天皇が“右傾化“したら?

ここ数日、新聞を読めば、ラジオを聞けば、テレビを見れば、「平成最後だ」、「令和最初だ」、「ありがとう平成だ」なんだかんだなんだかんだ聞かない時が一瞬すらない感があります。そういうものにはなるべく触れないようにしよう、と思って時間を過ごしているつもりですが、それでも目に耳にちょいちょい入ってくるので、世の中ほんとにそれ一色なんだろうなあ、と想像します。お疲れ様です。

 

そんなわけで「元号がかわってわーいお祝いだ」、ということに興味関心はありませんが、天皇が変わるということにはとても興味あります。しかし、困ったことに、天皇がかわることの何に興味があるのか自分でも具体的にわかっていませんでした。自分の人生で2回目の天皇替わり、という稀少さに対してなのか、生前退位というこちらは自分の人生においての初体験に対してなのか。そういうことではなく漠とした“歴史的行事”というものに対してなのか。

 

そんな興味をもっていた自分ですが、「ああ、なるほど」と思ったある新聞記事がありました。5月2日(木)の東京新聞こちら特報部」というコラムです。このコラムはその時々の話題を“東京新聞の視点”で論じる名物コーナーです。5月2日のテーマは「象徴天皇を考える」というものでした。「象徴天皇って何よ?」について複数人の専門家の方々が語る、というスタイルでした。その中で明治大学山田朗教授(近現代史)のコメントがとても印象に残りました。引用します。

 

天皇が代わるたびに象徴の中身も変わりかねないという問題もある。平成は被災者など社会的弱者に寄り添う方へ向かったが、違う方向へ拡大する可能性も否定できない。と指摘。「本来は、そうならないよう主権者の国民側が法律を作り『象徴』に枠をはめるべき。ただ、国会もマスコミも自由な意見を言える雰囲気がない。天皇の行為に対するチェック機能がかけている」と憂う。

5月2日(木)東京新聞こちら特報部

 

 

これを読んである本を思い出しました。『憲法が変わるかもしれない社会』(文藝春秋)という本です。この本は作家の高橋源一郎さんと、憲法学者の長谷部恭男さんや映画監督の森達也さんなど6名の方々による明治学院大学の対談を収録したものです。この6名の中に政治学者の原武史さんが登場します。原武史さんといえば、同書で高橋さんに

 

天皇制について考える時、片山(杜秀)さんと原さんの本は必読だと思っているのですが(P98)

 

 

といわしめる方で、『大正天皇』(朝日新書)、『昭和天皇』(岩波新書)、『皇后考』(講談社)、『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波新書)などの“天皇もの”をたくさん書かれています。『憲法が変わるかもしれない社会』での高橋さんとの対談テーマももちろん「天皇について」です。対談自体は2018年3月6日に行われたようで、平成天皇の「おことば」(2016年8月8日)を軸に展開されています。その中で印象深い箇所を、少し長いですが引用します。

 

原 (平成天皇・皇后の)そうした行啓や行幸啓をずっと繰り返して、今日に至っている。逆に戦前だったらここまでのことはできないから、行幸だけでなく学校で教育勅語を暗唱させるとか、御真影を仰がせるようなことをしていた。要するに、間接的だったわけです。それを完全に直接的なものにして、とにかくしらみつぶしてで回っていくというのは、はるかにインパクトも大きい。そうすると、実はいまが一番、草の根というか、底辺からの……。

 

高橋 天皇主義みたいなものが成立していく。

 

原  そうです。まさにそうしたものが浸透してきている現状をどう考えるか、ということなんです。

(中略)

原  いまの天皇皇后のやり方(行啓や行幸啓を頻繁に行うこと)というのは、ほんとうに一人ひとりと関係性をつくっていく。

 

高橋 しかも、目線は同じ高さで(笑)。まさに君民一体ですね。

 

原  そう、文字通り一対一で相対していく。そこの間は、誰も邪魔していない。いわばミクロ化した国体が、そうやってずっとつくられていっている、というのが僕の解釈で、それは国民主権の原則を揺るがしかねないと考えています。

(中略)

