狩られた言葉
「日本固有の領土」⇒「我が国が主権を有する島々」
「ミサイル」⇒「飛翔体」
「武器輸出三原則」⇒「防衛装備移転三原則」
「欺瞞」の実例です。
天皇が“右傾化“したら?
ここ数日、新聞を読めば、ラジオを聞けば、テレビを見れば、「平成最後だ」、「令和最初だ」、「ありがとう平成だ」なんだかんだなんだかんだ聞かない時が一瞬すらない感があります。そういうものにはなるべく触れないようにしよう、と思って時間を過ごしているつもりですが、それでも目に耳にちょいちょい入ってくるので、世の中ほんとにそれ一色なんだろうなあ、と想像します。お疲れ様です。
そんなわけで「元号がかわってわーいお祝いだ」、ということに興味関心はありませんが、天皇が変わるということにはとても興味あります。しかし、困ったことに、天皇がかわることの何に興味があるのか自分でも具体的にわかっていませんでした。自分の人生で2回目の天皇替わり、という稀少さに対してなのか、生前退位というこちらは自分の人生においての初体験に対してなのか。そういうことではなく漠とした“歴史的行事”というものに対してなのか。
そんな興味をもっていた自分ですが、「ああ、なるほど」と思ったある新聞記事がありました。5月2日(木)の東京新聞「こちら特報部」というコラムです。このコラムはその時々の話題を“東京新聞の視点”で論じる名物コーナーです。5月2日のテーマは「象徴天皇を考える」というものでした。「象徴天皇って何よ?」について複数人の専門家の方々が語る、というスタイルでした。その中で明治大学の山田朗教授(近現代史)のコメントがとても印象に残りました。引用します。
「天皇が代わるたびに象徴の中身も変わりかねないという問題もある。平成は被災者など社会的弱者に寄り添う方へ向かったが、違う方向へ拡大する可能性も否定できない。と指摘。「本来は、そうならないよう主権者の国民側が法律を作り『象徴』に枠をはめるべき。ただ、国会もマスコミも自由な意見を言える雰囲気がない。天皇の行為に対するチェック機能がかけている」と憂う。
これを読んである本を思い出しました。『憲法が変わるかもしれない社会』(文藝春秋)という本です。この本は作家の高橋源一郎さんと、憲法学者の長谷部恭男さんや映画監督の森達也さんなど6名の方々による明治学院大学の対談を収録したものです。この6名の中に政治学者の原武史さんが登場します。原武史さんといえば、同書で高橋さんに
天皇制について考える時、片山(杜秀)さんと原さんの本は必読だと思っているのですが(P98)
といわしめる方で、『大正天皇』(朝日新書)、『昭和天皇』(岩波新書)、『皇后考』(講談社)、『平成の終焉 退位と天皇・皇后』(岩波新書)などの“天皇もの”をたくさん書かれています。『憲法が変わるかもしれない社会』での高橋さんとの対談テーマももちろん「天皇について」です。対談自体は2018年3月6日に行われたようで、平成天皇の「おことば」(2016年8月8日)を軸に展開されています。その中で印象深い箇所を、少し長いですが引用します。
原 (平成天皇・皇后の)そうした行啓や行幸啓をずっと繰り返して、今日に至っている。逆に戦前だったらここまでのことはできないから、行幸だけでなく学校で教育勅語を暗唱させるとか、御真影を仰がせるようなことをしていた。要するに、間接的だったわけです。それを完全に直接的なものにして、とにかくしらみつぶしてで回っていくというのは、はるかにインパクトも大きい。そうすると、実はいまが一番、草の根というか、底辺からの……。
高橋 天皇主義みたいなものが成立していく。
原 そうです。まさにそうしたものが浸透してきている現状をどう考えるか、ということなんです。
(中略)
原 いまの天皇皇后のやり方(行啓や行幸啓を頻繁に行うこと)というのは、ほんとうに一人ひとりと関係性をつくっていく。
高橋 しかも、目線は同じ高さで(笑)。まさに君民一体ですね。
原 そう、文字通り一対一で相対していく。そこの間は、誰も邪魔していない。いわばミクロ化した国体が、そうやってずっとつくられていっている、というのが僕の解釈で、それは国民主権の原則を揺るがしかねないと考えています。
(中略)
高橋 その上で考えたいのが、今上天皇の象徴としての行動です。先ほど触れたように、象徴天皇制は何によって成り立つのかについては、憲法に書いておらず、解釈可能なものになっています。そして現時点では、今上天皇自身が解釈している。いわば行動主義的に、慰霊の旅も行き、行幸もして、国民と一体になって国民の信を勝ち得るというのが、象徴天皇の務めである、と。「おことば」でもそう言っています。
原 その点について補足すると、天皇の活動は、国事行為と公的行為、そして私的行為に大きく分けられますが、公的行為と私的行為については規定がない。宮中祭祀だって戦後は天皇の私的な行事になったわけだから、全然やらなくてもいいんです。年がら年中やっていても、それは彼らの家の話だから、となる。行幸にしたってそうですよね。
高橋 ほんとうは、行かなくてもいいんですよね。
