「ごにゃごにゃ」すること


先週2回程、憲法に関する講演会、勉強会に参加する機会がありました。
講演会の方は以前より計画していたものでしたが、
勉強会の方は直前にその存在を知り出席したものでした。
勉強会に結果的に出席はしたのですが、
行こうか、行くまいか思案しました。
なぜなら、その勉強会の方向性がはっきりしていたからです。
その勉強会は憲法に対して「護憲」であり、
自民党改憲案や自民党、維新の会などがやっきになっている96条改憲に対してはっきりと「NO」であることがわかっていました。
僕の憲法観もそちらの方向であることは間違いありません。
以前にも


日本国憲法96条変更に関する私見
http://d.hatena.ne.jp/narumasa_2929/20130516/1368688237


映画『リンカーン』と憲法96条改悪案について
http://d.hatena.ne.jp/narumasa_2929/20130427/1367042764


などを書きました。
そういう意見ながらも、自民党改憲案に賛同している、その方向性のある方の意見も聴きたいと僕は思っています。
ただそれには条件があって、
「相手に聴いてもらいたいという意思があり、そんな話し方ができる」
ということを理解できる人に限ってですが。
「私の言う正しい意見を聴け。それ以外は間違えている」
という方はご遠慮願いたいです。



それは自分と同じ方向性を向いている人にも言えます。
自分の意見を表明する際に
「こんなものダメだ。悪いやつが作るものだ」
といった感じの「相手と一切交わることを拒否する」ような考え方に基づく言い方をする人とは、「自民党改憲案に対して異議あり」という意見では一致できるかもしれませんが、その後に繋がる話ができそうもないので、あまりお話したくないと思っています。
共通の相手の悪口を言い合って「ガハハ」と笑い合っても、
そこには虚しさしかないように想像します。



そんな場かと思って勉強会に参加するのを思案したのですが、
行ってみてそんな品のない場所ではなかったのでよかったです。
ただ、橋下大阪市長の話になって
「橋下が反省なんかするはずない。そんな男ではない」
みたいなことを発言されているご婦人がいましたが、
この1mmも妥協しなさそうな雰囲気に
「この人とはお話することはなさそうだな」と思ってしまいましたが(笑)。



自分の確固たる意見を持つことも大事なことだと思います。
人に意見を求められて「私はこう思う」と言えることは必要なことだとも思います。
しかし、それが強くなりすぎて、自分の側の意見のみに接触したり、
相手側を完全否定する段階になってしまうと、
ただの「相手側を否定するだけの存在」になってしまう恐れがあるように感じます。
言い方が正確なのかわかりませんが、
「自分の中に脆さを確保しておく」
ということも大事なことなのではないかと思います。
自分側の意見でガチガチに固めないでおく意思。
その脆さが相手の意見を聴く必要性を自分に感じさせ、
相手への理解も生むのではないかと思います。
恐らく世の中は、完全勝利や完全敗北で成り立つ程のハッキリさを
もつようなものではありません。
ごにゃごにゃした色んなものが混ざり合った結果が世の中の形だと思います。
それが良いのか悪いのかではなく、
世の中そういうものなんだと僕は考えています。
であるなら、「ごにゃごにゃ」できる状態、
つまりは「私は正しい。相手は間違えている」といった‘完全無欠な考え’ではなく、「私はこの方が良いとは思うけど、あなたはどう思う?」といった‘脆さ’を持ち合わせる態度の方が世の中で一定の形を作ることができるのではないかと思うのです。


「ごにゃごにゃ」できることは、知性の一つだと僕は思います。