法を犯した俳優の作品は回収をしなくてはいけないのか?私見

ピエール瀧さんが、3/12(火)に麻薬取締法違反の疑いで逮捕されました。

僕のピエール瀧初体験は、電気グルーヴであり、記憶の中では「KARATEKA」という曲です。1992年のリリースだそうです。その曲の

 

社長のふりして会社でいばる「KARATEKA」

 

という、凄まじい歌詞が頭の中にこびりついていて、今でも1か月に一度くらいは何の脈絡もなく呟いてしまいます。(ツイッターではなく、現実に)特に何も起こりませんが、なんだか楽しくなります。

 

僕にとってそんなピエール瀧さんですが、ここ10年くらいは、電気グルーヴの活動はもちろんですが、それ以上に映画やドラマ、CM、ラジオなどでも目に、耳に触れる機会が多くなりました。

俳優としては、2013年の映画『凶悪』出演で日本アカデミー助演男優賞毎日映画コンクール助演男優賞などの栄誉に輝いているようです。

映画『アウトレイジ最終章』や『シン・ゴジラ』、ドラマ『64』などで、特にピエール瀧さんを見ようとして見るわけではないですが、たびたび目にしている僕の印象では、「なんか演技が全部同じだな」という感じで、それが良いのか悪いのか判断できないのですが、いろんな人が「ピエール瀧さんの演技はいいね」と言っているし、賞も受けているので良い俳優なのでしょう。

 

そんなピエール瀧さんなので、今年もこれから公開される映画が現在発表されているだけで2つもあるそうです。

4月公開の『麻雀放浪記2020』、5月公開の『居眠り磐音』。

2月に強制性交の疑いで逮捕された新井浩文さんの時もそうでしたが、俳優が法を犯して逮捕されると、出演作品の上映・放送が中止される、とか、これまで出演した作品の提供が停止されるとか、DVDの発売が中止・延期されるとかの話がでてきます。

ピエール瀧さんにおいては、上記2本の劇場公開については現在協議中でまだどうなるか決まっていないようです。

 

[追記]2019/3/15

『居眠り磐音』はピエール瀧さんの代役を立てて撮影後、予定通り5月17日に公開されるそうです。

松坂桃李主演『居眠り磐音』は代役で撮り直しへ!5月17日公開は変わらず | cinemacafe.net

--追記終わり--

 

NHKオンデマンド」で配信されていた、『とと姉ちゃん』や『あまちゃん』、大河ドラマ龍馬伝』のシリーズ全作品のほか、現在放送中の大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』のピエール瀧さんが出演した回などの配信を当面、停止するそうです。

 

www.oricon.co.jp

 

そんな対応についてツイッター上などでは「なんで出演した作品が中止されるの?」といった投稿が多々見られます。「作品に罪はないんだから」「他の出演者には関係ないでしょ」と。

その代表というわけではないですが、RTやいいねの反応がとても多いツイッターの投稿に、劇作家の鴻上尚史さんやジャーナリストの江川紹子さんのものがあります。

 

 

 

「そうだよなあ」と思ったのですが、何かちょっとひっかかるなあ、とも思いしばし考えてみました。

結果、考えてみて何となくわかったことは、「この論には、受け手のこと、それに伴う作品自体のことに対する視点が欠けているのではないか?」ということでした。

これについて考え、書いてみようと思います。

 

僕は良い俳優、悪い俳優、上手い俳優、下手な俳優というのが、よく分かりません。

映画は大好きで、DVDも含めて年100本くらいは観ますが、よく分かりません。その判断基準を知りたいと思っているのですが、分かりません。

そんな感じなので、「その判断基準を知りたい!」という欲求は、恐らく他の人よりもあるのではないかと思います。映画好きといいながら、どういう俳優が上手いのか、下手なのかの私見がないのも格好悪いようで。。

その欲求が向かう先の踊り場的な存在として、「映画・ドラマに変な違和感なく入っていかせる俳優を上手いというのではないか?」というものを設定しています。

 

戦国時代の映画だったら、戦場にいてもおかしくなさそうな佇まいで存在できる俳優。

ホームドラマだったら、「こういう人いるよね」と確認するまでもなく、「日常」の表情をしている俳優。

 

当然、上手い俳優がたくさんでている映画やドラマは「良い作品」である確率は高いと思いますが、ということは「良い作品」とは、観る人をすぐに作品の中に引き込むことができる作品、とも言えるのはでないかと僕は考えています。

 

それを前提に考えるとき、法を犯した俳優というのは作品を「良い作品」にすることに資することができるのでしょうか?