原 はい、別に何も規定はないんです。それを何か漠然と、公的行為として位置づけている。すると、歯止めがきかないことが起こってくる。僕が憲法学者に一番聞きたいのは、平成になってこれだけ肥大化している公的行為をどう思うのか、ということです。国事行為のように、何らかの法的な規定があれば、その枠内で活動が制限されますが、それが全くないことが、皮肉にも、明治、大正、昭和、平成の中で一番そうした行為を増大化させてきたことの、確かな一因ではある。ですから、憲法上に何か具体的な歯止め、枠を設定するということが必要なのかもしれません。
(中略)
原 大日本帝国下でも、行幸についての規定はありませんでした。だからこそ、歴代の天皇の最良によって行動が変わってきたわけです。現天皇が今度、上皇になることも重要ですね。するともう国事行為はやらなくなりますが、私的な活動まで制限できなくなる。「これは私的な外出だ」と称して、各地に赴くことが許されるようになるんですね。
(P250)
ここでもまさに「憲法における象徴天皇」について語られています。時間軸的には、さきほど引用した東京新聞の「象徴天皇を考える」よりも当然前にこの本を読んでいるのですが、読んだ時は正直ピンとこなかったのが実際のところでした。ただ何となく気になっていたのでしょう、「象徴天皇を考える」の引用箇所を読んだ時、「あ、これ原さんが言ってたことにつながりそう」と瞬時に思い出し、『憲法が変わるかもしれない社会』を本棚から引っ張り出したわけです。改めて読んでみると、「ああ、なるほど」と。そして、「これは怖いことだぞ」と。「わーい、令和」とか言っている場合ではないぞ、と。僕が天皇の変更について興味がある、と思っていたこともまさにこれだったのです。(原さんの言っていたことを理解できないながらも、何となく気になる、状態だったので、自分が天皇の変更の何に具体的に興味があったのかはっきりしていなかったのでしょう)
原さんが指摘されているとおり、平成天皇の行啓、行幸啓=一対一での相対は国民に高く評価されている、という調査結果がでています。
読売新聞 2018年10月~11月 郵送全国世論調査「平成時代」
◆あなたは、今の天皇陛下に、親しみを感じていますか、感じていませんか。
・感じている 44
・どちらかといえば感じている 37
・どちらかといえば感じていない 12
・感じていない 7
・答えない 1
◆平成の時代を通じ、皇室と国民の距離は、近くなったと思いますか、そうは思いませんか。
・そう思う 32
・どちらかといえばそう思う 45
・どちらかといえばそうは思わない 14
・そうは思わない 9
・答えない 1
◆天皇陛下がこれまで取り組まれてきた活動のうち、あなたが、とくに意義深いと思うことを、3つまで選んで下さい。
・国際親善のための外国訪問 63
・地震や水害などの被災地訪問 84
・戦没者慰霊のための戦跡地訪問 56
・国民体育大会などの行事への出席 12
・閣僚の認証や国会召集などの国事行為 4
・国の安寧を祈るなどの宮中祭祀 23
・その他 0
・とくにない 6
・答えない 1
◆今の天皇制について、次に挙げる意見のうち、あなたの考えに最も近いものを、1つだけ選んで下さい。
・今の象徴天皇のままでよい 79
・元首の地位を明確にし、天皇の権限を強めた方がよい 4
・天皇制は廃止した方がよい 6
・関心がない 10
・答えない 1
平成天皇の「象徴天皇としての行為」=地震や水害などの被災地訪問、戦没者慰霊のための戦跡地訪問、それに基づく天皇自身が高く評価されているのが分かります。令和天皇に「親しみ」を感じる人が82.5%、という世論調査結果も平成天皇の「象徴天皇としての行為」が大きく影響を与えているのではないかと思います。
ただこれら平成天皇の「象徴天皇としての行為」は、日本国憲法には規定されていない、原さん曰く「私的行為」なわけです。Made by 平成天皇な行為。これが意味することは、令和天皇をはじめ、今後の天皇が同じことをするとは限らないということです。(平成天皇は2016年8月8日のおことばの中で、「象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ~」と、絶えず引き継がれることを望んでいますが)規定がないので自分で考えるしかないわけです。実際、即位に際しての令和天皇の「お言葉」の中に「象徴天皇が何なのか」という具体的な内容はありません。
ここで思うのです、象徴行為として「一対一で相対」できる(=行幸、行幸啓)存在である天皇が、「憲法なんて守る必要はないよね」とか言いだしたらどうなるのだろう?と。そんなことを天皇が直接的に言っても、一般国民には伝わってこないでしょうが、例えば令和天皇の「お言葉」の中の、
国民を思い 憲法にのっとり 象徴としての責務を果たすことを誓い
という箇所が、
国民を思い 象徴としての責務を果たすことを誓い
といった“ささいな”形でなされたら? そしてこれが常のことになったら?
