今日の一作 〜 映画『アメリカン・スナイパー』

※ネタバレあり


半分しかない頭部、引きちぎられたような上半身、飛び散る血、溢れ出た内臓。
クローズアップ、オートフォーカス、照りつける太陽、完璧な色彩。
つまり、戦争は、そこにいる兵士にしか経験できない。


『帰還兵はなぜ自殺するのか』P333 デイヴィッド・フィンケル著/亜紀書房


この五人の兵士とその家族を描いたノンフィクションの一節は、映画『アメリカン・スナイパー』の監督であるクリント・イーストウッドのこの言葉にも通じるものです。

「戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから。
ずっと前から、そして今も人々は政治家のために殺されている。」


戦争により、政治家の頭が半分になることもなければ、上半身が引きちぎられることもない。
血が飛び散ることも、内臓が溢れ出ることもない。
そんな目にあうのは、ただ兵士と、そして戦場となっている場所で生きる人だけ。


米軍史上最多といわれる160人もの人を射殺した実在のスナイパー、クリス・カイル。
この作品は、彼のイラクへの初派兵(2003年)、その後の計4回1,000日以上の戦場生活から、除隊後のアメリカでの生活、そして死までを描いたものです。
「伝説のスナイパー」の最初の標的は、大人の女性と男の子でした。
戦車用手榴弾を懐に隠し持った二人を発見し、上官に対応を求めるが、「状況が分からない。お前の判断で決めろ」という言葉により、引き金を引く。
二人を射殺し、上官より「良い判断だった」という言葉をもらうクリス。
それが「伝説」の始まりだったわけですが、この場面の緊迫感は観る方も息苦しくなるほどのものでした。
初めて人を殺す判断を迫られた人間の孤独な息遣いがジリジリと伝わってきて、思わず拳を握りしめてしまいました。その場面は前半部分の5分くらいのものだったのでしょうが、僕はその5分間に映画を見ている間ずっと支配されていた感がありました。
その5分間の緊迫感の核をなしたものは、クリスの葛藤です。
「女性だぞ、子供だぞ、でも武器をもっているぞ、殺さなければその武器で仲間が殺されるぞ、でも女性で、子供だ、、、、」
そんな葛藤がグルグルまわる´永遠の5分間´が、映画において実に効果的でした。
なぜなら、この葛藤が良くも悪くもその後のクリスを形作っていったからです。


計4回の派兵で1,000日以上を戦場で過ごした、と先に記しました。
単純に平均すると、250日を戦場で過ごしたあとに家族(妻と子供二人)が待つアメリカに戻るわけですが、クリス自身が自分の変化を感じていく様が丁寧に描かれていました。
少しの物音にも敏感になり、あるパーティーで自分の子供に戯れる犬に無意識に飛びつき殺そうとする自分を発見する。新生児室で泣いている生まれたばかりの娘をケアしない看護婦に暴言を浴びせ続ける。様々な場面で落ち着きもなくし、そして戦場を恋しく思うようになる。
その変化の強度はイラクから戻るたびに増していっていき、原因不明の高血圧や様々な身体の不調を感じるようになり、最終的には除隊をするに至りました。
その姿の痛々しさは画面を通じて伝わってくるのですが、それはクリスだけのものではありませんでした。
妻・タヤの痛々しさもまた、伝わってきました。
「以前のあなたに戻って!」というタヤの叫びは切実そのものでした。

「家に返ってくると、彼は別人になっていました」。彼女はそう証言した。「とても簡単なことでもすぐに忘れてしまうのです。洗濯機に衣類を入れても、そのことを忘れてしまう。オーヴンに点火しても、点火したことを忘れる。領地をオーヴンに入れたまま、それを忘れてしまったことが何度かあったので、わたしはオーヴンもコンロも彼に使わせないようにしました。
 ある夜、わたしたちはベッドで寝ていました」。証言はさらに続く。


いつもわたしは、夫の腕に抱かれ、彼の胸に頭を載せて寝ています。その夜に、夫が急に「助けてくれ」と叫び始めました。きっと銃で撃たれた夢を見ているのだと思いました。(中略)彼はひどく汗をかいていて、それから眠ったまま、わたしの首を締めはじめたのです。ようやく我に返ったのか、首を絞めていた手を離しました。必死で喘ぎながら泣いているわたしの声を聞いて、夫は目を覚ましました。どうしたんだ、と言い、明かりをつけました。わたしは、あなたに首を絞められた、と言いました。夫は何度も謝りましたが、そんなことをした覚えはないと言いました。でも、私の首にできた痣と、顔と首の色が変わっているのを見て(中略)。
ある日わたしたちはトピーカに行こうとしましたが、そこまでたどり着けませんでした。(中略)彼はびっしょりと汗をかいていました。車を路肩に寄せてくれ、息苦しい、ひどく頭が痛い、と彼は言いました。それでわたしはガソリンスタンドに車を入れました。体が燃えてるみたいだ、と彼は言いました。見ると、バケツの水をかぶったように汗まみれになっていました。でも、その体に触れると、とても冷たかった。(中略)わたしは、家に帰ろう、と言いました。州間道路に入ると、彼は震えはじめ、パニックに陥り、意識を失ってしましました。


