この前買った本



以前に新聞だったかでこの本が紹介されていたのを見て、
ずっと気になっていました。
この『JAPANGRAPH』というシリーズは、
各巻1都道府県を取り上げ、最終的には全都道府県47巻を発行する予定のようです。
群馬県はなぜか4巻に登場しました。
その前は創刊号に滋賀県、2巻に岩手県、3巻に愛媛県だったようです。
創刊号が2010年初頭だったようで、1年に1、2巻発行されているようです。


内容は、写真+文章でそれぞれの県にある‘風景’を紹介する、
といった感じです。
もちろん観光雑誌のような「面白い」「お得」「美味しい」といったものをメインとした紹介ではなく、あくまで‘風景’の紹介です。
その場所場所に存在する自然、環境、人などです。
山や川やおばあちゃんや子供や鹿など、群馬県の様子がたくさん掲載されています。
そして群馬県を語るには外せない‘風景’ももちろんあります。
「お蚕」「桑畑」「繭玉」「養蚕農家」といった‘風景’です。


江戸時代の頃、日本の織物の産地を称して「西の西陣 東の桐生」と言われた程、群馬県日本の代表的な機所(はたどころ)として栄えました。(桐生市群馬県の右下にある市です)
明治〜昭和初期の主要輸出品が絹だったところをみると、
織物関連が江戸時代のみならずその後も中心的な産業として群馬県を支えていたのだろうと想像します。
それは僕が子供の頃にも、その頃はすでに主要産業ではなかったとは思いますが、感じられるものでした。
親戚や近所に養蚕をしていた人はいましたし、桑畑はたくさんありました。
そこでドドメ(桑の実)をよく食べました。お蚕独特の匂いは今でもはっきり覚えています。
桐生市では奈良時代に朝廷に織物を献上していた、という記録があるほどに、
織物産業は古くからありました。桐生市のみならず、群馬県では有名ではなくとも共通した歴史だったろうと思います。
『JAPANGRAPH』では「群馬県の‘原風景’」という言葉を使っていましたが、
群馬県にとって織物に関連する「お蚕」「桑畑」「繭玉」「養蚕農家」などはまさにそれを抜いたら成り立たない‘風景’と言えます。
織物に関連するものがなかったら、群馬県の形は今と全く変わったものになっていることは間違いありません。
良い悪いという観点ではなく、
織物に関連するものは群馬県の核となるアイデンティティーと言えます。



半世紀前、養蚕農家は8万件あったそうです。
それが今ではなんと200件あまりになってしまいました。
50年間で、1/400という驚くような減少率です。
それでも全国の45%とのことなので、全国でも養蚕農家は500件弱しかないようです。
それは絹産業が経済的に成り立たないということと同義だと思います。
地元の新聞でも、補助がなければやっていけない、といった内容の記事を度々目にします。
もはや「稼ぐ産業」ではなく「保護される産業」になってしまったと言えるのかもしれません。
経済合理性で言ったら、それは「無駄」と判定されるのでしょう。
しかし、その「無駄」が、群馬県の、群馬県に生きてきた人の‘風景’であるのです。



「自分なんか分からない」は現代社会では当たり前のことかもしれませんが、
それは‘風景’を失っていることを前提とした当たり前なのかもしれません。
いつの時代も‘風景’は失われるものだと思います。
ただその速さは違う。江戸時代以前と以後では、その速さは全く違うものになっていることは確かなことでしょう。
江戸時代以前、‘風景’が失われるスピードがゆっくりだった頃、
その時代に生きていた人たちは「自分が何者であるか」を意外と分かっていたのかもしれません。
そもそも「自分が何者であるか」という疑問は近代的なものかもしれませんが、
仮にその時代に生きる人にその質問をしたら、
「私は吉田村の吉兵衛だ」とすっと答えるような気がします。
「それで言い切った」という実感込みで。
僕もその質問をされたら出身地や名前は答えることはできます。
しかし「それで言い切った」という実感はまず持つことができないでしょう。
「単純な社会」と「複雑化した社会」との違いと言ってしまえば簡単ですが、
それでは「複雑化した社会」とは一体どのような社会なのでしょうか。