これに対して、仮に「天皇は政治的な力もないし別に関係ないでしょ」という言葉がでてきたら、「本当に?」と真面目な顔して問い返します。ここで再度『憲法が変わるかもしれない社会』より引用します。
原 憲法の精神を前景化する象徴としての天皇の行為というのは、受け取る国民の側の問題でもあると思います。たとえば今上天皇が地方や離島などに行った時、現地の人々はその姿に国民統合の象徴をみるのか? あるいは平和憲法への問いかけをするのか? 端的に言って、「神様が来た」と思うんですよ。それは戦前のみならず、戦後でも同じなんです。全く変わっていない。皇太子時代を含めて地方紙をかなり読みましたけれど、ほんとうに何も変わっていない。
高橋 まさに現人神のまんまですね。
原 戦後の沖縄県を除けば万歳の嵐と日の丸の波、そして町や村はじまって以来の空前の人出です。「奉迎」一色になる。皇太子や天皇を迎える彼らの側のメンタリティは、全く変わっていない。先ほど戦前のイデオロギー教育について触れましたが、いまは教育で形作られた天皇像ではなく、民俗学的な意味での生き神になっている、とも言える。さらに言えば、民俗学的には別に天皇じゃなくてもいいのかもしれない。昔から生き神、生き仏と言われた人たちがいるわけですが、外部からマレビトがやってくると、同じような反応を示してきたわけですから。
(P256)
端的に言ってしまえば、既存の政治勢力とは異なった“天皇勢力”が生まれ得るということです。そんな勢力が「憲法なんて守る必要はないよね」と言いだしたら? 現人神に直接触れた人がその言葉を聞いたら?
憲法を守る云々はあくまで一つの例です。なんでもよいです、「憲法は絶対に守らなければ」でも、「戦争ってやっぱ必要だよね」でも。それらの言葉が時の政治勢力と同一の方向に向いたとき、大きな力を発揮するように思えてなりません。平成天皇・皇后の護憲精神は、安倍氏の方向性とは真逆のものだったと思います。そこにはある種のバランスがありました。そのバランスが崩れたら? 雪崩をうって一気に事が進む可能性を感じます。(憲法のことでいえば、いわゆる護憲でも、改憲でもどちらでもその可能性があります)
これこそ、「これは怖いことだぞ」です。何にも規定されていない、天皇自身が創出できる「象徴的行為」によって生まれ得る“天皇勢力”。
「象徴天皇」という概念が生まれて本日(2019年5月3日)でちょうど72年になります。
次の元号が決まったそうです。
みなさんご存知でしょうか、次元号が「令和」に決定したそうです。
あ、知ってますか。
(「れいわ」で変換したら一発で「令和」がでてきました)
「れいわ」、なかなか良い響きです。
この令和、
万葉集にある歌の序文「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす」(書き下し文)から二文字をとった。
そうで、
日本で記された国書に由来する元号は確認できる限り初めてとなる。
そうです。
元号は645年の「大化」からというのが一般的のようで、それを基準にすると今年で1374年間の歴史があります。
その間二百四十七の元号が定められてきたそうです。
そんな長い期間で、「日本で記された国書に由来する元号が使われた」というはじめてのことが今回起こったわけですが、「なんかすごいなあ」と阿呆のような感想をもらしてしまいました。
それと同時に報道を見たり、ツイッターを眺めたりしても、そのことにあまり「驚いていない」ことに僕は驚いています。
とりわけ“伝統を重んじる保守”の人たち。このことについて怒らないのでしょうか?
