「「信用地に落ちた」教諭不祥事最悪ペース 」という記事タイトル

「信用地に落ちた」教諭不祥事最悪ペース
更新日時:2013年6月5日(水) AM 07:00


 伊勢崎市の小学校の元教諭が児童から集めた現金を流用していた問題をはじめ、県内の小中学校で不祥事が相次いだことを受け、県教委は4日、市町村立の小中学校と特別支援学校の校長会議を開いた。本年度の懲戒処分は2カ月で8件に上り、過去10年で最悪のペース。吉野勉教育長は、「学校への信用が地に落ち、子どもや保護者に謝罪のしようがない事態だ」と危機感をあらわにした。


 その上で吉野教育長は「『うちは関係ない』では再発につながる」と述べた。①不祥事は迅速に調査して教育委員会へ報告する②節度と秩序ある職場づくりに努める―など職員の意識向上に向けた校長の心構えや、信頼される学校づくりへの取り組みを指導した。


 県教委は4日、前橋市内でも県立高校の校長らを対象に同様の指導をした。


http://www.jomo-news.co.jp/ns/8713703576312495/news.html


―― ここまで ――



ここ数年このような「教師の不祥事」記事を読む機会が増えたように感じます。
それは実際に教師の不祥事が増えたのかもしれませんし、
一般的にこの手の記事が好まれるようになったのかもしれませんし、
そんな一般の空気を感じ取ったメディアが取り上げるようになったのかもしれません。


この記事は、
「平成25年度が始まって2ヶ月で8人の懲戒処分を行った。それは過去10年で最悪のペースである。それに対して県の教育長が謝罪とともに、今後の対応を語った」
というものです。
そしてそんな記事のタイトルが
「「信用地に落ちた」教諭不祥事最悪ペース」
です。
「信用地に落ちた」という言葉は、教育長の記事中の言葉であってそれをそのまま使用したのだと思われます。
タイトルに内容的な間違いはありません。正確だと思います。
しかし、記事のタイトルとしていかがなものか、と僕は思ってしまいます。


群馬県の教職員の数は、25,101人(平成22年)だそうです。
直近の数はわかりませんが、急激に減ったり増えたりはないでしょうから、
現在も25,000人前後だと思われます。
今年度に懲戒処分を受けた教職員の数は8人というのが記事の内容でした。
8人/25,000人=0.00032%。
この数字を見て、誤差の範囲の数字なんだからいいじゃん、
ということを言いたいわけではありません。
例え1人であっても、懲戒処分をされるような教職員は許されるものではありません。
ただ、24,992人の教職員は懲戒処分を受けていないということは、
しっかり認識しなくてはならないと思うのです。


記事のタイトル
「「信用地に落ちた」教諭不祥事最悪ペース」
を読んだ時、その人はどのように感じるでしょうか。
僕のまず感じた率直な感想は、
「また教職員の不祥事か。教職員、学校、教育は大丈夫なの??」
といった、教職員に対して、そしてご丁寧に学校や教育にまで広げた陰性な懸念です。
ここで重要なのは、懲戒処分を受けた8人の教職員に対してではなく、
‘教職員’という肩書きを持つ人全員に対する懸念である、ということです。
「まったく教職員は・・・」といった言葉で表される印象です。
しかし実際に懲戒処分されたのは8人の教職員です。
8人/25,000人=0.00032%です。
当然‘教職員’という肩書きを持つ人全員ではありません。
少し立ち止まって考えればすぐにわかることです。
数字で言えば微々たるものです。
その微々たる数字によって、全体が「まったく教職員は・・・」という印象を持たれてしまうのは、教職員の人に対してお気の毒と思ってしまいますし、
その教職員が行う教育を受ける子供、教育を受けた子供たちがつくる社会にもよろしくない影響のみである、と思ってしまいます。
全体が「まったく教職員は・・・」という印象でとらえられることで得する人は誰もいないのではないでしょうか。


昨今の世間の状況をみると、
「学校は責められる存在」というのが常識に登録されているかのようです。
引用した記事のタイトル
「「信用地に落ちた」教諭不祥事最悪ペース」
もその流れをくんだもののような気がします。
「不祥事をよく起こすのだから当然だ」「責められるべきことをしているのだからしょうがない」などの言い分はごもっともではあります。
「悪い部分があるのだからそれを批判して良くする」
といった‘善意’がその発露なのだと思います。
‘建設的な批判’という言葉があるように、批判は物事を良くするために必要なものだと思います。
(個人的にはその効用を感じたことはそれほどありませんが笑)
ただ仮にそれが事実だったら、もうその効果が出てもよい頃のような気がします。もうけっこうな期間‘建設的な批判’が学校、教育に対して成されているのではないでしょうか。それでも引用記事のとおり、「教諭不祥事最悪ペース」だそうです。良くなるどころか、悪くなっている。
建設的な批判の質が悪いのでしょうか?
批判の仕方が悪いのでしょうか?
それも一つの要素かもしれません。それを改良していくことも有効な手段かもしれません。
しかし僕はその線ではなく、他の線を進みたいと思っています。
その線は、
「学校は信頼する存在」であるとする
ということです。
機械的に「学校は信頼する存在」としてしまう荒技です。


