「感動をありがとう!」異論

高倉健さんが文化勲章を受章された」という記事がありました。

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日本映画界を代表する俳優として活躍している高倉健(82)が、文化勲章受章にあたってコメントを発表した。全文は次の通り。
 映画俳優として58年、205本の映画に出演させていただきました。
 大学卒業後、生きるために出会った職業でしたが、俳優養成所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と言われる落ちこぼれでした。それでも「辛抱ばい」という母からの言葉を胸に、国内外の多くの監督から刺激を受け、それぞれの役の人物の生きざまを通して社会を知り世界を見ました。
 映画は国境を越え言葉を越えて、“生きる悲しみ”を希望や勇気に変えることができる力を秘めていることを知りました。
 今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。
 映画俳優・高倉健を支えてくださった多くの方々に、深謝申し上げます。どうもありがとうございました。

http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20131025-1208697.html
日刊スポーツ [2013年10月25日11時36分]


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僕は高倉健さんの任侠映画が大好きでよくDVDで観ています。
『昭和残侠伝』シリーズでの、池部良さんとの絡みが最高です。
網走番外地』シリーズも大好きです。
任侠もの以外でも『幸せの黄色いハンカチ』、『動乱』、『八甲田山』、『あなたへ』など、出演作品は好きな作品です。
どんなジャンルの映画でも、どんな役を演じても、
全てがまさに‘高倉健印’です。
いわゆる‘不器用な男’が、高倉健さんの役どころです。
これによってあたかも高倉健さんが‘不器用な男’そのものであるかのような感覚に陥っていますが、実際のところどうなのでしょう。
僕には高倉健さんがどんな人なのか分かりませんが、
改めて考えてみても何だかやはり‘不器用な男’と自然と認識してしまっているようです。
ここまで映画の中での役と一体と認識されている役者も珍しいように思います。
恐らく世界でも稀少な部類の役者なんじゃないかと思います。
高倉健さんの唯一無二性はそんなところにもあるのかもしれませんね。


高倉健論を書きたいわけではなかったのでした(笑)。
冒頭に引用した高倉健さんの言葉が、いたく身にしみたので、そのことについて書きたいと思います。
この言葉、ぐっときました。


「今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。」


僕は人の言葉や本の記述、映画の台詞など、インプットされるものなら何でもなのですが、残念ながらそれを受け取った瞬間に理解することがなかなかできません。
「何か気になる」ことしかできません。
それをずっと頭の中に分かる時がくるまで、言葉で説明できる時がくるまで、取っておくことを習慣にしています。
「いつか分かる時がくる」という期待とともにですが、
その時がこなかったり、忘れているものもたくさんある、と思います(笑)。
なにせ忘れているのだから判断のしようもないのですが。
上記の健さんの言葉もそんな「何か気になる」ものでした。
どこが気になったかと言えば、


「感動する心を養い続けたいと思います。」


という箇所です。
「何か気になる」と思うものは、何かしら現在自分が気になっている、考えているトピックに関係しているものです。
「何か気になる」という現象が、自分が現在何かを気にしている、考えていることを事後的に自分に気付かせる、ことがあります。
「何か気になる」ものを発見することで、自分が気になっているもの、考えているものを思い出す、といった感じです。
気になっている、考えているのだから、常に認識していないはずがない、
と言われればそれまでですが、僕は自分が気になっているものや考えているものをよく忘れているので、人の話や本の記述などに触れて「何か気になる」ものを発見することでそれらを思いだす、ということがけっこうあるのです。
健さんの上記の言葉が僕に何を思い出させたのか。
それは、
「感動を欲する人々」
についてです。


スポーツやノーベル賞など社会的偉業、素晴らしい演劇などについて、
ここ10年ほどでしょうか、きまって
「感動をありがとう!」
という言葉で祝福する習慣を世間はもつようになりました。
テレビやラジオ、新聞など、メディアに登場する一般の方々の感想の中には必ず「感動をありがとう!」といった類いのものがあります。
いつ始まったのか知りませんが、ある時メディアにこの言葉が登場し、
それを見た人たちが使うようになり、それをメディアが選択的に取り上げることで、世間に「感動をありがとう!」が溢れていった、という経路を想像しますが、その甲斐あってか、今や決まり文句のようになっています。
決まり文句になるほどですから、その言葉が心地良いのでしょう。
自分の気持ちを代弁できる言葉としてちょうど良いのでしょう。
そうでなければ、すぐに使われなくなっているはずです。
残っているということは、使い勝手がいいことを証明しています。
どのような点が使い勝手がいいのか??
それを推察してみたいと思います。