「元号に前例のない国書由来のものを使ったのはけしからん!」という声は聞こえてきません。
1374年間という、とてつもなく長い期間続いてきたこと=“伝統”を変更したのに。
今年は皇紀2679年ですが、その半分以上続いてきた“伝統”ですよ、それって日本で最も長く続いている慣習なのではないでしょうか。
それに関連して、何やら不思議な記事がありました。
日本の元号は出典が確認されている限り、中国の儒教の経典「四書五経」など漢籍を典拠としてきた。安倍政権の支持基盤である保守派には、日本で記された国書に由来する元号を期待する声がある。
“伝統を重んじる保守”の人たちが、1374年間の慣例を破って初となる日本で記された国書に由来する元号を期待している、という記事です。
実に奇妙です。
なんで“伝統を重んじる保守”の人たちが、日本で最古の伝統といっちゃいましょう、元号の“伝統”を捨てることを期待しているのでしょうか?
もしかしたら4/1(月)に行われた以下の安倍氏の元号に関する記者会見でのこの言葉に納得したからかもしれません。
同時に、急速な少子高齢化が進み、世界がものすごいスピードで変化をしていく中で、変わるべきは変わっていかなければなりません。平成の30年間ほど、改革が叫ばれた時代はなかったと思います。政治改革、行政改革、規制改革。抵抗勢力という言葉もありましたが、平成の時代、様々な改革がしばしば大きな議論を沸き起こしました。他方、現在の若い世代、現役世代はそうした平成の時代を経て、変わること、改革することをもっと柔軟に前向きに捉えていると思います。平成31年4月1日 安倍内閣総理大臣記者会見 | 平成31年 | 総理の演説・記者会見など | ニュース | 首相官邸ホームページ
これに納得したのならだいぶ物分かりの良い人たちのようです、“伝統を重んじる保守”の人たちとは。
でもですよ、でも、1374年間も続いてきたものが変更されてこんな数行の言葉で納得しちゃうものなのでしょうか?
僕は“伝統を重んじる保守”の人たちとは一線を画しているつもりですが、そんな僕でさえ、「そんな簡単なものなの?」と心配に思ってしまいます。
僕は「“伝統を重んじる保守”の人たちは“伝統”を1mmも変えてはならんではないか!」と言いたいのではありません。
時代を経れば何でも形は変わっていくものでしょう。
それを急激な形でなく、徐々に実行していくのが保守というものだと僕は認識しています。だから保守は変化を通常に備えているものです。
ただ1374年間も続いたものをすんなり捨ててしまうことに何の葛藤も、思案もなく受け入れてしまうというのはどういうことでしょう?
さすがに物分かりが良すぎはしないでしょうか?
夫婦別姓には「伝統的家族観が壊れる!!」とすごい勢いでまくしたてるのに。
こんな感じで
女性が自分の姓に固執するのは自由ですが、そういうのは個人間で済ませるもので、国家が介入する事ではありません。日本には日本の家制度があり、それを基軸に我が国は2679年続いてきました。今更朝鮮式を入れる理などありません。夫婦別姓を導入するとどう日本が壊れるか、もうちょっと考えてください
— はすみ としこ (@hasumi29430098) March 24, 2019
(日本で夫婦同姓が制定されたのは1898年。そこから彼らの“伝統”がはじまりました)
そこから僕が思うことは、「“伝統を重んじる保守”の人たちの“伝統”とは、“自分たちの好み”なのではないか?」」ということです。
自分たちが好きなものが“伝統”。
伝統の名を借りたただの“都合の良い選択”です。なんとも薄っぺらいもので。
(いくら長い間慣習にあったものでも自分の都合の良い選択で何の躊躇もなく即座に捨ててしまう彼らが「保守」などではないことはここに明確にしておきます)
1374年間も続いた「元号は漢籍から」という事実は彼らにとって“伝統”ではなかったのでしょう。お気に召さなかったのでしょう。
何がお気に召さなかったのかといえば、端的に「元号が漢籍=中国の書に由来する」ということです。
“伝統を重んじる保守”の人たちのこれまでの行動、発言を振り返れば、それは説得力のある指摘だと思います。
単なる「嫌中」でしょう、これは。
彼らの大好物な「嫌中」が結実した「漢籍由来ではない元号」だからこそ、1374年間も続いた慣習だろうがなんだろうが何も言わずに歓迎したのでしょう。
さらに「嫌中」の裏面ともいえる「日本スゴイ」が、安倍氏や菅氏、“有識者”のエライ方々の「国書、国書」の連呼によって充足されたのでしょう。
コンボですよ、コンボ。
それら二重の喜びの前では、「元号に前例のない国書由来のものを使ったのはけしからん!」などという声が出るはずもありません。
以下は4/1(月)のNHK『ニュース9』に出演した安倍氏の発言書き起こしです。ちょっと長いのですが引用させていただきます。(クリックすると全文読めます)
