今日の一冊〜『原発ホワイトアウト』


原発ホワイトアウト

原発ホワイトアウト


現役キャリア官僚による小説です。
主題はタイトルのとおり、原発です。
さらに言えば、原子力行政であり、原子力ムラの住人たちであり、
それらを抱え込む‘モンスターシステム’です。
この言葉は作品中で使われているものですが、
当然それは著者の意図なわけです。
著者である若杉冽さんは、原発界隈を‘モンスター’という極めて危険性の高い言葉で表現しており、それはそのままこの小説のスタンスでもあるのです。
つまりは、自分にとって原発界隈は忌避する対象である、という考えを明確にした小説である、ということです。


出版元の講談社のホームページをみると、
http://bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2186179
「ノンフィクション・ノベル」とあります。
実際、小説中の出来事は現実のものをなぞる形が多いです。
例えば、新潟県泉田知事のこと、原子力規制庁原子力規制委員会のことや自民党(小説内では保守党)の衆議院議員選挙での勝利、それに次ぐ参議院選挙での勝利による‘ねじれ国会’解消など、福島第一原子力発電所原発事故から現在までの実際に日本の原子力行政で起こっていることを下敷きにしています。
なので、登場する人物は名前は変わっていますが、だいたい実在の人物をモデルにしていると思われます。
僕がこの本を知ったのは、河野太郎さんのツイートでしたが、
しっかり彼をモデルにしたと思われる国会議員も登場します。


これをもってこの作品を「原子力行政の裏側をリアルに描いている!」とは、
僕には言えません。
理由は単純で原子力行政の裏側を知らないので何がリアルで、何がリアルでないかが僕には分からないからです。
なのでこの小説を語るのに、現役キャリア官僚が書いた、実在の人物をモデルにしている、現実に起こった出来事に基づいていることをもって、
「リアル」という言葉を使った時点で、僕は途端に袋小路に嵌ってしまいます。
リアルかどうかはわからない、だからその観点とは違ったところを
この小説に対する僕の立ち位置とするしかありません。



作品の章立てを見ると、この小説がどのようなことを扱っているのか、
何となくですが想像できると思います。


第1章  選挙の深奥部
第2章  幹事長の予行演習
第3章  フクシマの死
第4章  落選議員回り
第5章  官僚と大衆
第6章  ハニー・トラップ
第7章  嵌められた知事
第8章  商工族のドン
第9章  盗聴
第10章 謎の新聞記事
第11章 総理と検事総長
第12章 スクープの裏側
第13章 日本電力連盟広報部
第14章 エネルギー基本計画の罠
第15章 デモ崩し
第16章 知事逮捕
第17章 再稼働
第18章 国家公務員法違反
終章  爆弾低気圧


319ページです。
この中で日本電力連盟(電気事業連合会)の活動内容、経産省とエネルギー庁と原子力規制庁の繋がり、電気業界と政治家との繋がり、政治家と検察との繋がり、日本電力連盟(電気事業連合会)に飼われている御用ライターの存在などなど、実際の官僚だから知りうる内幕なのかな、と思うような説得力のある内容が続々と出てきます。
描かれる利害の関係など、一見しても納得できる部分が多いことがそう思わせるのでしょうが、返す返すですが、それをもって「リアル」とは言えません。真実なのかもしれませんが、僕には判断できません。


ただ、描かれる様々な状況と現実との一致点を見いだすたびに、
猛烈な真実味をもって迫ってくるので、
読みながらの作業として、自分に対して「これが真実だとは限らない」ということを常に意識するようにしていました。
意識しないと「リアル」に呑まれてしまったかもしれません。
その恐怖とまでいったら大袈裟ですが、恐れは確かにありました。
なぜそこまで「この小説はリアルだ」と思う状態に自分がなることを恐れていたかと言えば、そうなった時点で自分が硬直してしまうと思ったからです。
そこに自分の思考の照準を定めることで、今後原発界隈のことを見聞きし、考える際に、この小説を絶対的な教本としてしまう、という思考の硬直化を恐れました。


