歴史に学び、歴史になる

先日、斎藤隆夫を取り上げたテレビ番組を観ました。
斎藤隆夫とは、反軍演説で歴史に名を残す戦前〜戦後の政治家です。
1912年(大正元年)〜1949年(昭和24年)の間、当選13回の衆議院議員でした。(落選は一度)
亡くなったのが1949年でしたので、政治家として人生の幕を閉じられました。
政治家になる前は、アメリカの法科大学に留学し法を学んだ弁護士でした。
現在では弁護士出身の政治家というのは多いですが、そのはしりといった感じでしょうか。
その経歴からも想像できるように、演説、弁舌で存在感を発揮し(原稿を読まずに、暗記をしていた!)、軍部への批判演説を帝国議会でたびたび行ったことで、当時においても異彩を放っていた政治家だったようです。
テレビ番組でも、斎藤隆夫に送られた国民からの激励手紙が紹介されていていました。
その中には、「なぜ、斎藤は沈黙するのか」といった国民からの手紙もありました。
後述する反軍演説のあとには、800通もの手紙が届いたそうです。
斎藤隆夫帝国議会で行った主な演説は、



1924年大正14年)の普通選挙賛成演説
1936年(昭和11年)の粛軍に関する質問演説(粛軍演説)
1938年(昭和13年)の国家総動員法に関する質問演説
であり、
1940年(昭和15年)の支那事変処理中心とした質問演説を正式名称とする反軍演説
です。



これらからも軍部に批判的な意見をもっていたことが分かります。
その最たるものである反軍演説後、陸軍の反感を買い、懲罰委員会にかけられた結果、本会議で賛成296名、反対7名(この中に戦後総理大臣になった芦田均がいました)、棄権121名、欠席23名によって、衆議院議員を除名されました。失職したわけです。
軍部が政治家を辞めさせる力を誇示した「事件」であり、同年10月には近衛文麿を中心とした政府への全国民的協力組織・大政翼賛会が発足し、その後の軍部支配力が決定的となっていきました。
(1937年の腹切問答と言われる浜田国松代議士と寺内寿一陸軍大臣帝国議会内での論争では、浜田が辞めるどころか、寺内が陸軍大臣を辞職しました。これは、寺内の責任が問われてという理由ではなく、議会解散を総理大臣の広田弘毅に求めたところ拒否されたので、自分が辞職して内閣を総辞職させるためでしたが、浜田の責任を追求して辞職・除名させることを実行しなかった、できなかったという事実は注目に値します)



ここでその前後の日本・世界の状況を確認しておきます。
1936年(昭和11年)二二六事件
1937年(昭和12年日中戦争勃発
1938年(昭和13年国家総動員法制定
1939年(昭和14年第二次世界大戦開戦
1940年(昭和15年)日独伊三国同盟締結  反軍演説
1941年(昭和16年)太平洋戦争開戦
日本においても、世界においても軍というものが中心的な存在になっていったといってもいいでしょう。
反軍演説はそんな状況において行われた「覚悟の演説」だったのです。



それでは軍部の怒りを買った反軍演説とはどのようなものだったのでしょうか。
「唯徒に聖戦の美名に隠れ国民的犠牲を閑却し」、国際正義・道義外交・共存共栄など雲を掴むような文字を列べ立てて国家百年の大計を誤ってはならない、といったことを中心に、中国政府に対しての質問、支那事変の処理に対する質問がその内容です。
(全文  http://www7b.biglobe.ne.jp/~bokujin/shiryou1/hangun.html
その一部ですが、音声が残されています。
文字で読むだけでは分からない拍手や野次、罵声などがはっきり確認でき、その場の熱が伝わってくるようです。



(※ 動画のタイトルが「粛軍演説」になっていますが、反軍演説です)



先述のとおり、この演説の結果斎藤は除名・失職しました。
失職後も警察や軍部の監視や暗殺まがいの脅迫なども受けたようです。
その流れからいくと、当時の状況から考えてもこのまま政治生命が終わってしまいそうですが、
冒頭で記したとおり、1949年に亡くなるまで政治家であり続けました。
つまり、失職後、再度当選しているのです。当然戦中に、です。
これは驚くべきことではないでしょうか。