信頼とは極めて感情的なもので論理的なものではありません。
例えば同じことを論理的にやった2人がいたとしても、
結果1人は信頼できるけど、もう1人は信頼できない、
という状況は往々にしてあります。
「気に入らない」とか「好きになれない」とか、
感情の部分のひっかかりがポイントになる場合が多いものです。
そして、信頼とは事後的なものです。
色々なもの、ことが終わった後で、「あの人は信頼できる」という
結果の感情です。最初からあるものではありません。
機械的に「学校は信頼する存在」とする、というのは、
最初に信頼ありき、を設定してしまう、「信頼は結果の感情」とは逆行するものです。そういう意味で荒技です。
「学校が信頼に足るようなものになれば、自然と信頼はするものです。その状態にならない学校が悪いのです。学校が信頼に足るべき存在になるのが先です」
という言葉があれば、「信頼は結果の感情」という本来的な信頼にも合致しますし、おっしゃる通りだと思います。
ただそれに対する学校側、世間側の試行錯誤がうまくいっていない状況が、
「「信用地に落ちた」教諭不祥事最悪ペース」
であるならば、違った方法を試してみるもの一つの手だと思うのです。


以前、仕事で小学校に行ったことがあります。
事前に話がいっているものと思い訪れたのですが、
対応していただいた教職員の方は「聞いていない」とのことで、
事情を話してその場は事無きを得ました。
その時その教職員の方がおっしゃっていたことが印象的でした。
「部外者が学校に入って来て、生徒に何かがあったら保護者の方に何を言われるかわからない。今は学校に対する世間の目が厳しい」
といった内容でした。そのままずばりの赤裸欄な告白だったように感じました。
学校側に対する世間側である僕も「そうですよね」と「その話知っています」のような感じで聞いてしまいました。その背景には、世間側である僕にも「学校は何かあったら言われるもの。責められるもの」という意識があったわけです。
「何か言われる」学校側の方の率直な言葉に、
「ああ、学校にとって保護者・世間は敵なんだな」と感じました。
敵という言葉が激しすぎるなら、ミスをして何か言われないように気をつけなければいけない対象、とでも言いましょうか。
それは「学校は責められる存在」という世間側の認識と表裏一体であることは言うまでもありません。
岡潔さんの『春宵十話』の中に教育についてこのような記述があります。


「子弟は互いに敬愛すべき」(『春宵十話』P81光文社文庫


昭和38年に出版されたようで古い本ですが、
そのことは今も変わりはないのではないでしょうか。
教師も生徒(の周辺である世間)もお互いに敬愛しなければ教育はなかなかうまくいくものではないのだと思います。
お互いが敵同士だったらうまくいくはずもない、というのは、
証拠もなにもないのですが、当然のことのように思えます。
敬愛とは真逆の状況ですね。


「何か言われる」学校側と「学校は責められる存在」という世間側の対立を見る時、攻撃するのは世間側で、防御するのが学校側です。
対立といっても、その形は固定です。世間側は攻撃しっぱなしで、学校側は防御しっぱなしです。
そんな状況で、この対立を止めにして敬愛の関係にするには、
自分発進で行うことができる攻撃という主導権をもつ世間側が変化するしかないだろうと思います。
防御側は相手があってこそで、受け身です。自分から動くことはできません。
先述した
「学校は信頼する存在」であるとする
とは、その止める方法です。
「学校は責められる存在」から「学校は信頼する存在」へ。
それが荒技であることの内容は既に書きました。
ただ協調、協力、調和など「敬愛」に繋がる陽性の気持ちや行動の源として、
「信頼」は核となることができる概念です。
協調、協力、調和などは敵対関係からは決して生まれません。
味方の中でしか生まれません。
心の底からでなくてもいい、形だけでもいいので味方になることです。
まずは、「私たちは味方同士」ということを形からでもいいから実現できたなら、
協調、協力、調和などに基づく「敬愛」が生まれる契機があるかもしれない。
そして、それは子供たちにとって幸せなことでしょうし、
そんな子供たちが成長して創る社会も健やかなものになるのではないでしょうか。
その想いを「信頼」という言葉に託したわけです。


その第一歩が、冒頭の記事内容を、タイトルの通り
「「信用地に落ちた」教諭不祥事最悪ペース」
と取るのではなく、
「懲戒処分を受けた教職員は8人/25,000人=0.00032%です」
と取るといった冷静な目をもつことなのではないかと思います。
不祥事を起こした教職員に寛大な処置をするとか、許すとかいうことではありません。そんな教職員を入り口に、他の不祥事を起こしていない教職員を見ない、という当然のことです。
不祥事を起こした教職員はその事実をもって処分されるべき。
ただ他の教職員は関係ない。信頼できる存在であることに変わりはない。
そんな意識からスタートすることでいつか「敬愛」が生まれるではないでしょうか。
そんなことを強く思い、願っています。


とりあえず設定してみる、というのは、
なんか俄に信じられずウソっぽく響くかもしれませんが、
そこからスタートするとしてしまう、ことも時には有効に働くのではないかと
僕は考えています。