今日の一作〜 映画『ここに泉あり』 その2


前回映画館のことだけで終わってしまったので、今回は映画についてです。


高崎電気館のオープン企画で『ここに泉あり』が無料上映されました。なぜにこの映画がオープン企画という重要であろう役割をあてられたかといえば、それは一にも二にも『ここに泉あり』が高崎市を本拠地として活動する群馬交響楽団の胎動期を描いた映画である、ということでしょう。高崎市に関係の深い映画であり、オープン企画に名を連ねるのは至極当然というわけです。ただ、高崎市に縁があるだけという「縁故映画」ではありません。劇場公開は1955年(昭和26年)でしたが、その年のキネマ旬報ベストテンで5位に選ばれており、しっかり評価も得ている映画なのです。(ちなみに、その年の1位は成瀬巳喜男監督の『浮雲』)さらに、戦後5年ほど経った高崎市の風景が満載なので、当時の建物(復興具合も含め)、交通状況、食事などを知ることもでき勉強になります。
『ここに泉あり』が高崎電気館のオープン企画に上映されることはこのような理由からも納得の選択といえます。


 現在、群馬交響楽団高崎市を拠点にして活動しています。その前身を群馬フィルハーモニーオーケストラといいます。『ここに泉あり』はこの群馬フィルハーモニーオーケストラの話です。小林桂樹演じるオーケストラマネージャー井田を中心に、岸恵子演じるピアニスト佐川、岡田英次演じるバイオリニスト速水などの思いや活動を通して、群馬交響楽団へ至る道を描いていきます。


 井田のこのような台詞があります。
「音楽という泉のさざ波を10人、20人、100人、1,000人と、果ては100万人の心のふるさとに」
映画のタイトルにもなっている「泉」とは音楽のことをさします。『ここに音楽があり』というわけですね。「泉」という言葉に音楽の意味を託しているわけですが、その意図するところは、「泉のように湧き出てくる自然発生的な存在としての音楽」であり、「泉という人間の生命には必要不可欠なものと同等である音楽」であったりするのだと思います。
 「泉」というと、ただの水というよりも、砂漠の中のオアシスや村の生活を支える湧水のような、生命に直結するような意味あいを感じます。「泉」は、それが無ければ死んでしまう、という物質としての水以上に、人間を支える存在ではないでしょうか。そんな人間にとってなくてはならないもの、生命を維持するために必要なものとして音楽を讃えたのがこの映画です。僕は以前、「芸術の役割」と題する稿を書きました。(http://d.hatena.ne.jp/narumasa_2929/20141002/1412236041)ここでは、芸術の役割を「余暇のものではなく、人間が社会で生きるために必要不可欠なもの」と記しましたが、この映画はそれどころじゃない、音楽は生命を維持するために必要なものである、と宣言しているのです。


と、この流れを汲むと、「音楽はそれだけ素晴らしい」と結論づけたくなりますが、その結論は一端留保したいと思います。ここでは「音楽の素晴らしさ」の是非を問うことはしません。そんな必要もないからです。「素晴らしい」。以上。
ここで考えたいのは、「音楽を泉と同等に生命を維持するために必要だ、と定義すること」についてです。そう考えた理由は、この映画は、市民オーケストラが群馬交響楽団へとスケールも役割も大きくなっていく単純な成功譚でも、それに伴って音楽の素晴らしさを声高に歌い上げるだけの物語でもないからです。
実際の群馬交響楽団は、1949年(昭和24年)に財団法人化されました。映画はそれに対するアプローチを描いているので、1946〜48年頃を舞台にしているはずです。戦後2、3年に「音楽という泉のさざ波を10人、20人、100人、1,000人と、果ては100万人の心のふるさとに」とマネージャーの井田は人前で口にするわけですが、当然のようにそんな「数十年後、数百年後、もしくはそれ以上先」の話には誰も耳を貸しません。「現在」が焦眉の問題であるタイミングとしては当然でしょう。映像としてもまさに「馬の耳に念仏」を表現しています。しかし、子供達を前にした数々の学校での演奏や、他のオーケストラとの合同演奏会、山村での即興音楽会などによって、楽団員の心にも井田の言葉は自然と染み込んでいきます。それらの話の転がりを本道として、財団法人群馬交響楽団設立へと繋がっていくわけですが、それは楽団員や彼が音楽を届けた人たちにとって「音楽が泉である」が力を得ていく過程でもあります。生命維持に必要なものと思えるほど音楽を讃えることができる喜びを実感していく過程ともいえます。
それだけで終わったら単純な映画なのですが、もう一本脇道がこの映画には存在しています。それは、移動演奏会で訪れた二箇所において浮き彫りになります。その二箇所とは、草津ハンセン氏病病院である国立療養所栗生楽泉園と山奥の学校です。国立療養所栗生楽泉園では実際の患者の方々の前で演奏をしています。当時のハンセン病をとりまく状況は以下のようなものでした。

