今日の一作〜映画『ハンナ・アーレント』

※ ネタバレあり


昨年のことですが、話題になっていた作品です。
高崎市でやっと公開になりました。たかさきシネマテークという小さいけど、良質な映画を上映する映画館で。
今日観てきました。


<あらすじ>
誰からも敬愛される高名な哲学者から一転、世界中から激しいバッシングを浴びた女性がいる。彼女の名はハンナ・アーレント、第2次世界大戦中にナチス強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人。
1960年代初頭、何百万ものユダヤ人を収容所へ移送したナチス戦犯アドルフ・アイヒマンが、逃亡先で逮捕された。アーレントは、イスラエルで行われた歴史的裁判に立ち会い、ザ・ニューヨーカー誌にレポートを発表、その衝撃的な内容に世論は揺れる…。
公式ホームページより(http://www.cetera.co.jp/h_arendt/introduction.html



ナチスの大物戦犯アドルフ・アイヒマンが捕まるところから始まります。
彼を‘怪物’とする(したい)世論と、‘凡庸’とするハンナ・アーレントの対立が物語の大きな軸となっています。
ただそのことは物語の軸ではありますが、主題ではないのだと僕は思いました。
それでは主題は何か??
それはただただ
「思考し続けろ」
というハンナ・アーレントの思いだったように思います。
それを単に「思考することは大切だ」と言ってしまっては面白くありませんし、
それは「思考し続けろ」とは別の意味になってしまいます。
「思考することは大切だ」なんていう手垢のついた教訓じみたものには、ヒリヒリするような現実感はありません。朝礼における校長先生の訓話のような感じがします。
対して、「思考し続けろ」には終わりがありません。終わりがない、ということは常に現実のものとして受け止める必要があるということです。言わば、常に考えろ、という心身から離すことのできない命令です。
訓話と命令ほどの違いが、この二つにはあります。


ハンナ・アーレントは「思考し続けろ」と命令します。


それでは「思考し続けろ」とはどのようなことなのでしょうか。
それを思考する必要があります。
「思考し続けろ」とは、文字通り、考えをやめるな、ということです。
思考はある基準を設定することから始まります。
どこから思考をはじめるか、ということです。一般的に、思考する、とは、
その基準から深化していくものと言えるのではないでしょうか。
一歩一歩ずつ進むように、一つ一つずつ積み重ねるように前へ進むイメージがあります。
それをすることで新たなことを思いついたり、発見があることでしょう。
それも立派な思考だと思います。
しかし、「思考し続けろ」という命令に対し、前進のみで実行できるのかと言えば、
僕は難しいのではないかと思うのです。
その前進には行き止まりがあるように感じるからです。
天才的な人にはそんなものないのかもしれませんが、僕自身のことを考えるとその行き止まりは確実にあります。
行き止まりに突き当たった時、その思考は終わってしまいます。
つまり、「思考し続けろ」という命令を実行できなくなってしまいます。
それではどのようにすれば「思考し続けろ」を実行し続けることができるのか?
それに対する僕の回答は、
「思考を始める基準を一端放棄し、後ろに進んで新たな基準を獲得せよ」
ということです。
分かりにくいので、映画『ハンナ・アーレント』の例をあげます。


ハンナ・アーレントアイヒマンの裁判傍聴記を書くのですが、
その内容が雑誌に発表されると、たちまち世間から非難を浴びることになりました。
その主な理由は次の二点です。


アイヒマンを‘怪物’ではなく、‘凡庸’と捉えた
ユダヤ人指導者の中で、ナチスに協力した者がいた


以上の点において強烈な非難を浴びたわけです。
それは、


アイヒマンは‘怪物’であるので、‘凡庸’であるはずがない
ユダヤ人は、絶対的な被害者であるので、加害者であるはずがない


という考えが社会的常識だったことによります。
その常識にハンナ・アーレントは反したわけです。
古くからの彼女の友人も激しい非難を彼女に浴びせ去っていったくらいです。
ハンナ・アーレントの思考の開始基準と、社会的常識のそれとは大きく違います。
端的に言えば、「前提があるか、ないか」です。
ハンナ・アーレントは前提を作ることなくアイヒマンの語ることに耳を傾け、裁判から明らかになる事実から目を背けなかったのに対し、
社会的常識は、アイヒマンが語ることを‘怪物’の言葉として聞き、‘ユダヤ人は絶対的被害者である’という考えにより裁判から明らかになる事実が目に入らなかった、と言えます。
ハンナ・アーレントの方が、思考の開始基準を後ろに進めていたわけです。前提を破壊していたわけです。それにより、自ずと彼女の思考は射程距離を長くなり、深淵なものとなったのです。基準を後ろに進めるということは、ただ後ろに進んだ分だけ思考の射程距離を長くするのではなく、前方の行き止まり地点をもより遠くにする効果があります。前提を壊し、そのさらなる後ろから出発することで、思考そのものが大きく変化するからです。
ここまでくると「思考し続けろ」が何となくわかるような気がします。
そう、「思考し続けろ」の肝は、前に進むこと以上に、後ろに進むことにあるのだ、
と僕は考えます。
前提を前提とせず、さらなる前提を求めよ。その前提も破壊されるべきものであることを認識して。
その方法によって「思考し続けろ」という命令を実行することができるのではないでしょうか。



「思考し続ける」作家を僕は知っています。
橋本治さんです。
橋本さんは『「分からない」という方法』という本の中で、
「‘分からない’ということから始める」といった内容のことをおっしゃっています。
‘分からない’とは、全ての前提を壊した後に残る、言わば‘根源’です。
橋本さんは、「根源から考え始めなさい」とおっしゃっているのです。
それは橋本さんの小説、エッセイ、評論を読めばたちまち納得できます。
ほとんどの人がそこに立つことを疑問視しないような前提を壊すどころか、
無視してもっと後ろの基準を設定している文章ばかりだからです。
だから、橋本さんの書かれる文章は思考しっぱなしです。
常に思考のうちに展開される刺激的な文章です。
「思考し続けろ」という命令を実践されているように僕には感じられます。



ハンナ・アーレントは「思考し続けろ」と命令します。
「思考しろ」ではなく、「思考し続けろ」です。
そのことによって、
「絶望的な状況をも乗り越えることができる」
と彼女は言います。


今、自分がどこの基準から思考を始めているのか。
そのことを常に意識することからそれは始まるのではないでしょうか。