斎藤失職後の選挙は、1942年(昭和17年)に行われました。
太平洋戦争開戦後のその選挙はもはや´普通´のものではなく、翼賛選挙と呼ばれる著しく不公平なものでした。
翼賛政治体制協議会という組織により推薦された候補者が、選挙資金を与えられ、軍部や右翼団体などから支援を受ける一方、非推薦者は立候補辞退の強要など有形無形の妨害を受けていたと言われています。
斎藤は当然、非推薦人で出馬しました。地元の兵庫5区です。
詳細は分かりませんが、当然斎藤も妨害を受けたでしょう。
2年前の反軍演説もあったことから、特別目の敵にされた可能性も考えられます。
それは斎藤自身へのものだけでなく、支持者や有権者にも向けられたのではないでしょうか。
脅し、脅迫、買収などがあったことは想像に難くありません。
しかし、そんな状況下で、斎藤はトップ当選を果たします。
テレビ番組でもこのことは大きく扱っていましたが、心の底から感動しました。
斎藤自身の凄さは言うまでもないことですが、正直それ以上に斎藤をトップ当選させた投票人たちが僕の心を揺さぶりました。
現在では想像もできないほどの露骨なことが彼らに行われていても不思議ではありません。身の危険を感じた人も多かったことでしょう。しかし、そんなことに負けずに立憲主義を信念とし、故に反軍部の信念をもつ斎藤を議会に送ることに賭けた人たちが存在していたことに涙が出てきました。
斎藤を信じ、(幽かであったかもしれませんが)議会を信じ、様々な妨害にあっても自分たちの信じるものを諦めなかった人たちの存在。
テレビ番組の冒頭で、司会者の歴史学者磯田道史さん(『武士の家計簿』著者)が、
「私は、斎藤隆夫という人がいたから日本人を信じることができる」
といった内容のことを話されていましたが、この言葉を借りるなら、
「僕は、斎藤隆夫を翼賛選挙でトップ当選させた投票者がいたから日本人を信じることができる」
と言いたいです。



国や民族への誇りや信頼は、その国の歴史からしか得ることはできません。
コンビニで買うことも、道端で拾うこともできません。ネットで拾うこともできません。
歴史の中でそれに値する人間が存在するか、そこから獲得するしかないのです。
とりわけ先の大戦中には、日本国、日本人への誇りや信頼を損なう人間がこの国には数多く存在していました。軍部を中心に、政治家、官僚、財界人、そしてそれを支えた国民。
そのダメージは、国や民族への「誇り」という言葉を聞いた途端に拒否を起こさせるほど大きなものとして実際に存在しています。
それを言った途端に即座に「右」と認定されるような、浅はかな共有意識が現代日本の表層には広がっています。日本国、日本人への「誇り」や「信頼」は、決して「右」だけのものではなく、そのほかを含めた全日本人のものであるべきです。「左」の人が、「私は日本国に誇りをもっています」と言ってもいいのです。いや、むしろ言うべきなのです。
日本国や日本人に誇りや信頼を持たない人間に、日本のことについて語る資格はありません。
外野からの言葉はただの野次でしかなく、その言葉の意味のとおり、そこに何かを賭ける「覚悟」などありません。「参考」どまりです。
「日本国、日本人を誇りに思い、信頼しているから、私はこうしたほうが良いと思う」
という話しぶりに、「右」も「左」もありません。
その話しぶりは共有しなくてはならないものなのです。日本のことを考えるのなら。
そのために人間は歴史を必要とします。歴史の中からしか、自国、自民族への誇りや信頼を確認する手段がないのです。(歴史といっても、100年、200年前のことだけではなく、昨日もまた歴史です)
だから、歴史は重要なのです。歴史を学ぶ意味の一つは、
「自国、自民族への誇りや信頼を涵養すること」にあるのです。
(このようなことを言うと、とても「右」っぽく聞こえませんか? それが現代日本の病巣です)



僕は日本、日本人への誇り、信頼を、斎藤隆夫へ投票した人たちから感じることができました。
72年前、1942年の「歴史」が、2014年を生きる人間へ送ってくれたメッセージです。
「日本人も捨てたもんじゃないよ」という。
しかし、72年後に僕たちはそのようなメッセージを送ることができるでしょうか。
今回の衆議院議員選挙で僕が懸念する疑問です。
もっと言えば、群馬5区、小渕優子氏の選挙区です。
将来の日本人へ、誇りや信頼を群馬5区は送ることができるのだろうか。
僕は懸念などという曖昧な言葉でなく、恐怖という強い言葉でそれについて考えています。
規模の大きい政治資金問題(1億円以上!)の捜査が終わっていなく、何の決着もついていない人間が出馬をし、勝ってしまったとき、そして、それが日本の歴史に残ってしまったとき、そして、それを将来に日本人がみたとき、その人はこの国に、この民族に誇り、信頼をもつことができるだろうか。
そんなはずはない。むしろ逆の作用で、日本国、日本人へ唾棄したい衝動に駆られるはずです。
「こんなおかしいことあるか。犯罪人になる可能性が高い人間、陣営が、選挙に出馬し、勝つなんて、どう考えてもおかしい。それを許した日本人って何なんだ??」
仮に僕が100年後、今回の小渕氏の出馬、(仮に)勝利を歴史の教科書や本で知ったとしたら、
間違いなくこのように思うでしょう。そして、それは日本国、日本人への恥、不信の一要素になるでしょう。
自民党は、「誇り」が何とかとしきりに言っていますが、自分たちが最もその逆のことをやっているということには、当然気づいていません。しかし、それは事実です。
集団的自衛権容認の解釈改憲特定秘密保護法強制成立、原発再稼働への露骨な意欲、福島第一原子力発電所の稚拙な対応(無関心)、武器輸出三原則緩和など、そしてそれらを支える無法な人事介入など、後の日本からみて「何でそんなことしたのか分からない」と思われる(と僕が思っている)ことをやっているのが自民党なのですから。小渕氏の公認もそのリストに加えることができるでしょう。
小渕氏の選挙区の有権者として、将来の日本人へ誇りとなることを願う1票を僕は投じたいと思います。



