終わらない‘戦後’

戦没者230万人:6割「餓死」の学説も 無謀な作戦が惨劇招く


日本は15日、69回目の終戦記念日を迎えた。日中戦争や太平洋戦争で亡くなった軍人・軍属は、政府見解によると約230万人。その内訳は不明確な点が多く、「6割が餓死した」との学説もある。兵站(へいたん)を軽視した無謀な作戦がこうした惨劇を招いたとして、昭和史の著作が多い作家の半藤一利氏(84)は「軍の指導者たちは無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやった」と指弾している。


 総務省厚生労働省などによると、1937〜45年の戦没者230万人を戦死、病死などの死因別に分類した公的な記録は存在していない。終戦前後の混乱時に多くの資料が失われたことや、敗戦で記録を残すのが難しかったことなどが影響している。


 歴史学者の故・藤原彰氏(一橋大名誉教授)は旧厚生省援護局作成の地域別戦没者(1964年発表)を基礎データに独自の分析を試みた。著書の「餓死した英霊たち」(青木書店)で、全戦没者の60%強、140万人前後が戦病死者だったと試算。さらに「そのほとんどが餓死者ということになる」と結論づけた。


 個別の戦闘ではある程度のデータが残っている。「戦史叢書」(防衛庁防衛研修所戦史室編さん)によると、「ガダルカナル島の戦い」(1942年8月〜43年2月)では、日本陸軍3万1000人のうち約2万人が戦没。その約75%、約1万5000人が栄養失調症、マラリア、下痢、かっけなどによる死者だったという。


 そうした日本軍兵士の生死を左右したのは「生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず」の一節で知られる「戦陣訓」だった。太平洋戦争開戦前の1941年1月に東条英機陸相(当時、後に首相)が全軍に示達し、降伏は不名誉なこととされた。


 勝利か、しからずんば死か−−。「皇軍」の兵士たちは文字通り、そうした状況に追い込まれた。戦死を免れても、補給を断たれてしまっては餓死するしかない。大本営参謀らのエリート軍人について、半藤氏は「緒戦の勝利におごり、自己の実力を省みず、攻勢の限界線をはるかに越えた」と戦略上の失敗を指摘したうえで、「人間をまるで、将棋の駒のように扱った」と批判している。【高橋昌紀/デジタル報道センター】


毎日新聞 2014年08月15日
http://mainichi.jp/feature/news/20140815mog00m040005000c.html

安倍首相「英霊に哀悼の誠を」 靖国神社玉串料 2閣僚が参拝


安倍晋三首相は15日午前、東京・九段北の靖国神社自民党萩生田光一総裁特別補佐を通じて私費で玉串料を奉納した。萩生田氏は参拝後、首相の代理として自民党総裁名で玉串料を奉納したことを明かし、首相から「国のために尊い犠牲となられたご英霊の御霊に、尊崇の念をもって謹んで哀悼の誠をささげてほしい。揺るぎない恒久平和をしっかりと誓ってほしい」と伝えられたと記者団に述べた。


 首相は昨年12月26日、現職の首相としては小泉純一郎首相が参拝して以来、7年ぶりに靖国神社を参拝した。第2次安倍政権が発足してからは、春と秋の例大祭には「真榊」と呼ばれる供物を、8月15日の終戦記念日には玉串料を私費で奉納し、参拝を見送ってきた。


 また、古屋圭司国家公安委員長拉致問題担当相と新藤義孝総務相は同日午前、それぞれ靖国神社を参拝した。
 参拝後、古屋氏は記者団に「一国のために命をささげた方々に哀悼の誠をささげるのは当然だ。平和を祈念して参拝した」と語った。新藤氏も「私的な行為で(中国、韓国からの)懸念を示されることにはつながらない」と述べた。稲田朋美行政改革担当相も同日午後の参拝を検討している。


産経新聞  2014年08月15日
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140815/plc14081510230011-n1.htm


ともに今年の8月15日、敗戦の日毎日新聞産経新聞の記事です。
毎日新聞産経新聞の立ち位置の違いを確認したいわけではなく、
この二つの記事を連続して考えてみたいと思いました。


