「芸術」を考える

フリーマガジンを作りたいなあと思っています。
クーポン券とかお店情報ではなく、
自分たちの手による絵や文章、詩、俳句、写真など、
芸術系に特化したものを。


それをするには、もう一度自分なりの「芸術」を考えなくてはいけない、と思いこれを記すことにしました。



「芸術」
(もちろん「僕にとって」という言葉を頭につけますが笑)


ここでいう「芸術」は、
作り手の方ではなく、受け手の方にとって、になります。
「受け手にとって芸術」です。


芸術といっても、その範囲は人それぞれです。
本や絵画、音楽、映画などは多くの人が芸術と認めるでしょうが(作品単位での評価はここではおいといて)、例えばマンホールやゴミの山は芸術かどうかと言えば、多くの人は「違う」と言うかもしれませんが、中には「芸術です!」と言う人もいるかもしれません。ゴミの山を見て100人いて1人しか「芸術です」と言わなくても、その1人にとってはそれは紛れも無い芸術なわけです。
そして、残り99人はそれを否定することはできません。
芸術とは「どうぞご自由に」の世界のものです。


ただ、その対象がなんであれ芸術には共通しているものがあります。
絵画に対して、映画に対して、音楽に対して、マンホールに対して、
「心を動かされる」
ということであり、これが芸術の必須条件です。
何であれ「心を動かされた」時点で、その対象は芸術になります。
つまりは、芸術は「心を動かす」ものと言えます。


ここで「心を動かす」の意味を辞書で確認してみます。


1 感動する。心を打たれる。「熱演に―・される」
2 興味をさそわれる。「近ごろは株式に―・している」
3 気持ちが落ち着かなくなる。心を乱す。「絵にかける女(をうな)を見て、いたづらに―・すがごとし」〈古今・仮名序〉


http://kotobank.jp/word/心を動かす



この稿での意味は、
1 感動する。心を打たれる。
になりますね。
自分が感動する、心を打たれるものが、芸術となるわけです。
感動、心を打たれるは、陽性の感情です。
それには涙が伴うかもしれませんし、笑顔が伴うかもしれません。
いずれにせよ、陽性です。
その陽性感情は、いずれ「好き」という陽性感情の中の原型のような感情に行き着きます。
感動するもの、心を打たれるものは、例外なく自分の「好き」にカウントされます。感動するもの、心を打たれるものに触れるごとに、自分の「好き」の数が増えて行きます。そして、いつしかそれら「好き」を見渡して、「自分が何を好きなのか」に気付きます。


「好き」は最初から自分の中にあるものではありません。
自分以外のものに触れる中で、「自分はこういうのが好きなんだ」と気付いて行くものです。
自分以外のものに触れる数が多ければ多い程、自分の「好き」は細分化され、
より自分は何が好きなのかがはっきり明確になっていきます。
「好き」は他者より事後的に知らされるものなのです。


そして、自分の好きなものに気付く過程は、
「自分とは何者か??」の疑問が段々晴れて行く過程でもあります。
自己紹介の場面を思い出してみると、
そこで語られるものは、ほとんどが自分の好きなものについてです。
「趣味は読書です」「好きな食べ物はカレーです」「好きな動物は猫です」
形は違えども、自分の好きなものについて語ることで、
自分を他人に紹介するのが、自己紹介です。
日本はもとより、世界どこにいってもこれは変わらないでしょう。
このことが示していることは、
 自分というものは「好き」の総体によって説明が可能
ということです。
つまり、自分の好きなものが自分で分かっていればいる程、
「自分は何者なのか??」の疑問を晴らすことに近づけるというわけです。
「自分が何者なのか??」を知るには、自分の多くの「好き」に気付くことです。
それは「好き」の源泉となる、感動するもの、心を打たれるものにたくさん触れることによる、ことを意味します。
つまりは、芸術にたくさん触れることです。
感動するもの、心を打たれる芸術にたくさん触れることで、
自分の「好き」を獲得していくことが、「自分は何者なのか??」を知ることでもあるのです。
芸術の中に自分があります。



