お墓参りがある生活を送りたい


僕はお墓参りが好きです。
正確に言えば、お墓参りそのものが好きなのではなく、
お墓参りが日常にカウントされている生き方が好きなのです。
これは間違いなく永井荷風『摘録断腸亭日乗』の影響です。
(『摘録断腸亭日乗』については、以前書いたhttp://d.hatena.ne.jp/narumasa_2929/20130808/1375953176


この作品は、永井荷風の日記の摘録です。
多くの年の1月2日の項に
「先考の墓参りに行く」
という内容の記述が出てきます。
先考とは「亡父」の意味です。永井荷風のお父さんの命日が、1月2日なのですね。
それを読んでたら何だか「お墓参りがある生き方っていいなあ」と思ってしまいました。
永井荷風は僕のロールモデルの一人なのです。


お墓参りそのものに何かご利益があるとか、世間体がよくなる効果があるとか、
そういうことでは全くなく、頭の中にお墓に行く日を入れておいて、それを基点に逆算して生活する、という生き方に深い感銘を受けました。
憧れた、といってもいいかもしれません。
「それが何の役に立つのか」なんて僕には分かり様もないのですが、
だからこそ「憧れ」をとめることはできません。
「憧れ」とは、恐らくその対象の正体が分かった途端、
一気に色褪せる類いのものだと思うので、お墓参りが何の役に立つか、お墓参りをすることを予定する生き方が何の役に立つか、を深く考えることを僕はしません。
「憧れ」という状態においておくことの利益を目一杯享受するために。


そんなお墓参り好きとしては、
最近よく見掛ける敷地が石だかコンクリートだかで覆われているお墓にはいささか閉口します。(すみません、個人的好みです笑)
なぜなら、雑草が生えないからです。
その雑草が嫌だから石で覆うのでしょうから、その意図に対しては大成功なのですが。
草むしりが好きなわけではなく、お墓に行くきっかけとして、
「ああ、雑草の掃除にいかなきゃ」は残しておきたいのです。
決まった日にお墓参りに行きつつ、その他にも何かあればお墓に行く生き方が、良いなあと思っているので、その「何か」があり得る状態が僕は好ましく思います。
その「何か」の一つが、雑草ということです。



生きるにあたり、みなさんそうかもしれませんが、
一つ一つの自分の行為、例えば、運動をする、料理をする、勉強をする、本を読む、歩くなどなどについて、全てを
「これはこういう効果があるからやる」
といった効果を想定して行っているわけではないと思います。
なんとなくやっていることもあると思います。
ただ、一般的には「これをやったら、この利益がある」ということをはっきりさせることが好まれているように思います。


「効果を想定して行うもの」=自分の想定内
「なんとなくやっているもの」=自分にも理解できない


3年後に想像できないような変化している可能性があるのは、
どちらを重視した方でしょうか?
当然、「なんとなくやっているもの」の方です。
「効果を想定して行うもの」は、事前にその効果、自分がどこに行くのかを知っているわけです。自分の行き先も「想定内」と言えます。
なので、「これをやったらこういう効果がある」を重視する人は、
それをやる前の自分の枠内の範囲でしか進歩を果たすことができません。
やる前とやった後の自分の枠はあくまで同じで、
ただその枠内で進んだかどうかという、飛躍的進歩とはほど遠い近場の進歩を果たすのみです。
それはそれで大切なことなので、当然僕はそれを否定しません。
否定するどころか、必要なものと思っています。
ただ飛躍的進歩を果たすことができないのではないか、と言っているだけです。


対して、
「なんとなくやっているもの」=自分にも理解できない
は、そもそも自分にも理解できていないので、どこに行くのかも当然分かりません。「これをやったら何に効果があるのか」分からないわけです。
もしかしたら、その先に何もないかもしれません。
もしかしたら、その先に想像もできないようなものがあるかもしれません。
何もかも分かりません。
その状況下では、
何もなかったら残念としか言えませんが(笑)
(まあ、何もないと思っても、そこに何かあることにしちゃえば何かがあるのだと思いますが)、
それを実行する前の自分の枠内では決して想定できないような飛躍的進歩をする機会が訪れることもあり得るのです。
それは自分の枠そのものを広げることを意味します。


「何だかよくわからないけど、やってみよう」


という一見いい加減なことを実践できる人にこそ、
大きな飛躍は訪れるものだと思います。
「これをやると、これだけの利益があります」という‘分かり易い’ものばかりにエネルギーをさいていると、永遠に枠そのものは広がらない、枠内大将にしかなれないのかもしれません。



お墓参りの話でした(笑)。
「僕はお墓参りを生活の一部にすること自体に何の意味があるのかわからない、
ただの憧れです」
と先述しました。
それはその通りで、それによって何か善いことが起こるかもだからやる、
といった感じではありません。
ただそのもの自体の意味が分からないということを実践しているので、
もしかしたらそのうち今の自分では全く思いもよらないようなことが
わかるようになるかもしれません。
そんな飛躍があるかもしれません。
それが訪れたら、それはそれで嬉しいです。
まあ、「憧れ」という不明なものを前提にしたものが、
そもそもの僕のお墓参りがある生活基点なので、
「よくわからない」を意識的にそのままにして一生を過ごせたらいいなあと思います。