小説『関ヶ原』にみる司馬遼太郎小論

司馬遼太郎さんの作品を最初に読んだのは、
恐らくもう20年くらい前、『竜馬がゆく』だったと思います。
その頃、幕末動乱に興味があり、様々なものを読んでいた中の1つでした。
その後『翔ぶが如く』『世に棲む日々』『坂の上の雲』など、
幕末〜を扱った作品を読みあさりました。
その時は、司馬さんの戦国時代ものは、多分1冊も読みませんでした。
歴史全般に興味があったので、戦国時代も好きでしたが、
なぜか興味が行かず、司馬さんを含む戦国時代を扱った誰の小説も
読んだことがなかったのではないでしょうか。

そんな僕に第二期司馬遼太郎期がやってきています。
そして、メインは戦国時代ものです。
その要因の1つは、間違いなく「戦国ixa」というオンラインゲームです。
それは僕にとっての「戦国ixa」の手柄の1つです。
ついに司馬さんの戦国時代ものを読むタイミングがやってきました。
『夏草の賦』をはじめ、『戦雲の夢』『風神の門』『城塞』『播磨灘物語』『箱根の坂』などを読み、そして『関ヶ原』。


【ネタバレ注意】




関ヶ原』の最後の箇所で、黒田如水さんの言葉として


―― 「あの男は成功した」といった。ただ一つのことについてである。あの一挙は、故太閤へのなによりもの馳走になったであろう。豊臣政権のほろびにあたって三成までが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ人はけじめをうしなう。かつ置き残していった寵臣からそこまで裏切られれば秀吉のみじめさは救いがたい。その点からいえば、あの男は十分に成功した、と如水はいうのである。


というものがあります。



以前、何かの本で「僕は自分の好きな人についてしか書かないし、書けない」というようなことを司馬さんがおっしゃっているのを読みました。その時はそうなんだ、くらいに思っていたんですけど、『関ヶ原』の上記引用部分を読んで「ああ、なるほど!」とやっとその意味がわかった思いがしました。時に物事の一致は背筋に電気が走るような衝撃がありますが、そんな感じでした。



司馬遼太郎という作家がどういう作家だったのでしょうか。
歴史小説の大家。国民的作家。昭和の大知識人。
どれも当てはまる正解です。ただ、僕はそのような‘呼称’のみでは、司馬遼太郎という作家を表現し切ることは難しいのではないかと思っています。
上記のどれを採用しても言い切れない、溢れてしまう要素。
そんなものがあるのではないでしょうか。
‘呼称’では表現し切れない司馬遼太郎
そこで少し説明的要素をいれたこんな物言いで司馬遼太郎という作家を表現したいと僕は思います。


司馬遼太郎が描き続けたものは「日本人」そのものである。さらに詳しく言うと、「日本人も捨てたもんじゃないよ」という、日本人を祝福し続けた作家である。


と。


司馬さんが始めて小説を発表されたのは昭和31年だそうです。その頃は、(今も続くけど)「日本人が日本人を否定する」真っ只中だったというのは容易に想像できます。戦争に負け、無条件降伏をし、アメリカを始めとする連合国軍に占領された日本において、「戦争の責任は日本にある。政治家、官僚、軍部を始めとする日本人にある」という認識は当然広く共有されるものだったでしょう。GHQに逮捕され裁判にかけられた軍人(と少々の政治家)に対する日本人の態度を見れば、その責任の多くを軍部に求めていたのは確かでしょうが、奥底では絶えず「日本人」そのものの責任という認識は渦巻いていたのではないかと僕は推測します。
そんな苛烈に「日本人が日本人を否定する」という民族的に不幸な時代に、司馬さんは作家デビューをしました。


作家デビューの前は新聞記者だった司馬さんは、小説が書けてしまったから小説家になったのか、何かの意図をもって小説家になったのか。僕の想像が暴走することを許してもらえるなら、司馬さんは絶対に後者です。
司馬さんはある意図をもって小説家になり、小説を書き続けたのです。
その意図とは、敗戦による‘断絶’の帰結としての「日本人が日本人を否定する」というその不幸をいかに和らげるか、というその一点にあったのではないでしょうか。
その一点というのはかなり乱暴な言い方で司馬さんに対して失礼ですが、
それが大きな比率を占めていたことは間違いない、と僕は思っています。
なぜなら、司馬さんは自分が好きな人物しか描かなく、描けなかったからです。
もちろん他の作家の方でも、自分の好きでない人を題材にすることは、
難しいでしょうし、なかなかないことだろうと思います。
その当然のことを司馬さんは自分の言葉で発言していることに注目したいです。
なぜそんな当然のことをわざわざ発言したのか。
それはそのことが司馬さんにとって重要なことだったからではないでしょうか。
重要なことだから当然のことであっても、発言したのではないでしょうか。
僕はそんな風に思います。


司馬さんは自分の好きな歴史上の人物を描くことで、
「ロクでもない日本人かもしれないけど、過去にはこんな素晴らしい日本人もいたんだよ。捨てたもんじゃないでしょ、日本人も」
と作品毎に、様々な時代の人を躍動させることで言い続けたのです。
好きではない人を描くことではこのメッセージに生命を宿らせることができないがために、自分の好きな人しか描かなく、描けなかったのだと僕は考えます。
つまりは、自分の好きな人を描くことでしか司馬さんの意図は達成できなかったのです。



日本民族を祝福し続けた作家、それが司馬遼太郎という作家です。
戦後日本にとって、司馬遼太郎という作家が果たした役割は、
僕には想像もつかないけど、甚大であった、ということに関しては、
間違いないでしょう。



最後に改めて。


―― 「あの男は成功した」といった。ただ一つのことについてである。あの一挙は、故太閤へのなによりもの馳走になったであろう。豊臣政権のほろびにあたって三成までが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ人はけじめをうしなう。かつ置き残していった寵臣からそこまで裏切られれば秀吉のみじめさは救いがたい。その点からいえば、あの男は十分に成功した、と如水はいうのである。


この一点において、司馬さんは石田さんのことが大好きだったのでしょうね。
他にどんな欠点があろうが(笑)。