 ここで話を少し戻して、「心を動かされる」についてもう少し考えてみたいと思います。その意味は既にみましたが、そもそもなぜ「心を動かされる」のでしょうか? 感動する、心を打たれるという言葉に分解しましたが、それらは自分の思いもよらない、事前に想像もしないことが基本のような気がします。
事前に知っていたら感動しない、という表現は抵抗なく入ってきます。
感動するとは、言わば、一昨日の方向からガツンとやられることと認識されているものと思います。
しかし、もう少し細かいとこで見てみると、「思いもよらない」を前提にすると思われている感動することも、実は前触れがあるのではないかと思うのです。
それははっきりと認識するというレベルではありませんが、確かにその前触れはあるのではないでしょうか。
それは当然「理解する」といったはっきりとしたものではなかく、
言わば「気付く」といった程度のあやふやなものだと思います。
ここではっきりと認識してしまっては、事前に想像できてしまい感動はありません。
「気付く」といったあやふやなものにより選択されることで、
感動するという現象が起こるのではないでしょうか。
何に「気付く」のかと言えば、他のものとの「差異に気付く」ことであり、
それにより「他とは違う特別なもの」に対して、感動するという経路なのではないかと思います。
瞬時に判断される「差異に気付く」ことにより、感動するものを選択しており、逆から言えば、感動するものとは「差異の気付き」によって特別なものと認識されたものに対して起こる現象である、ということです。
つまり、感動する=芸術とは、「差異に気付く」と言えるのではないでしょうか。
芸術に触れる回数が増えれば増える程、「差異に気付く」回数も増えます。
それは芸術が、「差異に気付く」ことを要請することを意味し、
芸術に触れる人に対して、「差異に気付く」ことの実践を課します。
芸術に触れることで、微妙な「差異に気付く」訓練がなされるわけです。



 百年の戦もなさん春は来ぬ
   世の民くさよ歌ごころあれ
         『宮本武蔵8巻』吉川英治 新潮文庫 P468


このような歌が『宮本武蔵8巻』にありました。
昔の戦場となった場所にあった石に掘られていた歌です。


「長い間戦が続いて春もこない感じだ。
 そんな時でも歌を愛でる心はいいなあ」


といった意味でしょうか。
生命にかかわるような時でも歌=芸術を愛でることの大事さ
といった風雅さを思わせる歌です。
そんな映像を想像するだけでも、豊かさを感じます。
ただ、僕はこの歌には他の解釈もあるのではないかと思っています。
それは


「長い間戦が続いて春もこない感じだ。
 そんな時だからこそ歌を愛でなければいけない」


という解釈です。
風雅さを思わせる最初の解釈は、戦に対して歌は相対するものとして捉えています。それに対して、二つ目の解釈は、戦と歌が密接にくっついたものとして捉えています。
戦と歌が相対しているか、密接にくっついているかが違います。
戦と歌が相対している方は既に見たので、
戦と歌が密接にくっついている二つ目の解釈を見てみます。
この解釈では、戦と歌はお互い影響しあっており、特に戦のために歌を愛でる、
という関係にあります。
戦(現代で言えば政治でしょうか)において、歌が役立つというわけです。
何に役立つのか?
それは、歌という芸術がそれに触れる人に要請する「差異に気付く」ことの実践ではないでしょうか。
戦という一瞬で生命が決する可能性がある状況の中で、
微々たる差異に気付くか気付かないかは、そのまま生きるか、死ぬかを決めることにも通じるのではないかと思います。
あの木陰が動いた、対する軍の人数がなんか減っているような気がする、
さっきはなかったのろしが遠い山であがっている、一瞬松明の炎が見えた、
などなど、気付くか、気付かないかで、自分の生命、仲間の生命を左右することが頻出するのが戦の場だと思います。
その「差異に気付く」実践として、歌を愛でることは、生き残るために極めて大事なことだったのではないだろうか、と想像します。
必死の生き残り策としての歌を愛でるだったのではないか。



その芸術に触れることでの「差異に気付く」ことの実践は、
当然現代社会でも有用です。
「あれ、何かおかしいな??」という「差異の気付き」によって、
例えば、政府の不可解な行動や言動を感じることができるかもしれません。
「なんか胡散臭いな」という言葉にできない不安を感じることができるかもしれません。
それら「感じる」ことから、言葉を紡ぐことは始まります。
どんな人も(恐らく)最初から全てをはっきりと理解しているのではなく、
「なんかおかしいな」という、他との、これまでの経緯との「差異に気付く」ことで、考えを固めていくのではないでしょうか。
物事を語るには、「差異に気付く」という感覚的なものがどうしても必要になるのです。
「おかしいな」とも思わない人は、考えることをしません。
その必要性を感じないので当然のことです。



以上のことから、芸術とは、自分の「好き」を認識するも=自分が何者であるのかを知ることであると同時に、物事を考えるきっかけとなる「差異に気付く」ことの実践である、と言えるのではないでしょうか。


芸術は決して現実社会と切り離された、明日の米櫃に関係のない浮世のものではありません。
現実社会に直結した生きるためにはどうしても必要なものである、と僕は思います。
これらを実践できるものを作りたいなあと思います。