僕は「できない」と思います。

どうしてもその俳優がやったことが頭をよぎってしまい、観客が作品に入っていくことを阻害してしまうからです。

 

例えば、麻薬取締法違反の疑いで逮捕されたピエール瀧さんを例にあげます。

アウトレイジ最終章』には、ピエール瀧さんはヤクザの役で出演していました。これは一般的なイメージでヤクザの方には失礼な言い方かもしれませんが、ヤクザと麻薬というのは相性が良いように思います。それでも『アウトレイジ最終章』を見ていてピエール瀧さんが出てきたら、「わ、映画というフィクションの中に本物がいる、、」と僕は現実に引き戻されてしまうと思います。その後また映画の中に入っていけるかもしれませんが、はっきりいって映画の最中に現実に引き戻されることは一瞬でもあってほしくありません。映画が上映されている2時間なら2時間、ずっと映画の中にいたいのです。

さらに例えば、NHKで放送されたドラマ『64』。このドラマではピエール瀧さんは主演で役どころは警察官です。警察官と麻薬。想像してみてください、、、、ドラマを観てもまったく頭に入ってこないのではないでしょうか。「犯人を捕まえなければ」というセリフがあったとしても、「いや、あんた捕まってるし」といちいち「余計なもの」が頭の中に出てきてドラマどころじゃない、と僕は思うことでしょう。

 

このように法を犯した俳優は、受け手が作品に入り込むのを邪魔する存在として作品の中で存在感をもってしまうのです。

そして重要なことは、それが「作品の質」を損なうということです。

作品の質はそれ自体がもつものではありません。受け手による「素晴らしい」「面白いね」などの陽性な感想が積み重なることで高まっていくものなのだと、僕は考えています。

受け手が作品に入り込むのを邪魔する存在は、映画の中に現実を持ち込むものとして、受け手の面と向かった映画体験を邪魔するものです。陽性な感想の邪魔をするものです。

そんな存在が作品の質を高めることなどあるはずもなく、損なう要素しかない、ということは断言できます。

結果、法を犯した俳優は作品の質を落としてしまうわけです。

 

先に揚げた鴻上尚史さん、江川紹子さんの論にはこの点が欠けているのではないかと思います。

公開、放送、配信するのは良いとして、だけど、その結果創り手が丹精込めて創った作品が真正面から受け手に伝わらず、「余計なもの」のおかげで質を落とすことになってしまうのではないか?という視点。

「作品に罪はない」という、「なんで停止をするんだ!」の意見の代表的な言葉に対しても同様のことがいえます。

作品のことを本気で考えるなら、その作品が観る人へ最良の形で届くことを考えるべきだろうと思います。

不本意な形で受け手に届いてしまった作品の不幸を考えるべきです。

その形が法を犯した俳優が出演しているという状況において作られることは難しい、ということはこれまで述べたとおりです。

 

これまで「法を犯した俳優」という言葉を使ってきましたが、これは正確ではありません。

正確には、「法を犯し、まだ多くの人の記憶にそのことが残っている俳優」というべきでしょう。

すでに法的にも罪を償い、多くの人の記憶から消えてしまうほどの、とうの昔の罪を犯した俳優であるならば、映画を観ていて出てこようが現実に引き戻すような邪魔をすることはありません。

勝新太郎さんの『座頭市』を先日観ましたが、「あ、コカインをパンツにいれてた人だ」などとは一瞬も思いませんでした。『座頭市』の世界でどっぷり1時間半。至福の時間でした。

勝新太郎さんがコカイン所持で逮捕されたのは、1990年だそうです。今から29年前でしょうか。

ただの時間の経過なのか、勝新太郎という俳優、人物によるものなのか、様々な理由はあるのでしょうが、すでに勝新太郎さんは「あ、コカインをパンツにいれてた人だ」と、映画を邪魔する俳優では(僕の中では)ありません。なので、どしどし映画館で上映でも、DVD販売でも、動画サイトで配信でもしてもらいたいです。

ピエール瀧さんは4月公開予定の『麻雀放浪記2020』、5月公開の『居眠り磐音』に出演されているそうですが、仮に予定の公開日にそれぞれの作品をみたとき、「あ、コカインの人だ」と思わないということがあるでしょうか?

 

鍵は人々の「記憶」にあるのだと考えます。人々の記憶の中で色濃く「犯罪者である俳優」が残っているかどうか。

それを公開中止、配信停止、販売停止の基準にするのがよい、というのが今の僕の考えです。

ただ「観る人の邪魔をしなければよい」と思っているので、役どころや出番回数などで対応されるべきだと思います。例えば、カメオ出演だったらそもそも「いたの?」レベルでしょうから問題なし、でずっぱりの主演だったらアウト、ちょっとしかでないけどすごく重要な役どころだったら、、、と作品ごとの判断がなされるべきです。

全て中止、停止ではなく、それぞれの制作者、関係者が「作品の質」を軸に判断することが重要なのではないでしょうか。停止期間も含めて。

そんな風に思います。

 

これまで書いてきたことはあくまで「作品ベース」の話で、「商業ベース」のものではありません。

「そうはいっても公開中止になったらお金が困るんだよね」という商業上の理由はあると思います。それはまた別軸の話になりますが、ただそれでも作品の質が落ちるということは同様なことは忘れてはいけないと思います。

 

 

ということを、言う人があまりいないので書いてみた次第です。

 

映画サイト「シネマトゥデイ」に

「作品に罪はあるのか?俳優不祥事による映画公開中止はなぜ」

www.cinematoday.jp

という記事が掲載されています。

映画業界の理由としての「公開中止」について書かれたもので興味深いですのでよろしければ。