人に届く言葉


最近「人に届く言葉」に興味があります。
それは恐らく「人に届かない言葉」が世間に飛び交っていて、
それを身体中に浴びているからだろうと思います。逆説的ですが。
「人に届かない言葉」とは、


1、 相手の話を聞かない
2、 相手を言い負かそうとする
3、 感情的
4、 自分は正しい、相手は間違っていると思っている


などの姿勢を根底とした言葉だと思います。
こんな言葉に出くわした時、僕は無言になります。
そしてその場を立ち去ります。
「人に届かない言葉」は人を消耗させます。
「人に届かない言葉」どうしの議論(罵り合い)は、消耗製造装置に他なりません。
罵り合いはそもそも交わることがありません。
自分の言いたいことだけを言い、人の話を聞きません。
だからこそ罵り合いです。当然そこから新たな創造物は生まれません。
しいて言えば、消耗が生まれるといったところでしょうか。
そんな言葉が人を幸せにするはずがありません。
しかし現在、そんな言葉で世間は溢れているように感じます。
ツイッターや誰でも書き込めるサイトなどを見ればすぐにでも確認できます。
本屋さんに行っても、攻撃的で刺激的なタイトルの本がたくさん並んでいます。
「人に届かない言葉」は攻撃的で刺激的な装いをしています。
先ほどあげた四条件を具体的にすれば、それから出来た言葉は自然と「攻撃的」「刺激的」にならざるを得ませんから。
「人に届かない言葉」は攻撃的で刺激的な装いで‘届けられ’ます。
そうやって世間は非創造的な攻撃的、刺激的なもので溢れて行きます。


「人に届く言葉」を「人に届かない言葉」の条件から考えてみます。


1、 相手の話を聴く
2、 相手と協調しようとする
3、 理性的
4、 自分は間違えているかもしれない、相手正しいかもと思っている


これらの条件を満たす言葉は、相手を必要とします。
相手がいなければ話も聞けないし、協調もできません。
自分だけでは完結できない言葉です。
自分の想いどおりにできないまどろっこしい言葉です。
だから独り善がりな言葉ではいけません。相手に分かる言葉でなくてはいけません。「分かる言葉」とは、その相手にとって理解できる言葉ということも当然含まれますが、相手がこちらと協調しよう、話をしようと思わせる言葉という意味もあります。結果その言葉は、「丁寧な言葉」でなければいけません。
相手を怒らせるような言葉が投げかけられたら、協調しようという意思は生まれるはずもありません。生まれるとしたら、こちらも相手を怒らせようという意思だけです。その応酬が罵り合いです。「人に届かない言葉」です。
人に言葉を届けるためには、丁寧な言葉を使わなければいけません。
それは攻撃的、刺激的とは反対のおっとりした装いをしています。
切れ味もよくありません。そもそも切ることを目的とはしていませんから。
一緒になることを目的としているのですから。
そんな言葉で議論されると、意見交換、協調の末に、
善きものが生まれます。お互いにそれまで考えつかなかった善きもの。
独善を排除した他人の意見を取り入れて出来るものは善きものである確率が高いと思います。少なくともその場にいる人間を満足でなくとも、納得させる力があるもののはずですから。


「人に届く言葉」は創造性があります
「人に届かない言葉」は創造性がありません。


恐らくもう「人に届かない言葉」から脱することができない人もいるだろうと思います。相手を打ち負かすこと、相手よりでかい声をだすことが絶対善であるディベートなどというものを大事にする人は恐らく死ぬまでその世界の人でしょう。そのディベートのスタイルが善とされる弁護士や検事といった職業の人に多いのかもしれません。
ただ僕はそんな消耗の世間で生きたくはありません。
「人に届く言葉」が使われる世間で生きたいです。
なので、その言葉を使う人を増やして行きたいです。
自分がまずその言葉を使うことから始めなくてはいけませんが、
それを使うコミュニティを広げていきたいと思っています。
「人に届かない言葉」の広がりには到底追いつかないのですが、
少しでも心地良く生きたいので、まずは自分のまわりを「人に届く言葉」が通常使われる場所にしたいです。