『帰還兵はなぜ自殺するのか』P190、191 デイヴィッド・フィンケル著/亜紀書房
※引用部分「(中略)」は原文のママ


これはイラクに派兵されたある兵士の妻の実際の証言です。
そして下記はその娘の証言です。

「パパが正気ではないことはわかっています。誰かに乗っ取られているみたい。そうじゃなかったらパパはこんなことをするはずないからです」公判記録によれば、彼女は捜査官にそう述べた。「パパはこういうことからいつもわたしたちを守ってくれる人でした。イラクから傷を負って帰ってくると、別人になってしまっていました」


『帰還兵はなぜ自殺するのか』P192 デイヴィッド・フィンケル著/亜紀書房


クリスの妻・タヤの直面した現実、そしてそこから出された叫びもこれらに類するものでした。
クリスとタヤの度重なる葛藤の後、クリスは幸運にも家族との生活で徐々に平静を取り戻し、PTSD心的外傷後ストレス障害)とTBI(外傷性脳損傷)で傷ついた帰還兵の世話をするようになります。(映画では触れられていませんでしたが、実際はPTSDに悩む帰還兵を支えるためのNPO団体を作り活動していたようです)
クリスの最後がこの映画の最後でしたが、それは突然やってきました。
治療の一環で連れて行った射撃場でPTSDに悩む帰還兵に射殺されることによって。
映画の最後は、クリスが射殺されたあとの模様や、葬儀の模様の実際のニュース映像などでした。
柩を乗せた車が通る道路の脇、歩道橋の上などに星条旗をもった溢れんばかりの人がその映像の中にはいました。
そして、軍の高官や政府の要人と思われる人もいました。国葬なのか、軍葬なのか、多くの人がいました。
この映画は、クリス・カイル、その妻タヤという個人を冒頭からずっと描き続けてきていましたが、
最後の最後で個人ではなく、公人の話となりました。
公人としてクリスは生涯を終えたのではないか、と僕は感じました。
個人が公人に回収されてしまったと言えばいいのでしょうか。
夫であり、父親である男が、永遠の国の英雄として公人になる様を観ながら、

「戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから。
ずっと前から、そして今も人々は政治家のために殺されている。」


という、先に引用したクリント・イーストウッド監督の言葉が思い出されました。



イラク・アフガン戦争から生還した兵士200万人のうち、50万人もの人がPTSD心的外傷後ストレス障害)とTBI(外傷性脳損傷)という精神的障害を負っているそうです。なんと25%、4人に1人! そして毎年240人以上もの人が自殺(企図者はその十倍とも言われている)をするそうです。(『帰還兵はなぜ自殺するのか』P380、382)
50万人という兵士の背後には、妻、子供、親、友人など、その何倍もの人がいます。
240人についてもまた同様です。
みな名を持ち、顔を持っています。誰ひとり同じ人はいません。
みな悩みがあり、喜びがあり、幸も不幸もあります。
200万人にも、50万人にも、240人にも、顔はありません。ただの数字です。
ホルムズ海峡に1,000人の自衛隊員を派兵するとき、その1,000人には固有の顔があります。
その1,000人の背後にも固有の顔をもった人々がいます。
1,000人、5,000人、1万人という数字のみで自衛隊員が表現されるとき、彼らは固有の顔を無視される。
それは例えば「1人が犠牲になりました」ということになったとき、「1人か。少なくてよかった。ほぼ犠牲なしでよかった」という数字の上での判断がなされるということです。
その1人の人生も、他の人と同じように様々なものを背負っており、その人の家族や友人もまた様々なものを背負っているのだけれども。そこには固有の顔があるのだけれども。


固有の顔が記号になるとき、戦争は美しくも、誇らしくもなる。
机上で語られるものになる。
戦争を美しく、誇り高いものとする人は、戦場にいない人たちであることは間違いないことだ、と僕は思います。


この映画の最後、戦争は美しく、誇り高いものとなっていました。
戦場と非戦場が同じものを見るときを、人間の能力がもたらすことが今後あるのでしょうか。




アメリカン・スナイパー
公式HP  http://wwws.warnerbros.co.jp/americansniper/