僕の癖として、正しい、正しくないという基準とは関係ないところで、
一つの考えに依り過ぎることに気持ち悪さを感じるきらいがあります。
仮に絶対的正というものがあるとしても、それに完全に依りかかってしまうことで、組み立てられる物語の硬直化は避けられません。
物語を作る元となる思考も当然あるものに依りかかり過ぎることで、
硬直化してしまいます。
硬直化とは言葉を換えれば、完結させてしまう、ということです。
思考を、物語を完結させてしまうことで、
新しい情報や事実を追加することが億劫になり、理由をつけてそれらを視界から遠ざけてしまうことが往々にして起こりえます。
自分のしっくりくる思考や物語に、新たなものを付け加えるのにはエネルギーが必要です。しっくり来ているものが、バランスを崩して不格好になってしまうかもしれませんから。
しっくりきているものはそっとしておきたいのが、人間の心情です。
僕はそのしっくりくる状態を恐れています。
しっくりさせることで自分の思考を閉じてしまうことを恐れます。


その状態に対する恐れのため、「この小説はリアルである」という判断をしないようにしていました。真実味ある様々な内容が次々に描かれる中で、
「僕は真実を知らないから」という方便をもって(それは事実なのですが)対処したわけです。
それはこの小説が嘘の内容だからでは、当然ありません。
現役官僚が書いている点や説得力ある内容からすれば、
大部分は真実だろうと思います。
問題は、その事実は別にした僕の立ち位置です。
仮にこの小説の内容が全て真実であったとしても、
「この小説はリアルである」という立ち位置で語ることを僕は拒絶します。
その立ち位置ではないところからこの小説を語った時、
何が見えてくるか。
それがこの小説に対する僕の立ち位置になります。



僕はこの小説を「希望の書」と見ました。
この小説は最初から最後まで、政治家や電気事業者など‘原子力ムラ’という権力の強大さを描いています。
正直読みながら疲れます。あまりの強大さにぐったりした気持ちになります。
しかし、そんな強大な権力が嫌がることもまた継続して描かれています。
それが、「民衆による抗議であり、監視」です。
当然それはメディアも絡んでのことではありますが、
いくら絶大な権力を持っていようが、常に民衆の権力に対する見方や評価などを気にする様が描かれています。
そしていかに民衆を納得させることが重要かについても留意し続けます。
絶大な権力であろうと民衆を無視することができないことを、
絶大な権力がその行使によってより大きくなる画策をしていることと平行して描かれているのです。
「巨大権力に対抗できる手段としての民衆の抗議・監視」
そこに僕は一縷の希望を感じることができます。


しかし、ここでも意識していたことは、
描かれる「巨大権力に対抗できる手段としての民衆の抗議・監視」を「リアルである」という観点でみないということです。
それは民衆の抗議・監視に効力があるということが嘘だから、
ではなく、その考えに依り過ぎることでの思考停止を回避するためです。
そこで一工夫して、このような立ち位置を取ることにしました。


「権力は民衆の継続的な抗議、監視を嫌う」という‘物語’を採用する


という立ち位置です。
回りくどい言い方ですが、この小説に描かれる
「権力は民衆の継続的な抗議、監視を嫌う」
ということを、一つの‘物語’としてパッケージし、それを‘採用する’という第三者的な言葉で表現することにしました。
これは僕の頭の中での言葉遊びなのですが、
この遊びにより依り過ぎることから逃れることができるのではないか、
と期待しました。
ちょっと引いた形で
「権力は民衆の継続的な抗議、監視を嫌う」
を見ることで、それを自分の思考そのものではなく、思考の道具として使えるようになるのではないかと思います。
つまりは、それを使ってその先の思考を作り出す可能性を感じることができるのです。
その可能性こそ、硬直的思考に対する開放的思考と言えます。


「巨大権力に対抗できる手段としての民衆の抗議・監視」
という‘物語’も希望であることに違いありませんが、
そこに居着くことなく、さらなる可能性を紡ぐこともまた希望です。
巨大権力に対して対抗できるもっと効果的な手段を考えられるかもしれません。
自分の向かう方向を光で照らすことができるかもしれません。
その可能性の種を確かにこの小説から受け取ることができました。
そういった意味で、この小説は僕にとって「希望の書」です。




書評を書こうと思ったのですが、
まったく書評になりませんでした(笑)。
話として面白いですし、官僚機構や電気業界の一端を垣間みることができるのは確かだと思います。
章が多く読みやすいので、さくさく読み進めることができます。
今後したいこととして、
原子力規制委員会の委員のこれまでの経歴
・電力会社、電気事業連合体の出資先、広告出稿先、各機関誌の執筆者の調査などを考えています。
人事とお金の流れを知るだけでも結構見えてくるものがあるのかもしれない、
と今更ながら思います。