稲尾さんと「興奮」と、少し捨て奸。

http://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20120428-941522.html
ライオンズ鉄腕稲尾「24」西武で永久欠番



稲尾さんが活躍された頃、
それを知らない僕たちが決して味わうことのない興奮が、
プロ野球にはあったのだと思います。


選手のレベルが上がった、下がった、
野球人気が高かった、低かった、
そんな次元とは全く違うところに「興奮」はあったのではないかと想像します。


過去の選手と、現代の選手の野球のレベルの比較はとても難しいものだと思いますが、一説によれば、現代の方が数段上である、とも言われているようです。
確かにそうなのかもしれません。
僕にはそれを調べる能力がないので何とも言えませんが、
仮にそれが事実であったとしても、
そんなことは「興奮」にはほとんど関係ありません。


ダルビッシュ有さんの方が、稲尾さんより投手としての能力は、
高いのかもしれない。
でも、ダルビッシュさんには、稲尾さんが創出させた「興奮」を再現することはできません。断じてできない。
なぜか。
それは、繰り返しますが、選手の能力と別のところに「興奮」はあるからです。


>「神様・仏様・稲尾様」と呼ばれた伝説がある。58年の巨人との日本シリーズ。3連敗後に4連勝で日本一に輝いたが、その4勝全てが稲尾氏の白星だった。このシリーズ7試合中6試合に登板(5先発)。サヨナラ本塁打も放つなど、投打に大車輪の活躍を見せた。


「興奮」のありかは、その状況です。
こんな今では考えられない、決して実行されることが許されない状況が、
「興奮」を創りだすのです。
文字を読んだだけでも興奮します。涙がでてきます。
当時の西鉄ファンのみならず、全プロ野球ファンや、野球に興味がない人でもこの数日は稲尾さんに釘付けだったのではないでしょうか。
実際そうなのか知りませんが、
この文字だけでもそんなことを掻き立てられてしまいます。
つまりは、そういうことを想像して僕は「興奮」してしまうのです。
稲尾さんの投球を見ずとも、身体が熱くなってしまうのです。


現代だったら「選手が壊れちゃう」「選手生命が短くなる」「それについての補償はどうするのだ」とか何とかで、
上記のような状況は絶対に許されないでしょう。
確かにその言い分は‘正しい’ことだと思います。
ただその‘正しい’言い分によって、この種の「興奮」が生まれる状況の扉は、
永遠に閉ざされてしまうのです。



戦国時代の末期、関ヶ原の戦いにおいて。
徳川家康率いる東軍に対する西軍の中に、
薩摩の国から参陣した島津義弘という武将がいました。
薩摩の国の大名・島津義久の弟であり、歴戦の猛者です。
関ヶ原の合戦自体、半日で決着がつき、
朝から始まった合戦は、午後早い時間には西軍の潰走で終わったそうです。
潰走が決定的になった時、島津義弘は敵陣の真ん中付近にいたといわれています。そこから撤退を始めなければならない状況で、
「島津の退き口」が開始されました。
この「島津の退き口」とは、撤退の方法の名称なのですが、
その内容は壮絶です。
捨て奸(すてがまり)という戦法がその根幹になります。
その戦法は、主君である義弘を守るため、殿(しんがり)の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、死ぬまで追ってくる敵軍を足止めさせ、それが全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる、という多くの兵の犠牲を前提にしたものです。


この撤退は、戦国時代の数ある合戦の戦法の中でも、
後世にまで人々の口々に伝えられる逸話になっています。
その背後にあるものは、僕の言葉でいえば「興奮」です。
この話を聞いて熱くなり「興奮」するから、その話を他の人へ伝えたい、
という欲求が生まれ、それが広く行われることで、
400年経った今でも戦国時代の逸話として、語り継がれているのです。
当然、僕も「興奮」します。


この「興奮」も現代では味わうことはないでしょう。
戦国時代と現代を比較するのはお門違いだ、
という声はもっともですが、
「己の命を犠牲にして、他を守る」という観点からは、
そこに時代の差はなんの影響も与えません。
「島津の退く口」で行われたことは、
「主君を守るために己の命を犠牲にすること」です。
現代でも、合戦の場ではないかもしれませんが、
それをやることは可能です。
でも、実際は不可能です。
なぜか。
現代において、「己の命を犠牲にして、他を守る」ことは
状況として許されないからです。
「ここで1人犠牲になれば、他のみんなが助かる」
という状況でも、「人権」やら「生きる権利」やら「人の命は地球より重い」やら、そんな‘正しい’言い分で、
「己の命を犠牲にして、他を守る」は却下されてしまうのです。
というか、最初から選択肢から除外されている。


僕は「己の命を犠牲にして、他を守る」という物語に「興奮」します。
そのことの良し悪しとは別のところで、
恐らく多くの人もそうなのではないでしょうか。
そういう意味で、現代はその種の「興奮」から遠ざけられ続けている、と言えます。



稲尾さんの話でした。
稲尾さんは276勝137敗、通算防御率1・98、2,574奪三振という驚くべき記録を作りましたが、
さらに驚くべきことは、実働13年というその短さです。
この短さの大きな理由は、まさに


>「神様・仏様・稲尾様」と呼ばれた伝説がある。58年の巨人との日本シリーズ。3連敗後に4連勝で日本一に輝いたが、その4勝全てが稲尾氏の白星だった。このシリーズ7試合中6試合に登板(5先発)。サヨナラ本塁打も放つなど、投打に大車輪の活躍を見せた。


のような‘無理’にあったことは容易に想像できます。
それは高い確率で事実でしょう。
現代のような考えで投球する、投球させられていたら、
稲尾さんはもっと長く現役を続けられていたことだろうと想像します。
ただ、この現代では許されない‘無理’が50年以上経った今でも語り継がれ、
人々を熱くさせる物語=「興奮」を創ったことは、
もう1つの紛れも無い事実です。


そんな「興奮」はいらないのかもしれない。
‘正しい’ことではないのかもしれない。
ただ、僕は何だか羨ましいです。そんなふうに思います。