現在選挙戦が行われている衆議院議員選挙は、当然現在であり、近い将来の日本のことを決めるためのものです。結果により、首相が変わるかもしれない、与党が変わるかもしれない、その枠組みが変わるかもしれない、今のままかもしれない。それらは現在であり、近い将来の日本のかたちを決めるものです。
そして同時に遠い将来へのメッセージでもあります。僕たちも歴史になります。単純な言い方ですが、良い歴史なのか、悪い歴史なのか。
1942年4月という、反軍部的思想をもつ者にとって極めて絶望的なときに、己の危険を顧みず斎藤隆夫をトップ当選させた人たちが存在していました。
その人たちの思いとは逆にその後3年も日本は戦争を続け、東京、沖縄、広島、長崎をはじめとする日本中の人々を苦しめました。
その意味では、斎藤隆夫をトップ当選させた投票者の行為、思いは無駄だったのかもしれません。
しかし、72年後の今、彼らの行動は「誇り」として確かに届きました。
彼らの行為は決して無駄なことではなかったのです。そしてそのことをより確かなものにするために、それを受け取った者が、将来の誰とも知らない日本人へパスしなければなりません。
100年後に、何かの拍子に誰かがこのブログをみて、「アホな選挙だったけど、それに疑問をもち、抗う人もいたんだな」と思ってもらえたら、ひとまず僕の役目も果たせる。そう思いたいです。
「誇り」は偉人や有名人のみが提示するものではありません。
斎藤隆夫をトップ当選させた歴史に名を残すことのない一般人がそれを為したように、100年後の日本人へ「誇り」を届けるのは、現在生きている僕たちです。そのことは忘れてはいけない。僕はそう思います。



余談ですが、司馬遼太郎という作家は、日本国、日本人の誇りを書き続けた作家でした。
司馬さんは太平洋戦争に戦車部隊の小隊長として出征しました。実際に軍隊に所属し、その内部を見た人間として、こんな戦争はない、という思いに駆られたそうです。
戦後の日本は、そんな司馬さんの思いと共同歩調のごとく、一気に「軍国主義」から「民主主義」の国となり、8月15日以前のものが親の敵のような存在として扱われました。
日本人は、日本国を怨嗟していたのです。
司馬さんが小説をはじめて発表したのは、1956年(昭和31年)です。
司馬さんが何かのインタビューかエッセーかで、「僕は好きな人物のことしか書けない」ということをおっしゃっていました。だから、モノンハン事件のことを書こうと思って取材したがそこに登場する人物誰ひとりに共感することができなく「書く事ができなかった」そうです。
なぜ司馬さんが好きな人物しか書けなかったのか。
これは僕の想像ですが、司馬さんの好きな人物とは、誇りを感じることができる人物という意味だったのではないでしょうか。
日本人が日本国を怨嗟するという、嘆かわしい状況に危機感を覚えた司馬さんは自分の使命として、
日本人が、自国、自民族を誇りに思えるような人物をすえて小説を書かなくていけない、と思われたのではないか。
その結果が、坂本龍馬であり、勝海舟であり、吉田松蔭であり、松本良順であり、河井継之助であり、西郷隆盛であり、秋山好古・真之兄弟であり、正岡子規であり、長宗我部親子であり、大村益次郎であり、石田光成であり、高田屋嘉兵衛であり、黒田如水であり、江藤新平であり、土方歳三であり、雑賀孫市であり、空海であったのです。
乃木希典のことを書いた『殉死』については、本の中で「筆者はいわゆる乃木ファンではない。(中略)筆者はこの書きものを、小説として書くのではなく小説以前の、いわば自分自身の思考をたしかめるといったふうの、そういうつもりで書く」(『殉死』文春文庫 P15)と断っている)
司馬さんは、それらの人を題材に、「日本人もそんなに捨てたもんじゃないよ」ということをおっしゃりたかったのではないか、と僕は想像します。
石田光成を主役にした『関ヶ原』の最後にこのような記述があります。

「あの男は成功した」といった。ただ一つのことについてである。あの一挙は、故太閤へのなによりもの馳走になったであろう。豊臣政権のほろびにあたって三成までが家康のもとに走って媚を売ったとなれば、世の姿はくずれ人はけじめをうしなう。かつ置き残していった寵臣からそこまで裏切られれば秀吉のみじめさは救いがたい。その点からいえば、あの男は十分に成功した、と如水はいうのである。


司馬さんの思いはこれに尽きる、と思います。



<追記>
※ 再放送があるそうです。「英雄たちの選択「開戦前夜!政治家 斎藤隆夫の挑戦〜命をかけた名演説〜」」
  http://www4.nhk.or.jp/heroes/x/2014-12-12/10/25179/
  12/12(金)BSプレミアム 午前8時00分〜午前9時00分