buuさん(https://twitter.com/buu34)という、国会などの書き起こしをツイッターでやられている方のツイートをお借りします。(「アレ」というのは安倍氏のことです)
NHKニュース9
— buu (@buu34) April 1, 2019
アレ「令和って言うのは、今まで、中国の漢籍を典拠としたものと違ってですね、自然の一つの情景が目に浮かびますね。厳しい寒さを越えて、花を咲かせた、梅の花の状況、それが今までと違う」
「中国の漢籍を典拠としたものと違って」🤣🤣🤣
「令和って言うのは、今まで、中国の漢籍を典拠としたものと違ってですね、自然の一つの情景が目に浮かびますね。厳しい寒さを越えて、花を咲かせた、梅の花の状況、それが今までと違う」
「あの、長い間歴史の中で、ずーっとですね、中国の、漢籍、を典拠として元号を決めておりました。しかし、この1400年、元号の歴史をつむいでくる中に於いてですね、やはり、この、ニッポンらしい、え、国書、からですね、あの、ほ、を典拠として、元号を、新たに、発表すべきではないか」
安倍氏の薄汚い「嫌中」「日本スゴイ」意識が元号制定に使われていること、暗澹たる気持ちになります。
グロテスク
ちなみに元号の最終決定は「人気投票」だったらしいですよ。
有識者懇の林真理子氏が「(令和は)一番人気があった。美しい。これで万葉集ブームが起こるのではないか」と官邸で記者団に語る。
どんな理由で選ばれたのかも分からないその界隈の有名人である、あえていいますと、“こんな人たち”の人気投票で決まった(決まった形になった)ようですが、これについてはいかが思われますか?
昨日4/2(火)のTBSラジオ『Session22』の特集は、
「新元号は「令和」に決定。お祭り騒ぎの一方で、いま、本当に考えるべきこととは?」原武史×片山杜秀×荻上チキ
というものでした。
www.tbsradio.jp
こちらから音声を聞くことができます。「天皇」を研究されてきた原さん、片山さんお二人の話は実に勉強になりました。
中でも片山さんの
「今回の元号制定、発表をみて安倍首相の権力の大きさを感じずにはいられませんでした。自分がお膳立てをして、制定して、発表してと、元号制定が首相の力が誇示されるものになっていくのではないか」
といった主旨の話は実に興味深く、重いものとして今でも残っています。
オススメです。
ちなみに東京新聞に「元号制定手続き」が掲載されていましたので、こちらに書き記しておきます。ご参考までに。
元号制定手続き(全文)
元号法に定める元号の選定については、次の要領によるものとする。
一 候補名の考案
(一)首相は、高い見識を有する者を選び、これらの者に次の元号とするのにふさわしい候補名(以下「候補名」という)の考案を委嘱する。
(二)候補名の考案を委嘱される者(以下「考案者」という)の数は、若干名とする。
(三)首相は、各考案者に対し、おおよそ二ないし五の候補名の提出を求めるものとする。
(四)考案者は、候補名の提出にあたり、各候補名の意味、典拠などの説明を付するものとする。
二 候補名の整理
(一)官房長官は、考案者から提出された候補名について、検討し、および整理し、その結果を首相に報告する。
(二)官房長官は、候補名の検討及び整理に当たっては、次の事項に留意するものとする。
ア 国民の理想としてふさわしいような良い意味を持つものであること。
イ 漢字二字であること。
ウ 書きやすいこと。
エ 読みやすいこと。
オ これまでに元号または贈り名として用いられたものでないこと。
カ 俗用されているものでないこと。
三 原案の選定など
(一)首相の指示により、官房長官は、内閣法制局長官の意見を聴いて、新元号の原案として数個の案を選定する。
(二)官房長官は、各界の有識者の参集を得て、元号に関する懇談会(以下「懇談会」という)を開催し、新元号の原案につき意見を求め、その結果を首相に報告するものとする。懇談会のメンバーは若干名とし、官房長官が選考する。
(三)首相は、新元号の原案について衆院および参院の議長および副議長である者に連絡し、意見を伺う。
(四)全閣僚会議において、新元号の原案について協議する。
法を犯した俳優の作品は回収をしなくてはいけないのか?私見
ピエール瀧さんが、3/12(火)に麻薬取締法違反の疑いで逮捕されました。
僕のピエール瀧初体験は、電気グルーヴであり、記憶の中では「KARATEKA」という曲です。1992年のリリースだそうです。その曲の
社長のふりして会社でいばる「KARATEKA」
という、凄まじい歌詞が頭の中にこびりついていて、今でも1か月に一度くらいは何の脈絡もなく呟いてしまいます。(ツイッターではなく、現実に)特に何も起こりませんが、なんだか楽しくなります。