毎日新聞の記事の要旨は、
「太平洋戦争で亡くなった日本の軍人・軍属の人数は約230万人、そのうち餓死者が140万人(約60%)であった可能性がある」
ということです。
そういう学説もある、という扱いですが、これは以前より世の中に出ていた数字です。
一つの学説であるとは言え、餓死者140万という数字が10万人、3万人になるということは恐らくないでしょう。140万という数字が正確なのかは分かりませんが、多数の餓死者がいた、という事実は毎日新聞記事中にある藤原彰氏や他学者の方の調査からも揺るがせないものだと思います。
餓死とは、言わずもがな飢え死です。必要な栄養を取ることができなく死ぬことです。
そのような状態で半数以上の軍人・軍属の方が亡くなったのが日本における太平洋戦争だったわけです。


一方、産経新聞の記事の要旨は、
安倍氏自身が靖国神社参拝をせずに、萩生田氏が代理で玉串料を奉納した。閣僚で参拝をした人が3人いた」
といった感じです。
僕が注目したいのは荻生田氏をはじめ、参拝した方々のコメントです。

「国のために尊い犠牲となられたご英霊の御霊に、尊崇の念をもって謹んで哀悼の誠をささげてほしい。揺るぎない恒久平和をしっかりと誓ってほしい」
荻生田氏 安倍氏の言葉として。


「一国のために命をささげた方々に哀悼の誠をささげるのは当然だ。平和を祈念して参拝した」
古屋氏


「私的な行為で(中国、韓国からの)懸念を示されることにはつながらない」
新藤氏


稲田氏のコメントは記事中になし

まあ、いつも聞いているような内容なので、取り立てて注意を引くものではありませんが、
毎日新聞の記事とあわせると俄然色彩を帯びてきます。
亡くなった軍人・軍属の方が230万人、餓死者が140万人。
安倍氏と古屋氏はそれらの方々に対して哀悼の誠を捧げるために、
靖国神社玉串料を奉納したり、参拝をしたりした、のです。
誤解のないように彼らの行為の肝でもある「哀悼の誠」の意味を確認しておきます。
単語としては「哀悼の誠」はないので、哀悼と誠それぞれで確認します。

「哀悼」
[名](スル)人の死を悲しみ悼むこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/1111/m0u/


「誠」
[名]うそ偽りのない心。まごころ。まこと。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/120901/m0u/%E8%AA%A0/


これらから「哀悼の誠」の意味を考えると、
「人の死を悲しみ悼む嘘偽りのない心」
といった感じになりましょうか。
安倍氏、古屋氏は「人の死を悲しみ悼む嘘偽りのない心」を捧げる、と言っているわけですね。
誰に対してか。
「国のために尊い犠牲となられたご英霊の御霊」安倍氏
「一国のために命をささげた方々」古屋氏
国のために亡くなられた方々に対して、と。
靖国神社には246万6千余柱の方々が祀られています。太平洋戦争で亡くなられた方々+西南戦争日清戦争日露戦争で亡くなられた方々がその中に入ります。(http://www.yasukuni.or.jp/history/
それを踏まえれば、彼らが「人の死を悲しみ悼む嘘偽りのない心」を捧げる対象は、
太平洋戦争で亡くなられた230万人の方々を当然含みます。
その方々を
「国のために尊い犠牲となられたご英霊の御霊」「一国のために命をささげた方々」
安倍氏、古屋氏は称しているのですが、しかし待てよ、とここで思います。
その230万人のうち、140万人は餓死だぞ、と。
彼らが「人の死を悲しみ悼む嘘偽りのない心」を捧げる対象のうち、
140万人が餓死という事実はどのように考えたらいいのでしょうか。
餓死である140万人は、戦った結果爆弾や銃で死んだのではないのだから、
「国のために尊い犠牲となられたご英霊の御霊」「一国のために命をささげた方々」
のうちには入らないのではないか?ということでは当然ありません。
その逆で、餓死した140万人を
「国のために尊い犠牲となられたご英霊の御霊」「一国のために命をささげた方々」
に入れていいのか?と思ってしまいます。
もっと言えば、何食わぬ顔で祀ってよいのか? です。


