まど・みちおさん、童謡「ぞうさん」

まど・みちおさんが、2月28日に104歳で亡くなりました。
104歳。ただただすごいです。
想像もつかない時間です。1909年、明治42年の生まれですね。
伊藤博文氏が殺された年で、2年後には大逆事件です。
5年後には第一次世界大戦です。‘歴史’ですね。
明治、大正、昭和、平成を生きた方が亡くなりました。


まどさんは、数々の童謡、詩を創作されていますが、その中でも童謡「ぞうさん」は日本人の誰もが知る作品ではないでしょうか。



<歌詞>
ぞうさん ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ かあさんも
ながいのよ


ぞうさん ぞうさん
だれが すきなの
あのね かあさんが
すきなのよ



この童謡について、3月1日(土)放送のTBSラジオ永六輔その新世界」に出演されていた毒蝮三太夫さんがコメントをしていました。
「まどさんが亡くなったね。「ぞうさん」っていう童謡の歌詞、


ぞうさん ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ かあさんも
ながいのよ


ってのがあるけど、これおかしいよね。鼻が長い理由になっていないよ」
といった内容でした。(蝮さんのまどさんに対する敬意は充分にありました)
実際、鼻が長い理由は直接には歌われていません。蝮さんのおっしゃることももっともです。
ただそう思うと同時に、もう一つのことを思いました。
「この童謡は、中心を自分ではなく、童謡自体におくことを意図されたものなのではないか。つまり、自分の言葉、考えはとりあえず置いておいて、童謡自体=他者を中心にすることの実践なのではないか」
ということでした。
「意味がわからない」「明確な理由がない」などは、自分「が」意味が分からない、自分「にとって」明確な理由がない、といった、あくまで自分を中心とした見方です。
この童謡は、その方法をとる限り出口のない迷路になるのかもしれません。
それは蝮さんのコメントの通りです。「何だか変だよね」と。


その出口のない迷路を回避する方法が一つあります。
それは、歌詞を基準にして、その歌詞がおかしくないようになる思考をすることです。
鼻が長い理由がかあさんの鼻が長いから、で問題のないように思考することです。
あくまで歌詞を基準にして、自分の側が変わることです。
歌詞を中心にして、その周辺を自分が回る印象でしょうか。
具体的には、
「遺伝の力強さを示している」「蛙の子は蛙」
などを思いつきます。


童謡という性格上、幼児、子供を主な対象としているのでしょう。
そんな童謡の中で、「他者を中心とした見方(自分は従者)」という極めて知的なことを、まどさんは表現されたのではないかと思ってしまいました。
幼児、子供にこそ、その見方は必要とまどさんは思われたのでしょうか。
幼児、子供のうちに、その見方を感じさせておくことの重要性をまどさんは感じられたのでしょうか。
僕にそれを知る術はないのですが、生きる中で「他者を中心とした見方(自分は従者)」はとても重要なことだと思います。



合掌