「コミュニケーション」を変えちゃおう


東京新聞朝刊の土曜日版に「考える広場」というコーナーがあります。
「大学」「学び」「マタハラ」「パワハラ」など、単一のテーマについて3人の識者(この言葉どうにも好きではないのですが、他の言葉が思いつかないのがもどかしいです)のそれぞれの意見、考えが掲載される1ページのコーナーです。
4/11(土)のテーマは、「「触れ合い」してますか?」というタイトルのセックスレスについてでした。
近年増えてきたといわれるセックスレスについての、産婦人科医・医学博士の宋美玄さん、東京大学教授の瀬地山角さん、作家の島本理生さん三者による論考です。
 このコーナーは正直当たり外れがあります。「この人つまらないこと言ってるなあ」と思うこともままあるのですが、今回のお三方は素晴らしかったです。三者それぞれの力点がしっかりテーマをもっていましたし、それぞれ説得力のあるものでした。宋美玄さんは「そもそもセックスレスがそれほどよくないことなのか?」「セックスは高度なコミュニケーション」という論点、瀬地山角さんは「なぜセックスレスなのに結婚を維持できているのか、という問い立て」という論点、島本理生さんは「心の問題というより、労働時間が長いという社会のシステム的な問題の方が大きい」という論点。それぞれの角度がとても興味深かったです。



 今回僕が書きたいことはセックスレスについてではありません。宋美玄さんが言及されていた「セックスは高度なコミュニケーション」ということに関連したコミュニケーションについてです。まず宋美玄さんが述べられている「セックスは高度なコミュニケーション」についての箇所を引用します。


「若い男性のセックス離れは、コミュニケーションが苦手なことが大きく影響していると思います。セックスはコミュニケーションとしては高度です。まず、相手にその気があるのかどうか感知して誘い、反応を見ていく。ところが今の若い男性の中には、女性との会話を成立させることさえ難しい人がいる」


 この箇所を読んでセックスがどうだとかの前に、「そもそもコミュニケーションってなんだ?」ということが気になりました。カタカナ言葉には常々注意しなくてはならない、と思っているのですが、その最たる言葉が「コミュニケーション」という言葉のような気がします。たびたび使われ、意味もみなが共有していると思われている´当たり前の´言葉だからです。カタカナ言葉の中でもその条件を高水準で満たしている言葉こそ「コミュニケーション」という言葉です。この言葉の意味はどういうものなのか、ということを考えてみたいと思います。
 まず辞書で調べてみます。

コミュニケーション


1 社会生活を営む人間が互いに意思や感情、思考を伝達し合うこと。言語・文字・身振りなどを媒介として行われる。「―をもつ」「―の欠如」
2 動物どうしの間で行われる、身振りや音声などによる情報伝達。
[補説]「コミュニケーション」は、情報の伝達、連絡、通信の意だけではなく、意思の疎通、心の通い合いという意でも使われる。「親子の―を取る」は親が子に一方的に話すのではなく、親子が互いに理解し合うことであろうし、「夫婦の―がない」という場合は、会話が成り立たない、気持ちが通わない関係をいうのであろう。


http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/82060/m0u/


これを読んでも「まあ、そうだよね」といった感じで特に新しい発見はないように思います。それくらい広く共有されている言葉であるということでしょう。「意思を伝達しあう」という意味が軸になっています。先に引用した宋さんの言葉にこの意味を当てはめてみます。


「若い男性のセックス離れは、意思を伝達しあうことが苦手なことが大きく影響していると思います。セックスは意思を伝達しあうこととしては高度です。まず、相手にその気があるのかどうか感知して誘い、反応を見ていく。ところが今の若い男性の中には、女性との会話を成立させることさえ難しい人がいる」


 なるほど、意味は通ります。誤解もしようがない文章になったと思います。スッキリしています。それは言葉の意味が通るとともに、文章にあらわれている認識も広く共有されているからではないでしょうか。つまり、「若い男性は意思の伝達しあうことが苦手な人が増えている」という´常識´が流通している社会において当たり前の文章だからスッキリしている、ということです。この´常識´は、「若い男性は意思の伝達しあうことが苦手な人が増えている」のは問題だよね、ということとともに、「克服は難しい」ということも含意しているもののように感じられます。そこまでセットで´常識´である、と。なぜなら、「若い男性は意思の伝達しあうことが苦手な人が増えている」というのはここ1、2年の話ではなく、少なくとも10年以上問題として存在し続けるベテランであるからです。解決できない問題として存在し続けることでいつしか「解決できない」ということも含まれてしまったではないでしょうか。問題だけど解決できない諦めがコミュニケーション能力不足にはこびりついてしまっている、といってもいいと思います。


