今日の一作 〜 映画『FURY』


※ネタバレあり

※お詫び :以前☆をいただいたのですが、操作ミスで☆を消してしまいました。
      せっかくいただいたのに、すみません!




「戦争映画」ではない


デヴィッド・エアー監督、ブラッド・ピット主演の映画です。
ストーリーは極めてシンプルです。


「ときは1945年。ウォーダディー(ブラッド・ピッド)率いる戦車(フューリー号)を含む戦車部隊に、行軍するドイツ軍の足止め指令がでる。戦場に向かうまでにフューリー以外の戦車は戦闘で破壊されてしまい、フューリーただ一輛で敵を向かい撃つことに。敵は300人、フューリーは5人、戦いが始まる」


以上。
ただこれだけです。それを物語るように、台詞がある役者は10人前後のみです。
それもフューリーに乗る5人以外は、ほとんど一言、二言です。
この時点でこの映画が「戦争映画」でないことが分かります。
なぜなら、「戦争」を語るのに戦車乗り5人で事足りるはずがありませんから。
それは、フューリー乗組員のひとり、装填手・クーンアスのこの一言でもただちに理解できます。


「軍に間違いがあるはずねえ」


この言葉は、フューリーに新たに配属された新人副操縦士・マシンが、戦場も初めてで、戦車の中をみたこともないのに戦車部隊に配属されたことに対して、「手違いがあったはずだ」といったことに対するものです。
この言葉は、「軍の命令は絶対であるということ」とも解釈できますが、僕は「戦場は´間違い´があってはならない場所。なぜならそれは死を招くから」と解釈したいです。
何か一つでも「間違いとすること」とする判断が、それ以後の彼らの判断を「間違った」ものにする、という戦場の経験則を、クーンアスは語っただけなのだと思います。
「戦争映画」は、判断の正誤がその映画の主題になります。政治家、軍人、官僚、様々な人がたくさん登場し、あーでもない、こーでもない、と言って、「この判断が戦争を勝利に導いた」となったり、「この判断の誤りが戦争を破滅的なものにした」となったりするのが、「戦争映画」です。
この映画には、5人しか登場しなく、あーでもない、こーでもないとも言いません。
「軍に間違いがあるはずねえ」ただ一言です。戦争を語ることをしません。
生き残るために戦争を語ることが1mmの役にも立たないことを彼らは熟知しています。
むしろ、それを語ることが死を招き寄せることになることも、当然知っています。
「この戦争は一体何なんだ!?」と、「戦争映画」によくある疑問が一瞬の判断を誤らせ、そして証拠も何もないが、死運を高めることも感じているのです。
これは彼らの経験則であるはずです。
新入りのマシン以外の4人は、北アフリカ戦線からともに戦っています。
北アフリカ戦線は、1940年9月〜43年5月に行われた、連合国対イタリア&ドイツの戦いですので、彼らは少なくとも2年以上チームを組んでいます。
その間に死ななかったという事実は、彼らに慣習を植え付けます。
こうしたら死ななかった、という様々な具体的事例が慣習化され、習慣となった結果が、1945年、マシンが加入した際のフューリーのマナーとなっているはずです。その一つが、「軍に間違いがあるはずねえ」という言葉なのです。


それらを総合すると、この映画は「戦場映画」といえると思います。「戦争映画」でなく。
戦場で起こることを、画面上は残酷でも、色彩をもって描いていきます。
砲撃の音や住民が首をくくらされた姿や、銃撃された人々。
そんな戦場の中にも、驚くことに、恋があります。
ある村をフューリーを含むアメリカ軍が攻撃し、占領します。そこでマシンはドイツ人の女性に出会います。ピアノをきっかけに二人はお互いに好意をもち、そのまま性交渉を行います。
まさに「恋におちる」という表現がピッタリな描写ののち、その村にドイツ軍が反撃をしてきます。
マシンをはじめアメリカ軍は反撃をして何とか撃退しますが、さきほどマシンとドイツ人女性が出会った建物は粉々に壊されていました。そこでマシンは必死に彼女の名前を呼びますが返事はありません。その直後、彼女の息をしない姿を発見します。恋は一瞬で終わりました。


