした。「つねあり」と読む、とわかっただけでちょっと満足してしまったのですが、それで止められない欲求がその頃ありました。中島さんが福田恆存について言及する際のキーワードが「保守」というものでした。そしてまさにその頃の僕のメインこそ、その言葉だったのです。メインといっても大げさなものではなく、「保守というのをどういうものか知りたい」という阿呆のように開けた口から涎を垂らしながらの渇望であったのですが。2年くらい前のことですが、その頃いわゆる「保守政治家」がひどく大きな声を出しはじめたタイミングでした。「保守政治家」などは昔からいるわけですが、その頃ことさら声がでかくなってきたような彼らの印象が、「保守の意味を知らねばどうにもならん」という思いを駆動させました。「保守ってなんだ??ぼかぁわかりません」というわけです。


 そんな思いで中島さんが言及していた福田恆存著『人間・この劇的なるもの』(新潮文庫)をさっそく読んでみました。真面目に最後まで読んでみたのですが、正直何が書いてあるのかほとんど分かりませんでした。「保守」どころか、何が書いてるのだろう?? という感じ。誇張でも卑下でもなくほんとそんな感想でした。自分の頭の悪さにげんなりしたのですが、ただ「わからないけど、何か大切なことが書いてある」という思いだけは残りました。思いというより、確信といってもいい。「今はわからないけど、これ理解できたら世界が広がるな」という広い、広い空が暗闇を塗りつぶして創造されていくビジュアルがパッと浮かびました。それ以降、福田恆存は僕にとって特別な存在になりました。


 その後、福田恆存著『保守とは何か』(文春学藝ライブラリー)という、そもそもの僕の疑問に真正面から答えることが期待されるタイトルの本を手に取りました。文春学藝ライブラリー発刊記念本だったと思います。(2冊同時に出版され、もう一つは江藤淳著『近代以前』)この本は衝撃的でした。


 「私の生き方ないし考へ方は保守的であるが、自分を保守主義とは考へない。保守主義などといふものはありえない。保守派はその態度によつて人を納得させるべきであつて、イデオロギーによつて承服させるべきではない。」


 「保守ってなあに??」に真正面から答えてくれた言葉です。この言葉によって、「保守の一端を掴んだ」だけではなく、「保守の豊潤さも知り」ました。それは一つの安心でした。


 僕がそもそも「保守」について興味を持ったのは、先にも書きましたが、声が大きくなってきた、いわゆる「保守政治家」を見るにつけ、「保守ってこういう人たちのことを言うの??」という疑問からでした。その疑問には、言葉の意味そのものに対するものもありましたが、「ほんとに??」という懐疑も含まれていました。つまり、「保守ってそんなに狭いものなの??」であり、「こんなアホなものなの??」という思いもあったのです。その頃声が大きくなってきたいわゆる「保守政治家」の所作、言動をみていると、一片の品も感じることができませんでした(今はもっとひどくなっているようですが)。そのあまりにひどさに、昔からある(と感じさせる)「保守」はこんなもんであるはずがない、という直感がありました。その直感に引用部分は真っ直ぐに答えてくれました。
「保守は態度である」
この言葉に安心感を覚えました。「保守」の懐の深さがそこにはあり、「あんなの保守じゃないよ」といわゆる保守政治家と一線を画す態度をそれこそ示しているようでした。
 

 しかし、この本はそれだけではありませんでした。自分の前もっての疑問に答えてくれる本というのは、とても有難いものですが、その後の自分にとって大切な本になるにはそれだけでは足りません。新たなことを教えてくれる、ということも特別な本になる要素になりますが、「自分のそれまでを更新してくれる」ということも重要な要素になります。「自分のそれまでを更新してくれる」を簡単にいえば、「お前のその考え、解釈は間違ってるよ」という鉄槌です。『保守とは何か』はその連続でした。言葉の解釈、考え方の甘さ、未熟さ、浅さ。それらを感じる連続でした。脳みそをキックされ続ける経験。読み終わったときはもうふらふらでした。それ以来、福田恆存という存在は僕にとって、「脳みそをキックしてくれる人」となりました。


 『人間の生き方、ものの考え方』はそもそも買う予定にないものでした。本屋さんに『南の島に雪が降る』(加東大介著・ちくま文庫)を買いにいったときに、平積みになっていた『人間の生き方、ものの考え方』を発見したことがきっかけでした。思わず手に取りパラパラしました。その時、一瞬ふと客観的に自分をみつめました。「なぜこの本を手にとっているのか?」という疑問をもって。それはまさに一瞬で、実はそのことは自分でも分かっていたのです。「僕が福田恆存を欲望しているときは、脳みそにキックをいれてほしい時である」と。自分の考えや言葉の範囲が狭くなっていたり、硬直化しているときに「お前はアホか」という脳みそへのキック。自分がそんな状態のときに、福田恆存は光り輝いて僕の視線に飛び込んできます。『人間の生き方、ものの考え方』もそんな輝きを持って飛び込んできました。


「秩序を守るために、(略)当然犯さなければならない悪というものがある。それに耐えてゆく、それが思想というものだと思います。政治というものはなんらかの意味で悪を犯さなければ成り立たない。ある時は嘘もつかなければ成り立たないのです。政治にかぎらずあらゆる思想というものはそんな悪を持つています」


という帯の文章を読んで、いきなり脳みそを揺らされながらレジへ向かったのでした。