沖縄知事選結果の新聞報道

先日9/30(日)に沖縄知事選挙があり、玉城デニーさんが佐喜真淳さんに約8万票もの大差で勝利したのはご存知のとおり。


玉城デニー  396,632  得票率 55.1%
佐喜真淳   316,458  得票率 43.9%
兼島俊    3,638 得票率 0.5%
渡口初美     3,482 得票率 0.5%


という結果でした。


この結果を各新聞がどのように、どれくらい報じたのかを調べてみました。
選挙の次の日、10/1(月)に朝日新聞、読売新聞、毎日新聞日経新聞東京新聞産経新聞を購入し、
・どこに
・どんな内容で(見出し文言、記事内容)
・どれくらいのスペースで
を確認したのでその報告を。小見出しと記事抜粋をまとめました。
参考資料として沖縄知事選を振り返る材料になれば幸いです。


東京新聞
※ 10/1(月)朝刊には締切時間の都合かと思いますが結果が掲載されていなかったので、10/2(火)朝刊の内容になります。


<一面> 259cm2
「新基地造らせぬ遺志継ぐ」沖縄県知事に玉城氏  


<三面> 315cm2
沖縄知事戦敗北「首相、地方で不人気」
自民参院選1人区に不安
野党は一本化に弾み


<五面> 222cm2
『社説』 辺野古基地は白紙に


<二十二、二十三面> 1090cm2
『こちら特捜部』
沖縄知事戦やり過ぎ相次ぐ
投票の自由侵害の恐れ
カネと締め付け県民反発
強硬姿勢にNO 安倍一強政権の終わり?


計 1,886cm2


朝日新聞
<一面> 882cm2
辺野古反対玉城氏当選
沖縄知事選佐喜真氏破る 全面支援の政権に打撃
辺野古が唯一」再考の時 那覇総局長・伊東聖


・県民は翁長氏が当選した前回知事選に続き、「辺野古移設」にノーを突き付けた形となった。
・来年の統一地方選参院選の「選挙の顔」として疑問符もつきそうだ。


<二面> 1294cm2
辺野古「ノー」再び
玉城氏、党派色薄め継承前面
政権、工事再開目指す構え
限られる県の対抗策


『時時刻刻
佐喜真氏「経済優先」届かず


本社出口調査
 玉城氏に無党派層70% 基地問題「内閣の姿勢」評価せず64%


『ひと』
ラジオDJから沖縄県知事に 玉城デニーさん(58)


<三面> 258cm2
政権誤算 参院選に暗雲
 首相周辺「3選直後、厳しい」


<十面> 225cm2
『社説』沖縄県知事辺野古ノーの民意を聞け
朝日新聞などが行った県民世論調査では、辺野古への移設は賛成25%、反対50%だったが、基地問題に対する内閣の姿勢を聞く問いでは、「評価する」14%、「評価しない」63%とさらに大きな差がついた。


<三十三面> 1,156cm2
翁長氏の遺志継ぐ
 玉城氏「辺野古阻止」で結束
 「沖縄が一つに」託されたバトン
 ■声聞かぬ政権に反感 ■迷った末に「生活優先」(投票者の声)
 佐喜真氏「国と対話」響かず

 
 県民の危機感示す  江上能義琉球大学名誉教授
 政権、ボールどう返す 遠藤乾北海道大学教授


計 2,933cm2


産経新聞
※ 10/1(月)朝刊には締切時間の都合かと思いますが結果が掲載されていなかったので、10/2(火)朝刊の内容になります。


<一面> 161cm2
沖縄県知事に玉城氏 辺野古反対派


<二面> 202cm2
『主張』
沖縄県知事に玉城氏
国と県の関係性図れ
・国との関係を正常化し、基地負担の軽減を進めていく現実的な立場をとってもらいたい。
・抑止力の維持と基地の安全性の確保を両立させるためには、辺野古移設が唯一現実的な解決策だ。


<五面> 447cm2
『単刀直言』(玉城新知事のインタビュー記事)
基地問題 国側は真摯に協議
将来、自衛隊と米軍と共同しようも


「弔い合戦」無党派共感 242cm2
沖縄県知事選 大差8万票 与党に打撃
・佐喜真陣営は当初、玉城氏を支援する「オール沖縄」の基礎票を約32万票と見込んでいた。これに対して自民、公明両党の基礎票は合わせて約30万票。2万票超を積み増せば勝てるとそろばんをはじいていた。
公明党幹部は1日、こうつぶやいた。「沖縄は完敗だ。沖縄の心に真に寄り添わないといけないということだ。しかし学会があれだけ本気でやって、これほど大敗するとは思わなかった・・・」