そんな壮大なことは僕にはわかりません、というのが本当のところです(笑)。
想像できる範囲で考えると、「複雑化した社会」とは
仕事の内容が著しく増えた社会。経済活動が活発になった社会。
人口が増えた社会。それに伴い細かい制度、法律が増えた社会。
人が持つ概念が多様化した社会。
といったものを想像します。
それを一言で言ってしまえば、 ‘都市化’と僕は言いたいです。
‘都市化’したことにより「複雑化した社会」になったのではないか。


江戸時代以前の「単純な社会」とは、農業を基調にした社会です。
なぜ農業を基調とすると「単純な社会」となるか。
それは農業は人間がコントロールできるものではないからです。
お天道様が主体となるものだから、人間が好きなように変化をつけることができません。
いつ何を植えるか、いつ収穫するか、人間が決めることができません。
全てお天道様の言う通りです。一年のスケジュールは全て決まっています。
そして土地が必要不可欠なものであるので、
矢鱈めったら土地に手を加えることができません。
子供が大人になるくらい時間が経っても、そこにある‘風景’にそう変化はないものです。
複雑にしようがないのが農業を基調とする社会です。


‘都市化’した「複雑化した社会」とはその逆で、いくらでも人間が変化をつけることができる社会です。農業を脱したその社会では、お天道様の言うことを聞かなくても、人間が予定を決めることができます。だから一年のスケジュールは決まっていません。その都度で変化も変更もあります。土地もいくらでも変更することができます。必要なら建物をつくり、必要でなくなったら壊す。そのことが繰り返される社会です。時間も土地も好きなように変更できます。結果複雑化するのは当然です。
その過程で、当然‘風景’も必要、不必要の判断で壊されていきます。
必要がなかったら壊されます。
‘風景’は昔からそこにあるものなので、「単純な社会」の名残りであることが多いのです。
壊される基準は、経済合理性でもあるでしょうし、人口が増えたことによる居住地の確保でもあるでしょう。
「単純な社会」の名残りである‘風景’を壊すことでますます‘都市化’は実現されていきます。
「単純な社会」の名残りであるからこそ壊される、といった方が正確なのかもしれません。
かくて、‘都市化’したことにより、‘風景’は驚くような速さで失われてしまっているのが現実です。


恐らく、その変化の中で‘都市化’が進めば進む程、
「自分が何者であるか」が分からなくなっていったではないかと僕は想像します。
なぜなら、‘都市化’が進む=‘風景’を壊すことで、人は他人/他との繋がりを失ったと思うからです。
‘風景’を壊されることで、
過去そこに住んでいた人との連綿たる繋がりを失い、そこに宿る知恵を失い、
大地との契りを失い、記憶の共有を失いました。
そして、自分が過去の人、土地と繋がっていたという事実を忘れてしまい、
自分がなぜそこにいるのかという疑問に一言も答えられない状態になってしまったのではないでしょうか。当然「自分は何者か」に繋がります。


父と子が同じ‘風景’を共有することで、
父は子に‘風景’を贈ることを実現し、
子は父が生きた現場を見ることができます。
200年前の‘風景’がそこにあるなら、
僕は200年前の人が生きた現場を見ることができ、
状況を確認することができ、息づかいを感じることができます。
名も顔も知らない人であっても、そこに生きていた人を感じることができます。
そこに人が生きていた。
それらの人たちが、そこを耕し、整備し、「生きる場所」にしました。
そして、その「生きる場所」を次世代にパスし続けてくれ、今があります。
僕たちがそこに生きた人たちを見るのは、‘風景’においてです。
それらの人たちは‘風景’の中にいます。
‘風景’を失うとは、そこに生きた人たちを見失うということです。
そこに生きた人たちが作ったものを見失うことです。
過去との断絶です。


‘風景’が壊されることは群馬県だけでは当然ありません。
全国的なことです。
だからこそ、『JAPANGRAPH』は全都道府県を各1巻で発行することにしたのでしょう。失われる‘風景’を記録することにしたのでしょう。
このまま‘都市化’が指向されれば、変化、変化の連続で、本来の‘風景’は作られることはないでしょう。一代限りの‘風景’が断続的に現れるのみです。
ますます他人/他との繋がりを失う=「自分が何者か」がわからなくなる社会になっていくのではないかと想像します。