高橋 その上で考えたいのが、今上天皇の象徴としての行動です。先ほど触れたように、象徴天皇制は何によって成り立つのかについては、憲法に書いておらず、解釈可能なものになっています。そして現時点では、今上天皇自身が解釈している。いわば行動主義的に、慰霊の旅も行き、行幸もして、国民と一体になって国民の信を勝ち得るというのが、象徴天皇の務めである、と。「おことば」でもそう言っています。

 

原  その点について補足すると、天皇の活動は、国事行為と公的行為、そして私的行為に大きく分けられますが、公的行為と私的行為については規定がない。宮中祭祀だって戦後は天皇の私的な行事になったわけだから、全然やらなくてもいいんです。年がら年中やっていても、それは彼らの家の話だから、となる。行幸にしたってそうですよね。

 

高橋 ほんとうは、行かなくてもいいんですよね。

 

原  はい、別に何も規定はないんです。それを何か漠然と、公的行為として位置づけている。すると、歯止めがきかないことが起こってくる。僕が憲法学者に一番聞きたいのは、平成になってこれだけ肥大化している公的行為をどう思うのか、ということです。国事行為のように、何らかの法的な規定があれば、その枠内で活動が制限されますが、それが全くないことが、皮肉にも、明治、大正、昭和、平成の中で一番そうした行為を増大化させてきたことの、確かな一因ではある。ですから、憲法上に何か具体的な歯止め、枠を設定するということが必要なのかもしれません。

(中略)

原  大日本帝国下でも、行幸についての規定はありませんでした。だからこそ、歴代の天皇の最良によって行動が変わってきたわけです。現天皇が今度、上皇になることも重要ですね。するともう国事行為はやらなくなりますが、私的な活動まで制限できなくなる。「これは私的な外出だ」と称して、各地に赴くことが許されるようになるんですね。

(P250)

 

 

ここでもまさに「憲法における象徴天皇」について語られています。時間軸的には、さきほど引用した東京新聞の「象徴天皇を考える」よりも当然前にこの本を読んでいるのですが、読んだ時は正直ピンとこなかったのが実際のところでした。ただ何となく気になっていたのでしょう、「象徴天皇を考える」の引用箇所を読んだ時、「あ、これ原さんが言ってたことにつながりそう」と瞬時に思い出し、『憲法が変わるかもしれない社会』を本棚から引っ張り出したわけです。改めて読んでみると、「ああ、なるほど」と。そして、「これは怖いことだぞ」と。「わーい、令和」とか言っている場合ではないぞ、と。僕が天皇の変更について興味がある、と思っていたこともまさにこれだったのです。(原さんの言っていたことを理解できないながらも、何となく気になる、状態だったので、自分が天皇の変更の何に具体的に興味があったのかはっきりしていなかったのでしょう)

 

原さんが指摘されているとおり、平成天皇の行啓、行幸啓=一対一での相対は国民に高く評価されている、という調査結果がでています。

 

読売新聞 2018年10月~11月 郵送全国世論調査「平成時代」

◆あなたは、今の天皇陛下に、親しみを感じていますか、感じていませんか。

・感じている          44

・どちらかといえば感じている  37

・どちらかといえば感じていない 12

・感じていない          7

・答えない            1

◆平成の時代を通じ、皇室と国民の距離は、近くなったと思いますか、そうは思いませんか。

・そう思う            32

・どちらかといえばそう思う    45

・どちらかといえばそうは思わない 14

・そうは思わない          9

・答えない             1

天皇陛下がこれまで取り組まれてきた活動のうち、あなたが、とくに意義深いと思うことを、3つまで選んで下さい。

・国際親善のための外国訪問      63

地震や水害などの被災地訪問     84

戦没者慰霊のための戦跡地訪問    56

国民体育大会などの行事への出席   12

・閣僚の認証や国会召集などの国事行為  4

・国の安寧を祈るなどの宮中祭祀    23

・その他                0

・とくにない              6

・答えない               1

◆今の天皇制について、次に挙げる意見のうち、あなたの考えに最も近いものを、1つだけ選んで下さい。

・今の象徴天皇のままでよい             79

・元首の地位を明確にし、天皇の権限を強めた方がよい  4

天皇制は廃止した方がよい              6

・関心がない                    10

・答えない                      1

 