戦争における餓死とはどのようなものなのでしょうか?
これについて専門的に研究したことがないので、詳しいことは僕には分かりません。
しかし、餓死という事の論理を考える時、そこに食べる物がない状態であり、
外からも補給が全く入ってこない状態であるはずです。
食べる物があったり、補給があれば餓死することはありません。
つまり、日本軍であり、日本政府、日本国は、140万人の方々が餓死をするような状態を作ったわけです。
実際に補給をしなかった、できなかったのであり、それを前提とした作戦を立てなかった、立てられなかったのです。要は、無能だったわけです。
戦争をするにあたって真っ先に考えなくてはならないであろう最重要項目の一つ、補給を想定しない、できないという、軍組織として驚くべき無能さ。
この結果が140万人という餓死となったのです。
軍組織といっても、それは軍部だけの話ではありません。
仮に軍部が‘暴走’して政府をも無視した結果の無能さであったとしても、
それも含めて日本国の決定であったわけです。
軍部に全てを押し付けたとしても、その上位にある日本国に責任がないということはあろうはずもありません。
日本国の責任として140万人を餓死させたのです。
人間の死に方として餓死は、最も悲惨なものだと僕は思います。
餓死は、最低限であり、最重要の欲求である本能を押しつぶされた死に方なのです。
日本国は、それを140万人もの人に‘強要’したわけです。


そんな140万人の方々を、日本国の最高責任者とそのお仲間は、
「国のために尊い犠牲となられたご英霊の御霊」「一国のために命をささげた方々」
として、「人の死を悲しみ悼む嘘偽りのない心」を捧げ、祀っているわけです。
日本国が殺した方々に対して、「国のために尊い犠牲となられたご英霊の御霊」とは何だ?
自分が殺しといてご英霊の御霊とは何だ?
自分が殺しといて「国のため」とは何だ?
安倍氏にとって、あくまで‘過去の’日本国がやったことなので、
自分には関係ないのでしょうか?
「日本を取り戻す」のでしょ?
いつの日本を取り戻すのだか全くもって不明ですが、
「取り戻す」とか言うということは、少なくとも彼には過去の日本と現在の日本の連続性の意識はあるのでしょう。
(まあ、実際はそんな意識あろうが、なかろうが連続性がなくなるわけないのですが)
であるなら、過去の日本国がやったことの責任を、現在の日本国の最高責任者として当然感じるべきでしょう。140万人という方々を餓死させた責任を。
その行動としてあるべき姿は、「祀る」ことではなく、「謝罪」ではないでしょうか。
「餓死という人間の尊厳をも踏みにじる死に方をさせてしまい大変申し訳ございません」
という謝罪こそ、安倍氏とお仲間が靖国神社でなすべきことです。
哀悼の誠を捧げ、平和を誓う前に謝罪ではないか。
この国が、一度でも兵隊に、国民に謝罪をしたことがあったでしょうか?
1945年8月17日、玉音放送、敗戦からたった二日後に、
「事ここに至ったのは勿論政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。 この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」と‘一億総懺悔’を表明し、
戦争被害受忍論をもって一般戦災者である国民への補償を拒む国が日本国です。
直接‘手を下した’といってもいい、140万人の餓死者への謝罪もない国が日本国です。
謝罪というとその対象は、中国、韓国、北朝鮮、東南アジアであり、
そしてその行為を「自虐」という声が大きい状況において、
餓死をさせた140万人の方々へのそれもまた「自虐」なのでしょうか。
謝罪の意味を広げなくてはならない、と僕は思います。
そして、日本国は餓死をさせた140万人の方々、国民へ謝罪をするべきです。
哀悼の誠を捧げる前に謝罪をするべきです。
それをしないのは誤魔化しであり、彼らが哀悼の誠を捧げる行為そのものもその一種ではないかと疑ってしまいます。
祀ることで、謝罪を隠しているのではないか?

「負けたと私は言わん。まだやって勝つか、負けるか、分からんですよ。あの時に上陸してご覧なさい。(略)九州、とくかく、やったならば、血は流したかもしれんけど、惨憺たる光景を、敵軍が私は受けたと思いますね。こういうことでもって、終戦になったんでしょう。だから敗戦とは言ってないよ」
「簡単な言葉で言やあ、負けたと思うときに初めて負けるんだと。負けたと思わなけりゃ、負けるもんじゃない」


『真実の「わだつみ」』東京新聞 加古陽治編著  P178より 
1955年にラジオ番組で語られた荒木貞夫元陸軍大将の言葉


この種の考えを歴代政権、安倍氏が持っているのかどうかは知りませんが、
ただ謝罪をしない誤魔化しが「敗戦ではなく終戦」に直線的に繋がるのではないかと、
僕は考えています。



以上が、冒頭で引用した毎日新聞産経新聞の各記事を読んで思い、考えたことです。
謝罪がなければこの国の‘戦後’は終わらないのではないか。
今、そんなことを思います。