マシンは、熱心なキリスト教徒で戦場であれ、人を殺すことに大きな抵抗を感じていました。
そんな人間が同じ戦場にいることがどれだけ危険なことか、そこにいる全ての人間がわかっています。
フューリーの隊長であるウォーダディーは、マシンに度胸試しのドイツ人試し撃ちをさせます。
日本軍も中国で度胸試しに中国人試し切りをさせたと言われますが、それと同じですね。
その後フューリーは抜き差しならない戦車戦にはいり、そこでマシンも副操縦士として、「Fuck in German!」と叫びながら砲撃をし続けます。その姿をウォーダディーをはじめとする4人は喜び、「すごいな!殺人機械だ、お前のあだ名を´マシン´にしよう!」と、「仲間入り」を果たします。
それまで殺人を忌み嫌っていたマシンのその時の顔は、はにかみながらも嬉しそうな表情を浮かべていました。それは、子供がよくみせる仲間入りを喜ぶ顔そのものでした。


また、こんなシーンもあります。
ドイツ軍300人をフューリー一輛で迎え撃つ場面。さすがに勝つことは不可能と逃げ出そうとしますが、隊長のウォーダディーはひとり残ろうとします。
「何いっているんだ!頭でも狂ったか!」という言葉をまったく気にせず、「お前らは逃げろ」というだけです。そして彼は言います。フューリーを愛おしそうに叩きながら、「ここが俺の家だ」と。
驚くべきことに、戦場に「家」があるのです。
それは雨露を凌ぐ建物としての「家」であるともに、優しさも暖かさもある「家」なのです。
彼は、「My home」と言いました。人間生活が営まれる「家」なのです。


この戦場には、恋もあり、仲間入りもあり、そして家もありました。
僕はこの映画を観終わったあと、「アメリカの優良な青春映画をみたな」とふと思いました。
人がたくさん死んで(首吊りも!)、建物がたくさん壊される映画をみて、「青春映画」などというのは不謹慎なことかもしれませんが、その映画にあるマナーを含んでるのは確かなことだと思うのです。
そしてアメリカの青春映画が、ほんのひとコマの「日常」であるのと同様、
この映画も実は「日常」を凝縮させたものなのではないかと、これまた不謹慎にも考えています。
以下のエピソードが僕にそう思わせるのです。


ウォーダディーが「ここが俺の家だ」と言ったあと、
マシンが「僕も残る」と言い出し、他の3人も残ることになり5人で300人を迎え撃つことになります。
その後の戦闘で、結局4人は死に、マシン1人が生き残ります。
その1、2日前まで戦車にも乗ったことなかった人間が、3年も4年も戦車に乗って、数々の戦闘を生き残ってきた人間を差し置いて生き残ってしまうのです。
技術、能力でいえば、マシンはまっさきに死ぬ人間です。
しかし、生き残った。
なぜか。それは誰にも分かりません。
しかも、マシンはフューリーの下に潜って隠れているところを1人のドイツ兵に発見されながら、
なぜか見逃されて生き残ったのです。
なぜドイツ兵は見逃したのか。マシンにも、観客にもその理由は分かりません。
映画の中でそれは明らかにされません。


「日常」とはどのようなものなのか?という問いがあったら、
それは、「人の死について誰も分からないということを根底としている場所・時間」と答えたいです。

「十歳にして死する者は十年の中で四時あり。二十は二十の四時、三十は三十の四時あり。五十、百はおのずから五十、百の四時あり。十歳という一生を短いとするのは、短命のセミ(の成虫)が不老不死の霊木になろうとすることと同じであり、百歳という一生を長いとするのは、不老不死の霊木がセミになろうとするようなもの。いずれも天命に背く」
『ひとすじの螢火 吉田松陰 人とことば』関厚夫 文春新書 P450


「戦場」とは、「日常」が凝縮された場所なのかもしれません。