計 1,053cm2


【読売新聞】


<一面> 412cm2
沖縄知事に玉城氏 辺野古反対を継承
「承認撤回」無効化今月上旬にも訴訟


<二面> 408cm2
移設問題停滞させるな 那覇支局長 高橋宏平
・在沖縄米軍の抑止力を維持することは不可欠。普天間飛行場は住宅地の中にあり、一刻も早く危険性を除去するには、沿岸部に位置し、受け入れの機運もある辺野古への移設が現実的な方法。
・玉城氏は大局に立ち、政府とともに基地負担方法の軽減実現に向けた方策を探るべきだ。

出口調査
知事選争点「基地」43%、「景気」「教育」も関心


<三面> 816cm2
『スキャナー』
移設混迷深まる 玉城氏当選
辺野古 法廷闘争継続へ
沖縄県庁内にさえ「訴訟になれば県側は勝てない」とする声がある。
・玉城氏は、翁長氏同様、普天間飛行場の移設先について代替案を示していない。


与党痛手 態勢立て直し
・来年夏の参院の前哨戦」と位置付ける向きもあっただけに、党幹部らは落胆の色を隠せない。
・野党にとっては、参院選での野党共闘に弾みがつきそうだ。


計 1,636cm2


毎日新聞
<一面> 529cm2
沖縄知事に辺野古反対派
安倍政権に痛手


<三面> 821cm2
『クローズアップ』
「弔い合戦」が奏功
自公総力戦実らず
・政府は今後も移設計画を進める方針だが、安倍政権の求心力低下も予想される中、先行きは不透明である。
・中堅議員は「来年の参院選を意識せざるを得ず、その時‘安倍政権では苦しい’というムードが強まるかもしれない」ともらす。
・政権が直近の民意に反して移設を進めれば、沖縄だけでなく国内世論に「おごり」批判が高まる可能性もある。


出口調査
「移設」最重視48%


<五面> 206cm2
『社説』 沖縄知事にデニー
再び「辺野古ノー」の重さ
・安倍政権はこの間、民意に刃向かうう形で強引に埋め立て工事を進めてきた。
・問題の核心は、日米安保のメリットは日本全土が受けているのに基地負担は沖縄に集中するという、その極端な不均衡である。
・外交、安保は政府の専権事項だからといって、圧倒的な多数派の本土側が少数派の沖縄に不利益を押し付けるのを民主主義とは言わない。
・問答無用で基地負担をごり押しする手法で状況を動かすことはできない。


<二十四面> 310cm2
平和な沖縄託す
「政府に声届けて」


<二十五面> 922cm2
辺野古再びノー
「翁長さん遺志」県民共
佐喜真さん「争点隠し」失敗


『ミニ論点』
ヤマトンチュへの怒り 仲地博琉球大学
・沖縄に過重な米軍基地負担を押し付けていることを当たり前としてきたヤマトンチュ(本土の人)に対するウチナーンチュ(沖縄の人)の激しい怒りの表れでもある。
米兵が父 熊本博之明星大准教授


計 2,788cm2


日経新聞
※ 10/1(月)朝刊には締切時間の都合かと思いますが結果が掲載されていませんでした。10/2(火)に買い忘れてしまったので未調査


紙面の大きさ順にならべると、


朝日新聞  2,933cm2
毎日新聞  2,788cm2
東京新聞  1,886cm2※
読売新聞  1,636cm2
産経新聞  1,053cm2※


となります。
東京新聞産経新聞は、10/2(火)の記事なので他と比べると1日遅いことは考慮しなくてはならないと思います。他紙と同じ日に発行だったらもっと大きな紙面になったのではないかと思います。