まず「感動をありがとう!」の前提として、
「感動はもらうものだ」という認識があることがうかがえます。
「ありがとう」とお礼を言っているわけです。
お礼を言うのだから、何かしてもらった、という認識なのでしょう。
何をしてもらったのかと言えば、「感動をいただきまして」というのが自然です。
この文脈における感動というものはどこかからか降ってくるもの、のようです。
一見これは感動をくれるものに対しての敬意のように思えます。
お礼を言っているわけですから。
しかし、本当にそうなのでしょうか。
僕には何だかある種の「身勝手」をここから感じられてなりません。
一瞬で「ありがとう!」と言っている態度を豹変させそうな恐さを感じるのです。
その態度を豹変させるポイントは、「条件付き」になった時です。
感動をするためにこなさなければならない条件が課された時、
「感動をありがとう!」と言っていた人たちは、波が引くようにさーっとその言葉を捨ててどこかにいってしまうのではないかと恐怖します。
僕はこの態度に「身勝手」を見ます。


感動をするためにこなさなければならない条件を具体的に言えば、
例えば、富士山の朝日は感動すると思いますが、そのためには自分で登らなければなりません。それが条件です。
例えば、樹齢1,000年以上の縄文杉は見たものの人生観まで変えてしまう程の感動があるなどという話を聞きますが、それを見るためには時間とエネルギーとお金を使わなければなりません。それが条件です。
これらのように何か自分がすることが条件の感動に対しては、
「感動をありがとう!」とはいう言葉は普通使われません。
自分の努力の末に獲得したわけです。誰かからもらったわけではありません。
もらうことを前提とした「ありがとう!」という言葉はここではふさわしくありません。
逆に言えば「感動をありがとう!」には、そもそも自分の労力(=条件)は前提とされていないのです。


ここまでくると「感動をありがとう!」に何か付け加えたくなります。
こういうのはどうでしょうか。
「感動をありがとう!私は何もしていないけど」
さらに付け加えるなら、
「感動をありがとう!私は何もしていないけど。あ、もし何かしなくちゃなら遠慮しますね〜」
としたいです。
ここまでくると、敬意どことか、かなりの身勝手さが表面化してきます。
実際、「感動をありがとう!」という言葉には、身勝手さが腹蔵されているのです。
「感動はもらうものだ」という認識がそもそも身勝手なのです。
その身勝手さは、感動をもらえるものなら何でも良い、という軽薄さを持ち合わせ、スポーツや芸術のみならず、災害にすら「感動をありがとう!」を持ち込みます。
先日の横浜市での女性がお年寄りを助けようとして起こった線路事故などはその適例ではないでしょうか。各ニュース番組での取り上げられ方、事故踏切付近に手向けられた大量の花束、警視庁による警察協力章の授与、そして何より安倍内閣による感謝状授。
決して誰もこの事故に対して「感動をありがとう!」という言葉は使いませんが、メディアの取り扱い方、それを受ける世の中の雰囲気は、紛れもなく「感動をありがとう!」だったように僕には感じられました。それを敏感に察したのが安倍内閣だったように思えます。


そして、身勝手さはさらなる躍動感をもってすぐさま次なる感動を求めます。
テレビのチャネルを変えて、ネットサーフィンをして、雑誌をみて。
労力といえば、リモンコを押す、マウスをクリックする、ページをめくるくらいです。まあそんなものは労力とは言いませんが(笑)。
限りなく少ない労力で、いかに大きな多くの感動を味わうか。
そんな自分の身銭を切らないゲームを好む人が発する言葉こそ、
「感動をありがとう!」なのです。


「感動をありがとう!」という言葉を好んで使う人は、
あくまで感動は自分に寄ってくるものであり、自分が労力かけて寄っていくものではない、という認識なのです。
まさに冒頭にあげた健さんの言葉


「感動する心を養い続けたいと思います。」


の対極です。
この言葉には「感動はもらうもの」などという身勝手さは、1mmもありません。
感動するために自分の心を養う=感動は身銭を切って自分で獲得するもの
という力強い宣言がここにはあります。
花を見て何も感じなかった自分が、心を養うことで花に感動する。
花は何も変わっていません。変わったのは自分の心です。
自分の労力による心の修養によってです。
自分が動き回り、そこにずっとあった花に感じ入るようになったのです。
そして、自分の心を修養し、花に感動できる心を獲得することで、
その花に対して究極の敬意を抱くことができるようになるのではないでしょうか。
これは、「‘他’を中心とする」考え方です。
素晴らしき‘他’の中で、いかに自分を引き上げるか。
自分はあくまで「引き上げる」対象です。
その場で待っていて良いものではありません。
絶えず修養し、‘他’に追いつくべきものなのです。


これは、自分を中心とし、他が降ってくるのを待っている「感動をありがとう!」とは真逆です。
自分ではなにもせずに、ネタとして感動を求める人とは真逆です。



健さん
「感動する心を養い続けたいと思います。」
という痛切なる思いに裏打ちされた力強い宣言が、
日頃「なんか嫌だなあ」と感じていた「感動をありがとう!」について僕に再認識させ、考えさせました。そんな言葉に出会えたことは喜びそのものでした。