1948年(昭和23年)に成立した「優生保護法」では、その対象としてハンセン病が明文化されました。その一方で、入所者たちも、自分たちは犯罪者ではなく病人であり、もうすぐ治るはずだ、このような状況は改善されるべきだと考えていました。そして1951年(昭和26年)、全国国立らい療養所患者協議会(全患協)をつくり、法の改正を政府に要求していきますが、1953年(昭和28年)、患者たちの猛反対を押し切って「らい予防法」が成立しました。この法律の存在が世間のハンセン病に対する偏見や差別をより一層助長したといわれ、患者はもとよりその家族も結婚や就職をこばまれるなど、偏見や差別は一向になくなりませんでした。また、ハンセン病であることを隠して療養所の外で暮らしていた方々も、差別を恐れ、また、適切な医療を受けられないなど大変な苦労をしました。


厚生労働省HP http://www.mhlw.go.jp/houdou/2003/01/h0131-5/histry.html


隔離されており、一生そこから出ることができないような状況にあったわけです。
演奏シーンではたびたび患者の方々が映されます。包帯を巻いた方、うつむいている方様々です。そして演奏後の拍手のシーンは、言葉を失います。音が出ない静かな拍手なのです。パラパラといった幽かな音でところどころで鳴っている静かなシーンです。しかし、患者の方々は皆拍手をしています。長い時間拍手をしています。その姿も映し出されます。手や指が変形したり、包帯が何重にも巻かれていて、拍手をしても音が出にくい状態だったのです。
このシーンは僕が観た映画の中でも最も印象に残るものです。
https://www.youtube.com/watch?v=xWYy_nQJdi0


また、山奥の学校での演奏後、井田はこのような言葉を発します。


「生のオーケストラを聴くことは一生のうち二度とないと先生が言ってた」


それくらい山奥であり、大人になっても村から出ずにその場所で働き、死んでいく状況を端的に表現しています。


ハンセン病病院、山奥の学校の生徒、この二つに共通することは、
井田たちの演奏会が最初で最後の、一生でたった一度の出来事であったのではないか、
ということです。
様々な状況で、自分の意思で何もかもができない人たちにとって、相手の方から来てくれなければ音楽を聴くことができないのです。
自分たちから聴きに行くことができない人たちです。
そのような人たちにとって、「音楽は泉である」という言葉はどのように映るのでしょう。
音楽は生命を維持するために必要なものだ、という宣言はどのように感じられるのでしょう。
それは強い言葉でいえば、「死刑宣告」になりはしないでしょうか。
「音楽を聴くことができなければ、水を飲めないように人間は死んでしまう。
それくらい音楽は大事なものなのですよ。」
そんな音楽賛美は、音楽をもう聴くことができないかもしれない人間にとっては、恐怖以外のなにものでもありません。
「水が飲めない人たち」がこの映画には登場します。
そして、その人たちに対して有効な手立てを提供することなく、楽団は去っていきます。
ただの音楽讃歌、成功譚ではないといった理由はここにあります。
「音楽は泉である」という宣言を至上のものとして頑張ってきた人間にとって、ハンセン病病院、山奥の学校での演奏は、ある種の敗北でもあります。
そんな言葉が通じない場所があった、という挫折でもあります。
その敗北であり、挫折を回収することなく映画は終わります。
安易な解答でお茶を濁すことをしません。考えろ、噛み締めろ。観客にそれを要求して映画は終わります。


「音楽」を考えることもできます。「社会」を考えることもできます。
「歴史」を考えることもできます。「生きる」を考えることもできます。
様々なことを、鑑賞後に考えさせる映画として、僕は記憶にとどめておくことでしょう。