<ポイント1>
朝日新聞は、沖縄タイムス、QAB琉球朝日放送と共同で「沖縄県知事選 開票速報ライブ」という動画配信を選挙当日に行っていました。
(「沖縄県知事選 開票速報ライブ」 https://www.youtube.com/watch?v=dpANbFGiQoc
ここからも相当ちからをいれていたのが分かります。
この力のいれようが=調査の自信になったのでしょう、投票締め切り後20時すぎには朝日新聞は「当確」をだしていました。
NHKが当確を出したのは21:30頃ではなかったでしょうか。地元の沖縄タイムズ、琉球新報もそれくらいだったかと思います。
僕は20時頃からネットやテレビ、ラジオで沖縄県知事選の情報収集をやっていましたが、「朝日新聞が当確をだしている。でも他はどこも出していない。どういうことだ??これは信じられるのか?」と思い、それがますます情報収集意欲を掻き立てたのを覚えています。


<ポイント2>
「社説」でとりあげているのが、朝日新聞毎日新聞東京新聞の三紙。
紙面の大きさにも連動してとても分かりやすい形になっています。三紙は、紙面の大きさの1位、2位、3位です。安倍政権に批判的な三紙は「社説」でとりあげ、肯定的・擁護的な読売新聞、産経新聞はとりあげない。
佐喜真氏が勝っていたら読売新聞、産経新聞はとりあげたでしょうね。朝日新聞毎日新聞東京新聞もとりあげたと思いますが。
しかし、大新聞の読売新聞(皮肉ではなく、ページ数)が、小新聞東京新聞よりも紙面の大きさが下というのは何とも露骨な感じがします。


<ポイント3>
読売新聞、産経新聞に共通していることは「辺野古基地移設が最も現実的な方法」としていることです。辺野古基地移設を容認する人のロジックの鍵の部分を見た感じがします。
また、「基地負担の軽減」、「抑止力」という言葉も共通して使われています。

LACCO TOWER「五人囃子の新時代」@高崎市文化会館(9/8土)

ライヴの醍醐味の一つは、「あ、この曲こんなに良かったんだ」という‘気づき’に出会うことだと思っています。
それがあるライヴを僕は「良いライヴ」と規定していますが、この日のライヴは「良いライヴ」でした。


それは突然やってきました。何曲目でしょうか、キーボードのソロからはじまった「薄荷飴」。
この曲は最新アルバム『若葉ノ頃』収録の曲ですが、音源を聴いているときは‘影の薄い曲’というのが率直な印象でした。ライヴで大化けしていました。
バンド史上初のホールツアー初日だったこの日の会場は高崎市市民文化会館、キャパ700〜800のホールですが、これまでLACCO TOWERが主戦場にしてきたライヴハウスとの違いにも注目していました。
「薄荷飴」の時にその最大の違いの一つに気付くことができました。
照明です。
とにかく照明の懲りようライヴハウスの比ではありません。設備の問題もあるでしょうし、ステージの広さなどもあるのでしょう。その強みを存分に使っていました。
「薄荷飴」は‘和’の雰囲気も感じさせる曲なのですが、それにあわせるように照明も月やもみじ、和紙をモチーフにしたかのような和テイストのもの。それが曲によりはっきりとした輪郭をもたせ、存在感を音源の何倍にも高めていました。
思わず、「あ、曲がふくらんだ」と声にしてしまいました。


その後の流れは、「薄荷飴」がもたらした高揚感を一度も途切れさせない本当に見事なものでした。


「遥」(ギターソロからはじまり、ヴォーカル松川さんのアカペラ)
「雨後晴」
「狂喜乱舞」(ベース塩崎さん&ドラム重田さんのリズム隊協演からなだれ込む)
●●●●(忘れてしまいました。。しかしパフォーマンスは素晴らしかった!)
「火花」
MC
「愛情」
  アンコール
「花束」


