今日の一作 〜 映画『オオカミは嘘をつく』


※ネタバレあり


公式ホームページ
http://www.bigbadwolves.jp/


予告編


2013年製作のイスラエル映画です。「今年(2013年)のナンバーワンだ!」とクエンティン・タランティーノ監督が絶賛した映画として話題なりました。彼が絶賛するくらいなので、一筋縄でいかない映画です。イスラエル映画というと、アラブ人との対立や戦争をテーマにしたものが多い印象ですが、この映画にはアラブ人はひとりしか出てきません。それもストーリーに関係ありません。イスラエル人のみの映画です。

【ストーリー】


森の中で起こったある凄惨な少女暴行殺人事件。
刑事ミッキは捜査を進めていくうちに、最重要容疑者を特定する。それは一見温厚に見える宗教学の教師ドロールだった。ミッキは不法な取り調べを行い、その動画を偶然ネット上に流されたため捜査は中止に。しかしドロールの追跡をやめないミッキ。そこへ割り込んできたのは、犠牲者である少女の父親ギディだった。彼は法律で裁かれないドロールを自らの手で裁くために周到な復讐計画を練っていたのだ──。
物語は徐々に取り返しのつかない方向へと進み、3人の男たちは破滅へ向かう。
そして最後の1カット、その衝撃はあなたの想像を必ず裏切るだろう。
(公式ホームページより)
http://www.bigbadwolves.jp/story.html


 主題は「暴力」です。冒頭からボコスカやっています。警察官ミッキの手下(チンピラ)が少女強姦殺人容疑者のドロールを殴る蹴るです。その後も暴力の実行者が立ち替わり現れます。ミッキ、娘を殺されたギディ、そしてギティの父親ヨラムと。計4組の暴力実行者です。ミッキはドロールに森林で穴を掘らせ銃を向けて自白を強要します。ギディはドロールを椅子に縛り付け手の指を折る、生爪を剥ぎ、ミッキにもその矛先を向けます。ヨラムはドロールの胸をバーナーで焼きつけます。


 見事にいいましょうか、暴力が順序よくエスカレートしていきます。殴る蹴るというシンプルなものから、最後にはバーナーで焼くという軍隊仕込みの´プロ´のものへと変遷します。それを立て続けに見せ付けられると、ある種の麻痺状態にある自分に気付きます。その麻痺とは、残虐な暴力を前にするとそれより軽い暴力は大したことのないものとして許容してしまう状態です。ヨラムの暴力を見たとき、その前に現れたチンピラ、ミック、ギディの暴力は「かわいいもの」として映ってしまったのです。そして、「ヨラムの暴力よりもマシ」という感覚でその存在自体に大した注意を払わなくなってしまったのです、ヨラムの残酷な暴力に目を奪われて。


 しかし、重要なことは、依然としてチンピラの殴る蹴る、ミックの銃で脅す、ギディの生爪を剥がす暴力は存在し続けているということです。その残虐性を温存して。


 イスラエルは、満18歳で男子は3年、女子は2年の兵役がある国です。それがどんな体験であり、どのような社会をつくるのか僕には分からない部分が多いのですが、ヨハムの言葉がヒントになるかもしれません。ドロールの胸をバーナーで焼くという暴力は、「人間も火が怖いんだよ。軍隊で習わなかったか?」というヨハムの言葉によって実行されます。この言葉はイスラエル社会の一面を物語っているように思います。国民の大多数が経験する軍隊によって植えつけられた暴力が表出されることがあるという社会です。それは、言葉をかえるなら、「暴力がセットされている社会」です。そのような社会の特徴は、より残虐な暴力を行使する者が上位に見られるということ、です。実際ヨハムが暴力の連鎖に参加したのは、息子であるギディの手伝いをしようとか、役に立ちたいというものではなく、ギディに邪険に扱われたことに対しての自分の優位性を示すことがその理由でした。「お前より残虐な暴力を知っていて、それを実行するオレに敬意を示せ」という意味を込めての参加だったのだと、僕は感じました。当然そんなことをベラベラ台詞でしゃべるわけではありませんが(そんな映画は品がないですね)、「人間も火が怖いんだよ。軍隊で習わなかったか?」という台詞の時の「どうだ!」と言わんばかりのギディに向けたヨハムの表情がそれを物語っていたのです。ヨハムはギディの「そんな残虐なことを!」といった表情を見て、深く満足します。この二人のやり取りから、イスラエルの「暴力がセットされている社会」を垣間見ることができます。


 さらに「暴力がセットされている社会」は、より残虐な暴力によって更新されていく結果、より残虐な暴力によって「それに比べたらマシ」と格下げされた暴力がその残虐性を保存したまま存在し続ける社会といえます。いわば、暴力が蓄積されていく社会です。脚光を浴びる暴力の陰で「まだマシ」な暴力が数千、数万と人の注意を引くことなく、日常的に存在しているわけです。「暴力がセットされている社会」の本当の怖さは、極めて残者な暴力があることよりも、数多くの「まだマシ」な暴力が日常的に当たり前のようにそこにあることなのだと思うのです。


 暴力は身体的なことのみではありません。精神的なものも含め暴力が連鎖しているとき、その社会には目に見えない暴力が既に蔓延しているのではないか。そんなことを感じさせる映画でした。