断コミュニケーション

「優子さんを元気づけて、みんなで気持ちをひとつにして頑張ろうとずっと女性部大会を続けてきた。それがあんな誤った報道で悔しい。優子さんにとってはタイミングが悪い選挙。いろいろ書かれると思いますが、報道になんか負けません」


ここの優子さんは、恐らく現在日本で一番注目されている優子さん、小渕優子氏です。
12/14投開票の衆議院議員選挙の小渕陣営出陣式においての後援会女性部員の方の言葉です。
(日刊スポーツ12/3 http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20141203-1404064.html


出陣式というのは実際に見たことないのでどのようなものか分かりませんが、
まあ、志を同じくする数十人、数百人の人が集まって、「ガンバロー!」とかいうものだと思います。
そこで出た言葉なのですが、これを読んだとき、すごく嫌なものを読んでしまった、
と即座に感じました。
既視感がある言葉です。
それをどこで見たのか、考えるまでもなく頭に浮かびあがりました。
安倍氏の言葉です。

安倍総理大臣:「火がないところに火を起こして風をあおっている。火がないところに火を起こしてるから、記事としては捏造だろうと。安倍政権を倒したいという方向に持っていきたいということで記事を書くから、そういう間違いがまま起こるのではないか」


テレビ朝日 10/31 http://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000037869.html


当然話の内容は違いますが、共通している部分があります。
報道に対して「ウソだ」といっていることです。
小渕陣営出陣式においては、
「それがあんな誤った報道で悔しい。」
安倍氏の話においては、
「記事としては捏造だろうと」
と。
見事な一致です。
自民党はトップの考えを議員どころでなく、支持者にまで組織的に浸透させているのでしょうか?
残念ながら、僕はそうではないと思います。
仮にそうであれば、自民党組織力の強さに慄きもしますが、まだマシです。
残念ながら、です。


この事例から僕が率直に感じたことは、
「ああ、ついに一般人もちゃぶ台返しを人の前で使うようになったか」
ということでした。暗澹たる気持ちでした。


ちゃぶ台返しは『巨人の星』の星一徹が使った荒業です。(実際は(確か)一度しかやっていないそうです)
その場の空気を一遍に変えてしまい、その後の言葉をつがせないという現象を引き起こすのがちゃぶ台返しです。黙って割れたお皿や料理を拾うしかありません。会話などあろうはずもありません。
社会、人の頭の中には、ちゃぶ台返し的な言葉がたくさんあります。
どんな状況で使ってもそれになる言葉や、ある状況においてはそれになる言葉など、さまざまです。
そしてそれらは、実は魅力的だったりします。
星一徹ちゃぶ台返しの画をみても、とても気持ちよさそうです。
なにせ全てを一瞬のうちにリセットできてしまうのですから。そのこと自体はすごく気持ちいいはずです。
それと同じように、ちゃぶ台返し的な言葉を使うこと自体は気持ちのよいことになるでしょう。
しかし現実では、たとえ魅力的であっても、そうそう使われることはありません。
割れたお皿を拾うように、その後が極めてめんどくさいことになるからです。
人間関係を壊したり、社会的信用を失ったりすることもあるでしょう。
また、そんな言葉の対象となる人に対して可哀想という感情も使用を控える理由の一つとなるでしょう。
それらの理由を主なものとして、ちゃぶ台返し的な言葉が使われることはそうありません。
それは永続的にコミュニケーションを捨てたくない、という意志に下敷きされたものなのです。


小渕陣営出陣式での女性部員の、
「それがあんな誤った報道で悔しい。」
安倍氏の、
「記事としては捏造だろうと」
は、ちゃぶ台返し的言葉です。
それまでの話を全て無効にしてしまい、その後のコミュニケーションを拒否する言葉です。
この言葉を吐かれたあとには、誰も何も言えません。
言ったところで「それは捏造ですから」「それはウソですから」という言葉が繰り返されるだけのことがわかりきっているのですから。
ちゃぶ台返しの言葉はコミュニケーション意欲を一瞬で削ぐ言葉なのです。
換言すれば、断コミュニケーションの言葉といえます。


小渕陣営出陣式の女性部員の言葉を読んで暗澹たる気持ちになった、と先述しました。
それは、平然と断コミュニケーションを多くの人の前で宣言してしまう状況を想像して感じたことです。
断コミュニケーションを導く言葉=ちゃぶ台返し的な言葉は魅力で、常に人の頭の中にある、と先に書きましたが、それ自体は昔からあるわけです。ここでは、「誤った報道」という言葉です。
自分側が攻撃されたら、「そんなのウソだ」という言葉は魅力的です。
攻撃から身を守ることができる魔法の言葉なのですから。
しかし、魅力的であってもそれを言わないことになっていたのがこれまでの社会でした。
その理由は先述しました。
その社会が劇的に変わったのだ、ということを小渕陣営出陣式の女性部員の言葉は僕に感じさせました。
なぜそうなったのか?ということを考えると、ある人が、そしてある言葉が頭に浮かびました。
そう、安倍氏であり、「記事としては捏造だろうと」です。
小渕陣営出陣式の女性部員は、安倍氏の真似をしたわけです。
国会という日本で最大といってもよい公的な力をもつ場所で放たれた安倍氏の「捏造」という言葉を聴いて、「あ、言っていいんだ」と女性部員は思ったのでしょう。


言って良い言葉、悪い言葉の差異は、他人が使っているか、使っていないか、です。
使っている人が多ければ多いほど自信をもって使うことができますが、
誰も使っていない言葉は使うことができません。
「この言葉って使っちゃダメなの?何か失礼?それとも重大な意味があるの?」と不安になるからです。
そしてもう一つ、自信をもってこの言葉使っていいんだ、と思わせる鍵は、
公的な人、誰でも知っている有名な人、社会的信用のある人が使っている、ということです。
それらの人が使う言葉は、「使って良い言葉」という雰囲気を醸して世の中に吐き出され、時間が経つにつれて、雰囲気という曖昧な感じではなく、使って当たり前の言葉として社会に定着するものです。
それがちゃぶ台返し的な言葉であっても。
むしろちゃぶ台返し的な言葉は、再三指摘しているように魅力的な言葉なので、「使って良い言葉」認定がなされると俄然注目されます。その分伝播が速くなることは容易に想像できます。


「記事としては捏造だろうと」
は、日本で最も公的な立場の人間が、最も公的な場所で放ったちゃぶ台返し的言葉です。
この言葉の世の中への伝播を僕は危惧していました。
それが現実となったのが小渕陣営の女性部員の言葉だったわけです。
今後の世の中では、さまざまな場面でこの種の言葉を目に、耳にすることになると僕は予想します。
「あ、言っていいんだ」という人がぼろぼろでてくるでしょう。
それは(近い)将来、断コミュニケーションのストレス、絶望感が今と比較にならないほど世の中にはびこることになるだろうことを意味しているのです。



「それを言っちゃあおしまいよ」
寅さんのいうことを聞きましょう。