ルーチンのある生活

先日、2日連続で超ど級のショックなことがありました。
それぞれの日に別のショックなことが起こったので、つごう2つ。
それもその2つには関連性はないので、新規ものが2つやってきたました。
正月と盆が一緒にやってきたようなものです、悪い意味で(笑)。


その後、頭の中がぼーっとしてしまって、
本も読みたくないし、テレビもみたくないし、何もしたくないような状態が続きました。
そういう時はなかなか事態の収拾ができません。
自分ではどうすることもできないようなこともあって。
ただ「何かしなくちゃな」とは思う気持ちもある中で実行に移せないと、
それはそれでまた新たな心配事になってしまうという悪循環が生まれてしまいそうでした。
そんな時、「よし、何かやろう!」と思い立ったわけでなく、
日頃の習慣にしていた鉄アレイでの運動をしてみたら、
それが身体にも心にもしっくりきたのですね。
「ああ、なんだかいいな」と思うとともに、その瞬間に普段の生活を思い出しました。
本当にその瞬間だったのですが、「あれして、これして」という普段の生活がパッと頭に浮かんだのです。
まるで起動スイッチをいれられたみたいに。


習慣に触れることで、その習慣がある生活を思い出したのかなと思います。
その大きな役割を担ったのが身体というのがとても興味深いです。
頭で「あーだ、こーだ」考えても一向に埒があかなく、
益々ドつぼに嵌って行くのが関の山ですが、
身体はそんな小賢しいものを軽くすっとばして、一気に戻る術を知っているのですね。
身体は調子が良い状態がどういうものか、しっかり記憶している。
そしてその調子が良い状態がどのような動きをして、考えをして、行動をするのかも
しっかり記憶している。
本当にエラいものですね。
頭はブレーキの効きもいいし、加速の具合もいいし、
急カーブにも対応できる器用さを持っている一方、
身体にはそんな器用さはないと思います。
身体は惰性なんだと思います。
器用に立ち回れないかもしれないけど、瞬時に壊れるような脆さはない。
身体の成長や老いには「時間」が濃密に絡んできます。
その「時間」という、誰の自由にもならないものに己の行く末を託す「身体」というものが、
自由自在変幻自在に立ち回る頭のような器用さを持ち合わせているはずもないのでしょうね。
その惰性のうちに、身体による記憶は内蔵化されているのではないかと推測します。


調子を崩した時に状態をよくするため、
日頃から習慣を身体に覚えさせておくことは大切なことかもしれない、
と実感しました。
頭は引き戻してくれない。引き戻してくれるのは身体。