 

www.yomiuri.co.jp

 

平成天皇の「象徴天皇としての行為」=地震や水害などの被災地訪問、戦没者慰霊のための戦跡地訪問、それに基づく天皇自身が高く評価されているのが分かります。令和天皇に「親しみ」を感じる人が82.5%、という世論調査結果も平成天皇の「象徴天皇としての行為」が大きく影響を与えているのではないかと思います。

 

www.msn.com

 

ただこれら平成天皇の「象徴天皇としての行為」は、日本国憲法には規定されていない、原さん曰く「私的行為」なわけです。Made by 平成天皇な行為。これが意味することは、令和天皇をはじめ、今後の天皇が同じことをするとは限らないということです。(平成天皇は2016年8月8日のおことばの中で、「象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ~」と、絶えず引き継がれることを望んでいますが)規定がないので自分で考えるしかないわけです。実際、即位に際しての令和天皇の「お言葉」の中に「象徴天皇が何なのか」という具体的な内容はありません。

ここで思うのです、象徴行為として「一対一で相対」できる(=行幸行幸啓)存在である天皇が、「憲法なんて守る必要はないよね」とか言いだしたらどうなるのだろう?と。そんなことを天皇が直接的に言っても、一般国民には伝わってこないでしょうが、例えば令和天皇の「お言葉」の中の、

 

国民を思い 憲法にのっとり 象徴としての責務を果たすことを誓い

 

 

という箇所が、

 

国民を思い 象徴としての責務を果たすことを誓い

 

といった“ささいな”形でなされたら? そしてこれが常のことになったら?

これに対して、仮に「天皇は政治的な力もないし別に関係ないでしょ」という言葉がでてきたら、「本当に?」と真面目な顔して問い返します。ここで再度『憲法が変わるかもしれない社会』より引用します。

 

原  憲法の精神を前景化する象徴としての天皇の行為というのは、受け取る国民の側の問題でもあると思います。たとえば今上天皇が地方や離島などに行った時、現地の人々はその姿に国民統合の象徴をみるのか? あるいは平和憲法への問いかけをするのか? 端的に言って、「神様が来た」と思うんですよ。それは戦前のみならず、戦後でも同じなんです。全く変わっていない。皇太子時代を含めて地方紙をかなり読みましたけれど、ほんとうに何も変わっていない。

 

高橋 まさに現人神のまんまですね。

 

原  戦後の沖縄県を除けば万歳の嵐と日の丸の波、そして町や村はじまって以来の空前の人出です。「奉迎」一色になる。皇太子や天皇を迎える彼らの側のメンタリティは、全く変わっていない。先ほど戦前のイデオロギー教育について触れましたが、いまは教育で形作られた天皇像ではなく、民俗学的な意味での生き神になっている、とも言える。さらに言えば、民俗学的には別に天皇じゃなくてもいいのかもしれない。昔から生き神、生き仏と言われた人たちがいるわけですが、外部からマレビトがやってくると、同じような反応を示してきたわけですから。

(P256)

 

 

端的に言ってしまえば、既存の政治勢力とは異なった“天皇勢力”が生まれ得るということです。そんな勢力が「憲法なんて守る必要はないよね」と言いだしたら? 現人神に直接触れた人がその言葉を聞いたら?

憲法を守る云々はあくまで一つの例です。なんでもよいです、「憲法は絶対に守らなければ」でも、「戦争ってやっぱ必要だよね」でも。それらの言葉が時の政治勢力と同一の方向に向いたとき、大きな力を発揮するように思えてなりません。平成天皇・皇后の護憲精神は、安倍氏の方向性とは真逆のものだったと思います。そこにはある種のバランスがありました。そのバランスが崩れたら? 雪崩をうって一気に事が進む可能性を感じます。(憲法のことでいえば、いわゆる護憲でも、改憲でもどちらでもその可能性があります)

 

これこそ、「これは怖いことだぞ」です。何にも規定されていない、天皇自身が創出できる「象徴的行為」によって生まれ得る“天皇勢力”。

「象徴天皇」という概念が生まれて本日(2019年5月3日)でちょうど72年になります。

平成天皇生前退位は、その意味を考える契機にしなければならないと強く思います。チェックし続けるためにも。