安倍氏は‘保守’か??

安倍総理大臣を‘保守’と称すのは、日本社会において(世界的にもでしょうか)一切の疑問を差し込む余地がないかのような「定説」となっています。
そもそも‘保守’とはどういう意味なのでしょうか。
辞書で引いてみます。


[保守]
1 正常な状態を保つこと。「休業時も機械を―する」「線路の―点検」
2 旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとすること。また、その立場。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/203948/m0u/%E4%BF%9D%E5%AE%88/


政治的に使われる‘保守’は2の方ですね。
これに習うと、安倍氏、政権は、旧来の風習・伝統・考え方を重んじて守っていこうとしている、ということになります。
「まあ、そうだよね」とうっかり思ってしまいそうですが、それは本当でしょうか?
安倍氏は‘保守’なのか?
僕の考えではNOです。安倍氏は‘保守’ではない。それどころではない、その反対の‘革新’政治家です。


安倍氏が現在最も力を入れていると思われる集団的自衛権容認の解釈変更がその象徴です。
集団的自衛権という概念が世界的に初めて登場したのは、
1945年の国連憲章第51条のようです。


国連憲章 第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。」


まさに第二次世界大戦が終わった直後に出てきた概念のようですね。
日本政府の集団的自衛権に対する見解も当然その後に登場してきます。
そして積み重ねた日本政府の集団的自衛権の一つの到達点として、
国際法保有しているが、日本国憲法上行使することができない」
という考え方が定着しています。
それを表明したのが、1981年の政府答弁です。

[1981年政府答弁]
国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利を有しているものとされている。
我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている。
なお、我が国は、自衛権の行使に当たつては我が国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することを旨としているのであるから、集団的自衛権の行使が憲法上許されないことによつて不利益が生じるというようなものではない。
http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumona.nsf/html/shitsumon/b094032.htm


これが戦後日本政府が積み重ねてきた集団的自衛権に対する考え方です。
安倍氏の祖父である岸信介氏も集団的自衛権に関して「行使できない」とはっきり発言しています。

[1960年2月10日の参議院本会議での岸首相の答弁]
「自国と密接な関係にある他の国が侵略された場合に、これを自国が侵害されたと同じような立場から、その侵略されておる他国にまで出かけていってこれを防衛するということが、集団的自衛権の中心的の問題になると思います。そういうものは、日本憲法においてそういうことができないことはこれは当然でありまして、そういう意味における集団安全保障というものは、ないのでございます。」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/minaminoshigeru/20140304-00033189/
(「岸内閣が集団的自衛権を容認する答弁をしたというのは本当か?」南野森さん)


安倍氏はこの日本政府によって長年積み重ねられてきた解釈を変更しようとしています。
その姿勢は、
「旧来の風習・伝統・考え方などを重んじて守っていこうとすること。」
なのでしょうか?
僕には逆に思えてなりません。
「旧来の風習・伝統・考え方などを軽んじて破壊しようとしている。」
のではないでしょうか。
安倍氏にとって「脱却すべきもの」である戦後は、日本の歴史に入らないのかもしれませんが、一般的にはそうはいきません。
戦後も立派な日本の歴史です。日本の風習であり、伝統であり、考え方の一部です。
安倍氏はそれを否定しようとしています。
戦後69年の日本の歴史を否定しようとしています。
塗り替えようとしています。革新しようとしています。
彼は戦前日本を保守しようとしているのかもしれません。
それだから戦後から脱却したいのかもしれません。
しかし、戦前も戦後も含めて日本です。
一時代だけ都合よくなしにする人間に歴史を語る資格はありません。
彼が本当の保守であるなら、戦後も保守する行動をとることでしょう。
それは全くなにも変えないということではありません。
保守の真骨頂は、後生大事に以前からあるものを無思考に抱きかかえることにあるのではなく、以前からあるものに対して敬意をもって対応すること、にあると僕は考えています。
敬意の欠片もない方法で集団的自衛権の解釈変更をしようとしている安倍氏には、
保守を名乗る資格はない、と僕は思います。
ドラスティックに現状を変更すること=革新こそ、彼にふさわしい呼称ではないでしょうか。
まあ、集団的自衛権の解釈変更を出すまでもなく、自民党憲法案を見れば、
彼はもちろん、自民党が‘革新政党’であることははっきりしていますが。


そう考えると、現在の保守とは共産党社会党系である、というちょっと驚くような結論に行き着きます。
護憲であり、集団的自衛権の解釈変更反対であり、武器輸出解禁反対と、
戦後の日本政府の見解を保守しろ、と彼らは言っていますから(笑)。


別に「安倍氏が革新である」と言ったところで、何が変わるわけでもありません。
彼は保守だろうが、革新だろうが、集団的自衛権解釈変更に邁進するのでしょうから。
ただ、前提の前提のようなものが間違えていると何だか気持ち悪いだけでなく、
ボタンの掛け違いがいつ起こっても不思議ではないような気がします。
安倍氏は革新である」
という考え方から何がみえてくるのか。密かに注目してみたいと思います。





超党派146議員が靖国参拝、新藤総務相も12日に続き参拝」
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140422/stt14042209550002-n1.htm
安倍氏への忠誠心の表現なのでしょうか。
夏に内閣改造があるらしいので、そこへのアピールに思えてなりません。