最新アルバム『若葉ノ頃』のレコ発ツアーとして行われた初のホールツアー。
この日の高崎市市民文化会館からはじまり、名古屋、大阪、岐阜、東京と続きます。最後の東京の会場は2,000人キャパの昭和女子大学人見記念講堂です。過去にZepp DiverCity Tokyoや品川ステラボールでも単独ライヴをやっているLACCO TOWERですが、昭和女子大学人見記念講堂は過去最大のキャパでの単独ライヴでしょう。しかもホール。
それを端的な言葉で表現した人がいます。ベースの塩崎啓示です。彼はMCで「これは挑戦です」といいました。その含む意味はただ大きい規模で、ホールでライヴをやるということだけではないでしょう。今年16周年を迎えたバンドだけに、もっと幅の広い意味でしょう。
拍手喝采です。
どんどん挑戦してほしい。無責任にいっているわけでなく(いや、無責任ではあるのですが)、僕には確信があります。彼らがこの挑戦に打ち克つことを。
なぜなら彼らの楽曲はもはやライヴハウスで収まるものではなく、もっと広いホールであり、アリーナにも十分対応できるだろうからです。そのことをこの日のホールライヴで確信しました。
以前のライヴハウスでの彼らのライヴで時より感じた曲が発する‘息苦しさ’がこの日はまったくありませんでした。曲が喜んでいた、なんていう言い方はいささか文学的にすぎますが、でも本当にそんな感じを受けました。最新アルバム『若葉ノ頃』(もっといえば前作の『遥』から)は明らかに塩崎さんのいう「挑戦」を前提にした作品です。
いろんな意味で‘広さ’を意識したその作品群。この日のライヴはその作品群が「間違っていなかった」ことを証明するのに十分なものだったと思います。

「緊急事態条項」について


自民党憲法草案第九十九条には「緊急事態条項」についての記述があります。
この条項は、第九条よりも、十三条よりも、二十五条よりも、他のどの条項よりも重要です。
なぜなら、この条項はそれら全ての息の根を止める効力があるからです。
自民党は「本丸は第九条ですよ」のふりをして、この条項を「お試し」としてまず出してくるでしょう。
しかし騙されてはいけません。この条項こそ本丸です。
この条項だけでは絶対に阻止しなければなりません。
以下内田樹さんのツイートです。参考にしてください。


(緊急事態の宣言の効果)

第九十九条 緊急事態の宣言が発せられたとき

は、法律の定めるところにより、内閣は法律

と同一の効力を有する政令を制定することが

できるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支

出その他の処分を行い、地方自治体の長に対

して必要な指示をすることができる。



2 前項の政令の制定及び処分については、法

律の定めるところにより、事後に国会の承認

を得なければならない。



3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何

人も、法律の定めるところにより、当該宣言

に係る事態において国民の生命、身体及び財

産を守るために行われる措置に関して発せら

れる国その他公の機関の指示に従わなければ

ならない。この場合においても、第十四条、

第十八条、第十九条、第二十一条その他の基

本的人権に関する規定は、最大限に尊重され

なければならない。


4 緊急事態の宣言が発せられた場合において

は、法律の定めるところにより、その宣言が

効力を有する期間、衆議院は解散されないも

のとし、両議院の議員の任期及びその選挙期

日の特例を設けることができる。

「知らなかった」では済まされないこと


参議院議員選挙が迫ってきています。


結果次第では「改憲」が議論の最前線にのぼってくることは間違いありません。
自民党公明党の選挙公約でそれがいかに無視されようと。
改憲」の大きな指針になるのが、自民党が2012年に作成した憲法改正草案でしょう。
この代物のヤバさは様々なところで既に語られています。


ここで読むことができるので是非読んでいただきたいです。
自民党支持者の方も、そうでない方も。
https://www.jimin.jp/activity/colum/116667.html


その中でも最初に自民党改憲を狙っているといわれるのが、「緊急事態」条項です。

(緊急事態の宣言の効果)
第九十九条 緊急事態の宣言が発せられたとき
は、法律の定めるところにより、内閣は法律
と同一の効力を有する政令を制定することが
できるほか、内閣総理大臣は財政上必要な支
出その他の処分を行い、地方自治体の長に対
して必要な指示をすることができる。


2 前項の政令の制定及び処分については、法
律の定めるところにより、事後に国会の承認
を得なければならない。


3 緊急事態の宣言が発せられた場合には、何
人も、法律の定めるところにより、当該宣言
に係る事態において国民の生命、身体及び財
産を守るために行われる措置に関して発せら
れる国その他公の機関の指示に従わなければ
ならない。この場合においても、第十四条、
第十八条、第十九条、第二十一条その他の基
本的人権に関する規定は、最大限に尊重され
なければならない。


4 緊急事態の宣言が発せられた場合において
は、法律の定めるところにより、その宣言が
効力を有する期間、衆議院は解散されないも
のとし、両議院の議員の任期及びその選挙期
日の特例を設けることができる。