僕にとってそんなピエール瀧さんですが、ここ10年くらいは、電気グルーヴの活動はもちろんですが、それ以上に映画やドラマ、CM、ラジオなどでも目に、耳に触れる機会が多くなりました。
俳優としては、2013年の映画『凶悪』出演で日本アカデミー助演男優賞や毎日映画コンクール助演男優賞などの栄誉に輝いているようです。
映画『アウトレイジ最終章』や『シン・ゴジラ』、ドラマ『64』などで、特にピエール瀧さんを見ようとして見るわけではないですが、たびたび目にしている僕の印象では、「なんか演技が全部同じだな」という感じで、それが良いのか悪いのか判断できないのですが、いろんな人が「ピエール瀧さんの演技はいいね」と言っているし、賞も受けているので良い俳優なのでしょう。
そんなピエール瀧さんなので、今年もこれから公開される映画が現在発表されているだけで2つもあるそうです。
4月公開の『麻雀放浪記2020』、5月公開の『居眠り磐音』。
2月に強制性交の疑いで逮捕された新井浩文さんの時もそうでしたが、俳優が法を犯して逮捕されると、出演作品の上映・放送が中止される、とか、これまで出演した作品の提供が停止されるとか、DVDの発売が中止・延期されるとかの話がでてきます。
ピエール瀧さんにおいては、上記2本の劇場公開については現在協議中でまだどうなるか決まっていないようです。
[追記]2019/3/15
『居眠り磐音』はピエール瀧さんの代役を立てて撮影後、予定通り5月17日に公開されるそうです。
松坂桃李主演『居眠り磐音』は代役で撮り直しへ!5月17日公開は変わらず | cinemacafe.net
--追記終わり--
「NHKオンデマンド」で配信されていた、『とと姉ちゃん』や『あまちゃん』、大河ドラマ『龍馬伝』のシリーズ全作品のほか、現在放送中の大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』のピエール瀧さんが出演した回などの配信を当面、停止するそうです。
そんな対応についてツイッター上などでは「なんで出演した作品が中止されるの?」といった投稿が多々見られます。「作品に罪はないんだから」「他の出演者には関係ないでしょ」と。
その代表というわけではないですが、RTやいいねの反応がとても多いツイッターの投稿に、劇作家の鴻上尚史さんやジャーナリストの江川紹子さんのものがあります。
出演者の不祥事によって、過去作品が封印されるなんて風習は誰の得にもならないし、法律的にもなんの問題もないし、ただの思考停止でしかない。ここで制作者は踏ん張って、作品と1人の俳優はイコールではないと持ちこたえないと、この国の文化は悲惨なことになってしまう。
— 鴻上尚史 (@KOKAMIShoji) 2019年3月13日
またも過去の作品お蔵入り、収録済み映像も編集し直し消去、みたいなことをやるのか…。薬物自己使用とか被害者がいない事件で、そういう非生産的なことは、もうやめた方がいい →「いだてん」出演のピエール瀧容疑者 コカイン使用で逮捕、多額の賠償金発生か(スポニチ) https://t.co/43rm6fmzsQ
— Shoko Egawa (@amneris84) March 13, 2019
「そうだよなあ」と思ったのですが、何かちょっとひっかかるなあ、とも思いしばし考えてみました。
結果、考えてみて何となくわかったことは、「この論には、受け手のこと、それに伴う作品自体のことに対する視点が欠けているのではないか?」ということでした。
これについて考え、書いてみようと思います。
僕は良い俳優、悪い俳優、上手い俳優、下手な俳優というのが、よく分かりません。
映画は大好きで、DVDも含めて年100本くらいは観ますが、よく分かりません。その判断基準を知りたいと思っているのですが、分かりません。
そんな感じなので、「その判断基準を知りたい!」という欲求は、恐らく他の人よりもあるのではないかと思います。映画好きといいながら、どういう俳優が上手いのか、下手なのかの私見がないのも格好悪いようで。。
その欲求が向かう先の踊り場的な存在として、「映画・ドラマに変な違和感なく入っていかせる俳優を上手いというのではないか?」というものを設定しています。
戦国時代の映画だったら、戦場にいてもおかしくなさそうな佇まいで存在できる俳優。
ホームドラマだったら、「こういう人いるよね」と確認するまでもなく、「日常」の表情をしている俳優。
当然、上手い俳優がたくさんでている映画やドラマは「良い作品」である確率は高いと思いますが、ということは「良い作品」とは、観る人をすぐに作品の中に引き込むことができる作品、とも言えるのはでないかと僕は考えています。
それを前提に考えるとき、法を犯した俳優というのは作品を「良い作品」にすることに資することができるのでしょうか?
