Amazonを捨てよ、町へ出よう

本屋さんの話ですが、部分的には他の業種にも関係あると思います。


僕はAmazon(を含むネット通販)で本を買うことはほとんどありません。
絶版になっているものの出品がある場合のみ買うことがあります。
新刊をはじめ、本屋さんで売っているものは、本屋さんで買います。
その理由は「本屋さんが潰れてしまっては困るから」です。
なぜ困るのかを書きたいと思います。



1、 町並みが寂しくなる


 僕が住む群馬県は、いわゆるシャッター通りというものが複数の市町村で存在します。その画は圧巻というほどに、シャッターが綺麗に並んでいます。
それらは例外なく、過去には盛んだったお店群です。
僕が住む地方では、駅ビルが便利になったこと、郊外に大型ショッピングモールができたことと、営業所や工場などを撤退させる企業が増えたことなどがその理由のように思います。


 そんなシャッター通りを見て思うことはやはり「寂しい」ということです。以前の盛んな状態を知っているということもありますが、何も知らなくてもシャッターが閉じられた連なるお店を見れば寂しくなるもののような気がします。
それは、そこにお店があったという明確な事実を示しながら、今はそれがないという現実を何も覆うことなく写し出しているからだろうと思います。


 それはシャッター通りだけではなく、閉店して時間が経った廃墟のようになった元お店を見ることでも感じられます。そんな廃墟店も数多くあります。
そんな「寂しさ」を感じた人の口から出てくる言葉は、明るいものであるはずもなく、ただただ悲観的なものに終始します。
そしてそれは閉店したお店のことを考える時以外の、日常生活にも浸食してくる類いのものだと思うのです。
町を歩いている時、故郷について人と話している時、自分の昔話をしている時などなど、その「寂しさ」は様々なものに直結し、前景化してきます。
さらに全く関係ないことを考えていたり、行動していたりする時にでも無意識のうちに沈殿していた「寂しさ」が影響を与えない、とは僕には言い切れません。「うちの町はもうダメだな」感をもって生活することの心的負担を計量的に出すことはできませんが、その存在は間違いなくあると僕は思います。


 そんな「寂しさ」を味わいたくなければ、単純にお店を潰さないことです。そこで買い物をすることです。お店の人がやっていける状態にすることです。Amazonをはじめネット通販では、僕が買い物をしなくてもいくらでも利用する人がいます。店舗があるお店は基本その土地に住む人が利用者です。
言い換えれば、Amazonをはじめネット通販はどこの地域の人でも支えることができますが、店舗のあるお店はその土地に住む人しか支えることができません。
支えるということは、お店の人を助けてあげるといったものではなく(そういう考えは僕は好きですが)、あくまで自分が廃墟を見ることでの「寂しさ」を感じないためにすることです。日々の生活でひょっこり頭を出すかもしれない「寂しさ」を自分のうちに飼わないようにするためです。
 日々の心的負担と成り得るシャッター通り、廃墟を作らないために、Amazonをはじめネット通販ではなく、お店で買い物をしましょう、という単純な話です。早速本屋だけの話ではありませんが(笑)。



2、本屋は「本に出会う場所」


 よく言われることですが「本屋は本に出会う場所」と僕も考えています。
僕が買う本の70%くらいは本屋で出会った本だと思います。前もってこれを買おうと思って買ったものではなく、本屋に行ったら何か気になって買ったものの方が圧倒的に多いです。
これが何を意味するのかは、本屋は本を買う場所ではなく本と出会う場所、ということです。


 人によってその出会い方は様々でしょうが、僕は「本と目が合う」という表現でそのことを解釈しています。本屋さんに行くと自分の好きなジャンルのコーナーだけでなく、いろんなコーナーを歩くようにしています。
そうしているとけっこうな確率で「本と目が合い」ます。何か気になる、という確信のない感覚がそれですが、それを感じた後に本を手に取ってパラパラしてみると、惹き込まれることが多々あります。
その結果購入に至ることが多々あるわけです。お金の問題で断念することもありますが(笑)。
 その「目が合う」ということを「運命的」という言葉で説明したいと思います。


 本との出会い方は、その本が自分にとって有益なものになるか、そうでないかの大きな要素になると僕は考えています。本に限らず、映画でも音楽でも舞台でも何でもです。出会い方はとても重要です。
理屈ではない出会い方を「運命的」といいますが、「運命的」に出会った本はその人に大きな恵みをもたらす確率が高くなると思います。
なぜなら、「運命的」であるために、「この本には何かある」とその人を‘その気’にさせるからです。もっと言えば、「この本には何かなければいけない」とその人を‘駆り立てる’からです。
だから、「運命的」な本からはより多くのことを学ぼうとするし、探し出そうとします。そこに何かがなければいけません。何もなければ作るでもして、何かがある状態にしなければいけません。「運命的」というものはそれほどに指南力があるものなのです。
「運命的」な出会いをした本は、良い本でなくてはならないのです。
運命的に出会った(としている)男女がその偶然(としている状態)を祝福して、「きっと幸せになるだろう」という想いから「運命的な出会いをした二人なんだから幸せにならなければいけない」と思うのと同じです。
その本の内容が良いからそれが自分にとって良い本になるわけではありません。その本を自分で「良いもの」とするからそれが自分にとって「良い本」になるのです。そのように人を駆り立てる動機が「運命的」=「目が合う」という本との出会い方によるものなのです。


