芸術の役割


芸術とは一体どのようなものなのでしょうか?
それは、作り手にとっての芸術ではなく、受け手にとってのそれという意味で。
芸術には、文学、絵画、音楽、写真など、様々な形態があります。それら全てに共通する芸術の役割とは一体どのようなものなのでしょうか? それとも、そもそもそんなものあるのでしょうか?


本を読む、絵を観る、音楽を聞く、映画を観る、写真を観るなど、芸術に触れることは、その人に様々な感情を引き起こします。「楽しい」「好き」「嫌い」「好きでも嫌いでもない」など、人それぞれのことを感じます。
芸術に触れる前と後では、その人は別人になります。それは芸術によって引き起こされた感情によってです。例えば、ゴッフォの「ひまわり」を鑑賞して、「流動感が良い」「くぐもった黄色が良い」などを感じとします。それらを感じた後は、感じる前とは違う人間です。「ゴッフォ的流動感が良い」と自分が感じることに気付いた人と、それに気付いていない人という違いです。これは大きな違いです。なぜなら、気づいた人はその後の行動がそれを前提としたものになるからです。「ゴッフォ的流動感が良い」と感じる自分に気付いた人は、日常生活の中でそれらしいものの存在を無意識にでも探します。つまり、「ゴッフォ的流動感が良い」と感じる自分に気付いた人の目で世の中を見るようになる、ということです。その視線は、「ひまわり」鑑賞前には存在しなかったものです。


様々な芸術に触れることで、自分の好悪に何度も何度も気付かされます。換言すれば、芸術とは、人に自身の好悪を気付かせるものです。「こういうのが好き」「ああいうのは嫌い」芸術は人に好悪の判断を迫ります。そして、その判断を基準にして人は世の中を見て、生きていきます。
自分の好悪に気付く回数を重ねた人、つまり芸術に数多く触れて来ている人は、自分の幸せについて自覚的です。自分にとって何が心地よくて、何が気持ち悪いかを知っているので、明確な道を歩くことができるからです。そしてそれは、自分が何者であるかを知る、ということでもあります。
芸術によって人は自分の好悪を気付かされ、自分が何者であるかを知ります。


そのような「自分自身の認識」は、自分の外部で起こっている世の中の事がらへの認識にも影響を与えます。芸術によって気付かされた自分の好悪は、その回数が増えれば増える程グラデーションがきめ細かくなります。大雑把に「赤が好き」だった人が、数多くの絵を鑑賞することで、「暗めの赤が好き」になり、「陰影の中に仄かな明るさがある赤が好き」になった時、その人の赤の認識は重層的なものになります。そしてその過程は、些細な差異に気付くという実践に他なりません。ちょっとした差異に対して、言葉にはできないけど何かを感じる。そんな実践を芸術は人に与えます。
その実践は芸術鑑賞についてだけでは、当然ありません。日常生活の様々なこと、例えば、友達や上司の話、起こった事件、事故、政治などに対して、些細な差異を感じることにも通じます。政治家の言葉に対して、「よく分からないけど、何か怪しいことを言っている」という直感は、芸術によって与えられた実践の成果と言えます。そしてその成果は、社会で生きることをせざるを得ない人間にとって、極めて重要なことなのです。社会に何の関心がなくとも生きてはいけます。しかし、その人は社会に対して無関心であるがために、いつも他人が決定したことに従わなくてはなりません。自分の有利であろうが、不利であろうが。それが嫌だと思うなら、社会に自分から関わる以外に方法はありません。何も公務員になれ、とか、政治家になれとか言うわけではありません。常に社会に関心をもち、チェックをし続けるという関わり方です。それにより、社会を心地よいものにし、生活を円滑なものにし、自分の人生を生きやすいものにすることができるのです。僕はそう信じています。そのための根源が、自分の好悪に気付かせてくれ、物事の些細な差異を感じさせる実践を与えてくれる芸術なのです。
芸術は決して、余暇のためのものでも、心を豊かにするものでもありません。そんな軽率なものではない。社会に、生活に、人生に大きな影響を及ぼす、重厚なものなのです。


芸術にはしっかり役割があります。
なぜ、何千年も様々な芸術を人間は創り続けてきたのか。そしてそれらを愛でてきたのか。
そこには、食べる、寝るなど、人間に必須な活動と同等なものとして受け止められてきたからではないでしょうか。
余暇のためのものであるなら、とっくの昔に消えてしまっていても何ら不思議はない。僕はそんな風に思います。