僕は「できない」と思います。
どうしてもその俳優がやったことが頭をよぎってしまい、観客が作品に入っていくことを阻害してしまうからです。
例えば、麻薬取締法違反の疑いで逮捕されたピエール瀧さんを例にあげます。
『アウトレイジ最終章』には、ピエール瀧さんはヤクザの役で出演していました。これは一般的なイメージでヤクザの方には失礼な言い方かもしれませんが、ヤクザと麻薬というのは相性が良いように思います。それでも『アウトレイジ最終章』を見ていてピエール瀧さんが出てきたら、「わ、映画というフィクションの中に本物がいる、、」と僕は現実に引き戻されてしまうと思います。その後また映画の中に入っていけるかもしれませんが、はっきりいって映画の最中に現実に引き戻されることは一瞬でもあってほしくありません。映画が上映されている2時間なら2時間、ずっと映画の中にいたいのです。
さらに例えば、NHKで放送されたドラマ『64』。このドラマではピエール瀧さんは主演で役どころは警察官です。警察官と麻薬。想像してみてください、、、、ドラマを観てもまったく頭に入ってこないのではないでしょうか。「犯人を捕まえなければ」というセリフがあったとしても、「いや、あんた捕まってるし」といちいち「余計なもの」が頭の中に出てきてドラマどころじゃない、と僕は思うことでしょう。
このように法を犯した俳優は、受け手が作品に入り込むのを邪魔する存在として作品の中で存在感をもってしまうのです。
そして重要なことは、それが「作品の質」を損なうということです。
作品の質はそれ自体がもつものではありません。受け手による「素晴らしい」「面白いね」などの陽性な感想が積み重なることで高まっていくものなのだと、僕は考えています。
受け手が作品に入り込むのを邪魔する存在は、映画の中に現実を持ち込むものとして、受け手の面と向かった映画体験を邪魔するものです。陽性な感想の邪魔をするものです。
そんな存在が作品の質を高めることなどあるはずもなく、損なう要素しかない、ということは断言できます。
結果、法を犯した俳優は作品の質を落としてしまうわけです。
先に揚げた鴻上尚史さん、江川紹子さんの論にはこの点が欠けているのではないかと思います。
公開、放送、配信するのは良いとして、だけど、その結果創り手が丹精込めて創った作品が真正面から受け手に伝わらず、「余計なもの」のおかげで質を落とすことになってしまうのではないか?という視点。
「作品に罪はない」という、「なんで停止をするんだ!」の意見の代表的な言葉に対しても同様のことがいえます。
作品のことを本気で考えるなら、その作品が観る人へ最良の形で届くことを考えるべきだろうと思います。
不本意な形で受け手に届いてしまった作品の不幸を考えるべきです。
その形が法を犯した俳優が出演しているという状況において作られることは難しい、ということはこれまで述べたとおりです。
これまで「法を犯した俳優」という言葉を使ってきましたが、これは正確ではありません。
正確には、「法を犯し、まだ多くの人の記憶にそのことが残っている俳優」というべきでしょう。
すでに法的にも罪を償い、多くの人の記憶から消えてしまうほどの、とうの昔の罪を犯した俳優であるならば、映画を観ていて出てこようが現実に引き戻すような邪魔をすることはありません。
勝新太郎さんの『座頭市』を先日観ましたが、「あ、コカインをパンツにいれてた人だ」などとは一瞬も思いませんでした。『座頭市』の世界でどっぷり1時間半。至福の時間でした。
勝新太郎さんがコカイン所持で逮捕されたのは、1990年だそうです。今から29年前でしょうか。
ただの時間の経過なのか、勝新太郎という俳優、人物によるものなのか、様々な理由はあるのでしょうが、すでに勝新太郎さんは「あ、コカインをパンツにいれてた人だ」と、映画を邪魔する俳優では(僕の中では)ありません。なので、どしどし映画館で上映でも、DVD販売でも、動画サイトで配信でもしてもらいたいです。
ピエール瀧さんは4月公開予定の『麻雀放浪記2020』、5月公開の『居眠り磐音』に出演されているそうですが、仮に予定の公開日にそれぞれの作品をみたとき、「あ、コカインの人だ」と思わないということがあるでしょうか?