 「運命的」というのは、自分の意思で探し出したものではダメです。相手の方から自分にくるというのが「運命的」の最も重要な要素です。
だから、自分の意思で欲しい本を検索して購入するAmazonをはじめネット通販では、「運命的」な出会いはほぼありません。
この「ほぼ」は、Amazonで言えば「この商品を買った人はこんな商品も買っています」のレコメンドの可能性をさしますが、僕に言わせれば、「運命的」を演出するにはいささか不十分な印象です。
確かにレコメンドシステムで自分の知らない本を知ることはできますが、自分の知らない本を知るということは「運命的」のほんの一部分にしかなりません。「運命的」を形成するのは、紙質だったり、重さだったり、装丁だったり、文字フォントだったり、大きさだったり、厚さだったり、匂いだったり、置かれている場所だったり、本の並びだったり、そんなものによるところが大きいのです。
それらの様々な要素に反応して、「なんか気になる」となるわけです。「なんか気になる」は極めて感覚的なものです。頭で考え判断するずっと前の感覚です。「知らない本だ」と思って少し読んでみて「あ、運命的だ」では少し悠長すぎます。
もっと瞬間的な感覚でないと「良い本にする」という「運命的」の効用が減ってしまいます。なぜなら、「運命的」を判断するまでの時間が長いと、「なんでこの本に出会ったのだろう?」の不思議さが少なくなってしまうからです。
中身を読んでからの判断だと、それはある意味必然です。中身を読んで内容で「良い」と判断したのですから。
「運命的」とは、「なんでこの本と今のタイミングで出会ったのだろう??」という不思議さの上に成り立つものです。その不思議さがでかければでかいほど「運命的」の衝撃度も大きくなります。その衝撃度が大きければ大きいほど、「良い本にする」という「運命的」の効用も大きくなります。
その元となる不思議さは、先にあげた紙質や本の置いてある場所などによるところが大きいのです。
本の中身を読むということは、様々な要素で感じた「運命的」に、強度を与えるくらいのほんの一部でしかありません。そしてそれら「運命的」を演出する要素は、本屋さんという現物を扱うお店でしか感じることができないものなのです。Amazonをはじめネット通販では感じることができない類いのものです。


「本に出会う」とは、ただ知らない本を知るということではありません。知らない本と「運命的」に出会うことを意味します。その意味で本屋さんは「本に出会う場所」であり、Amazonをはじめネット通販はただの「本を買う場所」なのです。



 ちなみに、先ほどから「運命的を演出する」という表現を使っています。
これまで述べてきた「運命的」は、神の力によるものだったり、見えない力に引き寄せられるなどの神秘的なものではありません。
実は自分でも分かっている「運命的」です。
「何か気になる」は、何でもかんでも気になるわけでは当然ありません。選別しています。
その基準は、自分が興味関心あるものかどうかです。全く興味関心のないものを「何か気になる」ことはそうそうないでしょう。「何か気になる」ものは、当然自分の興味関心に引っかかっているもののはずです。
なので「運命的」と言っても、全く関係ない本が天から降って来たわけではありません。天が「この本が良いから読んでみなさい」と言っているわけではないのです。
「運命的」と感じる本でも、自分の興味関心のどこかにひっかかるものであるはずなので、そういう意味では自演自作的なところがあります。その意味を汲んで「運命的を演出する」という表現を使っていました。
もちろん「演じる」のでも問題ありません。「運命的」と感じることで、本が良くなるという利益を得ることができるなら、それが演技でもなんでも良いと僕は思います。
「運命的といっても実は僕の興味関心がある本を選んでるんだよね〜。でも運命的にしといた方が良いことあるからいいや」といった、言わば‘有用なフィクション’を存分に使うことはなんら問題ありません。
「まあ、まあそれは置いといて」というのも芸の内です(笑)。




3、 知らない人の利益になるより、目の前の人の利益になった方が良い


 これは単純なことで、Amazonをはじめネット通販ではどんな人が利益になっているのかわかりません。そんな分からない人の利益になるより、目の前でお会計をしてくれている人、本を並べている人、お客さんの問い合わせに答えている人の利益になる方が嬉しく感じます。知らない人の家賃の足しよりも、目の前の人の家賃の足しになる方がずっと良い(笑)。




そんなこんなで「Amazonを捨てよ、町へ出よう」と僕は思うのです。