 コミュニケーション能力不足の問題はセックスレスについてだけで取り上げられるものではありません。ビジネスの場でも、友人関係の場でも、親子関係の場でもこの世に存在する人と人の関係の場には必ず顔を出す問題です。社会における一大問題といってもよいものです。それがどの場でも長い間問題であり続けているのが現状です。そのような状況も含めた形で´常識´になっていることもまた大きな問題だと僕は考えます。
 それではなぜコミュニケーション能力不足の問題は解決されえない問題なのでしょうか? それが僕にわかるはずもありませんが、ただ状況を整理することはできます。先述したようにコミュニケーションの意味は、「意思を伝達しあう」という意味で広く共有されています。それが解決できないのならば、その意味を変えてしまえばいい。解決できそうな意味に。かといって、当然全く違う意味に変えることなどできません。例えばその意味を「食べる」や「遊ぶ」などという意味にできるはずもありません。あくまで関係した意味にです。そのような前提にたったとき、一体どのような意味に変えることができるのか。
 「意思を伝達しあう」という意味を、かけ離れない意味でどのように変えればいいのか。「意思を伝達しあう」の前の状態を考えてみます。それには「「意思を伝達しあう」ことが成り立つのはどのような状況か?」という問い立てが有効だと思います。「意思を伝達しあう」の根本を探る問いになるからです。その状況を考えるとき、まず意思の伝達が必要だということは、お互いにお互いの意思を知らないということがあげられます。相手の意思を知らないから伝達の必要があるわけですね。さらに考えると、相手に意思があるのかないのかも知りません。例えば、前半にあげた宋さんの言葉、


「若い男性のセックス離れは、コミュニケーションが苦手なことが大きく影響していると思います。セックスはコミュニケーションとしては高度です。まず、相手にその気があるのかどうか感知して誘い、反応を見ていく。ところが今の若い男性の中には、女性との会話を成立させることさえ難しい人がいる」


の中にもその指摘があります。「相手にその気があるかどうか感知して誘い」とあるように、相手に必ずしも意思があることは決まっていなく、相手に意思があるかないかも感知する必要があるわけです。意思の有無も知らない。
意思を伝達しあう。相手の意思を知らない。そもそも意思があるのかも知らない。この流れからさらに深堀りしていくと行き着く先は、「そもそも他人のことは分からない」であり、「分からないものと向き合うこと」という地点にならざるを得ません。コミュニケーションの根本は、「分からないものとどうに向き合うか」にあるということです。浮き出る部分は「意思を伝達しあう」かもしれませんが、根本には「分からないものとどうに向き合うか」というものが潜んでいる、と僕は考えます。それを踏まえて、コミュニケーションの意味を「分からないものに向き合うこと」としてみるのはいかがでしょうか。その意味で考えたとき、コミュニケーション問題が良い方向に向かう可能性があるのではないか、と僕は思います。なぜなら、「分からないものに向き合うこと」の実践は個人で何度でもできるからです。いわば楽に訓練することができるわけです。その実践とは、芸術に触れることです。


芸術に触れるということは、疑問の連続です。映画、音楽、絵画、写真、文学などに触れたときに起こる共通したことは、「これは何なんだ? どういうことだ? どういう意味なんだ?」といった疑問の発生です。モグワイを聴いて「どういうことを意図しているんだ?」と感じ、『ミリオンダラー・ホテル』を観て「どういう意味だ?」と考え、土門拳の「昭和のこども」を見て「ここから見いだせるものは?」と考える。それらは、「分からないもの」を分かるようにすることでもありますが、「分からないもの」への対応の仕方そのものでもあります。「分からないもの」に対しどのように向き合えばいいのか。答えを求めるでもなく、ただどのように向き合うのか、という実践。それはコミュニケーション=「分からないものに向き合うこと」と根本的に同じことなのではないでしょうか。
コミュニケーションを「意思を伝達しあう」という意味で考えると、その実践は対人でしかすることができません。そのような状況において、その実践をできる人はそもそもコミュニケーション能力がある人です。コミュニケーション能力が低い人は実践すらできないから、必然的にコミュニケーション能力を向上させることができない構造がそこにはあります。言わば、コミュニケーション格差構造です。その構造下において、コミュニケーション問題は決して解決することはありません。
コミュニケーションという言葉が、当たり前の言葉として流通するほどに一般的で、みながそう認めているのなら、それは解決されないものとしてではなく、克服されるものとして存在すべきだと僕は思います。そのために繰り返しになりますが、コミュニケーションの意味を克服可能なものとすることです。芸術に触れるという方法で一人でも実践できる「分からないものに向き合うこと」をその意味とし、コミュニケーション能力があることの基準を下げることで、多くの人がコミュニケーション能力があるという状況を作るのです。ただの言葉のすり替えで何の意味もないことのように思われるかもしれませんが、「分からないものに向き合うこと」は必ず「意思を伝達しあう」という現在のコミュニケーションに行き着きます。「君にはコミュニケーション能力があるよ」という励ましがあれば。「君にはコミュニケーション能力がない」という蔑みの中でコミュニケーション能力が向上しないのと同様、「君にはコミュニケーション能力があるよ」という励ましはコミュニケーション能力を向上させる貴重な下地になります。だからまず多くの人がコミュニケーション能力があるという状況を作ればいい、という単純な思考です。「分からないものに向き合うこと」それをコミュニケーション能力のある条件にしてしまえばいい。



冒頭にあげたセックスレスの話とはまったく関係なのですが(笑)、それに関する記事を読みそんなことを考えました。どこまで有効なのか、僕にも分かりませんが、コミュニケーションなどというものをそんなにハードルをあげたものとして考える必要はないということは確かなことのように思います。
今後もコミュニケーションについては考えていきたいと思います。