鍵は人々の「記憶」にあるのだと考えます。人々の記憶の中で色濃く「犯罪者である俳優」が残っているかどうか。
それを公開中止、配信停止、販売停止の基準にするのがよい、というのが今の僕の考えです。
ただ「観る人の邪魔をしなければよい」と思っているので、役どころや出番回数などで対応されるべきだと思います。例えば、カメオ出演だったらそもそも「いたの?」レベルでしょうから問題なし、でずっぱりの主演だったらアウト、ちょっとしかでないけどすごく重要な役どころだったら、、、と作品ごとの判断がなされるべきです。
全て中止、停止ではなく、それぞれの制作者、関係者が「作品の質」を軸に判断することが重要なのではないでしょうか。停止期間も含めて。
そんな風に思います。
これまで書いてきたことはあくまで「作品ベース」の話で、「商業ベース」のものではありません。
「そうはいっても公開中止になったらお金が困るんだよね」という商業上の理由はあると思います。それはまた別軸の話になりますが、ただそれでも作品の質が落ちるということは同様なことは忘れてはいけないと思います。
ということを、言う人があまりいないので書いてみた次第です。
映画サイト「シネマトゥデイ」に
「作品に罪はあるのか?俳優不祥事による映画公開中止はなぜ」
という記事が掲載されています。
映画業界の理由としての「公開中止」について書かれたもので興味深いですのでよろしければ。
桜田五輪相「五輪憲章読んでいない」
桜田義孝五輪相は衆院予算委員会で、五輪の根本原則を定めた五輪憲章について「話には聞いているが、自分では読んでいない」と述べた。
共同通信 2019/2/13
すごいな。
あなたが認めなかろうが関係ない
統計不正で首相「雇用・所得改善、判断変えず」 参院代表質問
安倍晋三首相は1日の参院本会議の代表質問で、毎月勤労統計の不正調査問題の影響で2018年1~11月の賃金の伸び率が変更されたことについて「それほど大きな影響を受けていない。雇用・所得環境が着実に改善しているとの判断に変更はない」と強調した。
立憲民主党の福山哲郎幹事長は「(統計不正で)アベノミクスを実態より大きく見せようとした」と追及。首相は「(問題になっている)数値のみを示して『アベノミクスの成果だ』と強調したことはない。この数値のみを使って雇用・所得動向を判断しているわけではない」と改めて反論した。根本匠厚生労働相の更迭については「(統計不正の)事案を把握した後、必要な指示を行いつつ全力で対応してきた」と重ねて拒否した。
政府は、過少給付だった雇用保険などを現在受給している人への追加給付を3月中から始める方針。首相は本会議で、過去の受給者に対する追加給付の見通しについて「システム改修の準備を進めており、速やかに国民にスケジュールを示す」と説明した。【松倉佑輔】
別に安倍氏が「関係ない」と言おうが、言うまいがそんなことは関係ありません。
この人の判断によって経済が動いているわけでも、人の賃金が決まっているものでもありませんし。
このグラフ作成は弁護士の明石順平さん(『アベノミクスによろしく』著者)によるものです。
このグラフが正確なものなのかどうか、は僕にはそれこそ判断しかねるものですが、
「同日の野党合同ヒアリングで、統計問題に詳しい明石順平弁護士による試算を野党が提示。厚労省の屋敷次郎大臣官房参事官は「(厚労省が試算した場合も)同じような数字が出ると予想される」と認めた。」
ということを考慮すると、おおよそ正確なものなのだろうと思います。
安倍氏の「判断」どうこうではなく、このグラフという「事実」を世に問うていき、国民が「判断」をすればいいだけの話です。
安倍氏が「認めないから事実ではない」のではなく、事実はもうあるのです。その事実で問えばいい。