簡単に言えば、
「内閣が緊急事態と認定した状況において、内閣は法律と同じ効力をもつ政令をつくることができる。そして何人もそれに従わなければならない」
といった感じでしょうか。
内閣のフリーハンドを認める条項です。
この条項の判断はさまざまあるのでしょうが、僕は大反対です。
その理由の最大のものは、この条項(他の条項もですが)が、筋の悪い人たちが考え、仮に制定されたらそんな筋の悪い人たちへフリーハンドを与える可能性のあるものだからです。


筋の悪い人たち例

国民の生活が大事なんて政治はですね、私は間違ってると思います。今私たちが生きているのは、私たちの今の生活が大切なんじゃんくて先人から引き継いできた・・・世界中で日本だけが、同義大国を目指す資格があるんです。」



(14:30頃〜)
安倍内閣法務大臣を務めさせていただきました長勢甚遠でございます。民主党政権のでたらめ・・・・戦後レジーム、敗戦体制もいよいよここまで来たか、それの象徴が民主党政権だと思います。安倍総理戦後レジームから脱却と言われたときに、私も感銘を受けて一緒に行動してきました。・・・・・・国民主権基本的人権、平和主義、この三つはマッカーサーが押し付けた戦後レジームそのもの、この三つをなくさないと本当の自主憲法にならないんですよ


こういう人たちが緊急事態条項をどのように使うのか。それを想像しただけで怖いです。


なお、現在の安倍内閣の閣僚24人中、21人が所属している「日本会議」の最大の目的のひとつは「緊急事態条項の創設」だそうです。
(「日本会議の研究」菅野完 扶桑社新書


与党を支持するか、しないかは別にして一度は自民党憲法草案は是非読んでいただきたいです。
選挙後に「知らなかった」では済まされません。

分けられるはずないじゃないか

今年のフジロックでSEALDsの奥田愛基さんが出演することが発表されてから、「音楽に政治を持ち込むな」とか何とか話題になっているようです。
詳細は以下の朝日デジタルより。

音楽に政治を持ち込むな――。今年のフジロック・フェスティバルに学生団体「SEALDs(シールズ)」の奥田愛基(あき)さんの出演が決まると、こんな言葉がネット上にあふれた。何が問題なのだろう?


 7月22日から3日間、新潟県湯沢町の苗場スキー場で開催されるフジロック。17日に主催者が追加アーティストとして安保関連法に反対する活動で注目されたシールズの奥田さんを発表すると、たちまち、「音楽の政治利用だ」「思想の持ち込みは勘弁」「最近フジロックが妙に政治色をおびている」などとSNS上で反発の声が並んだ。ツイッターでも「#音楽に政治を持ち込むなよ」という共通の話題をつなぐハッシュタグ(検索ワード)ができ、批判が相次いだ。


 これらに対し、ミュージシャンらからは反論の声が上がった。ロックバンド「アジアン・カンフー・ジェネレーション」の後藤正文さんはツイッターで「フジロックのこと知らない人が言ってるよね」とした上で、「これまでいくつものNGOやアーティストがさまざまな主張をステージで繰り返してきたわけだし」。脳科学者の茂木健一郎さんも「フジロックで、政治を持ち込むな、というニュースを見たけど、政治的な主張を含む音楽はかつてもあったし、今後もあるだろうから、自由でいいんじゃない?」とつぶやいた。


 ログイン前の続きフジロックの始まりは1997年。いま各地で開かれる大規模音楽イベントの先駆け的な存在で、昨年の観客動員は延べ約11万5千人。20回目の今年はこれまでに195組のアーティストらの出演が発表されている。大小約15のステージがあり、来場者は思い思いにライブやトークショーを楽しめる。2011年以降、反核脱原発を訴える「アトミックカフェ」を設け、反戦原発問題に関するイベントもしてきた。そのアトミックカフェで、奥田さんはジャーナリストの津田大介さんらと「参院選を振り返る。安保法制、沖縄、憲法原発」をテーマに対談する予定だ。


 津田さんは12年から毎年アトミックカフェの司会役を務めているが、昨年まで批判の声はほぼ見当たらなかった。音楽家に限らず、反原発キャラクター「もんじゅ君」や、ジャーナリストの田原総一朗さんが出演したこともある。津田さんは「僕らが出演するアヴァロンというステージには、昔から音楽と社会問題を結びつけるトークプログラムがあるんです。それを知らない人が多い印象」と分析する。「音楽家でもないのに、と誤解してたたいている人すらいる。現政権に批判的な立場の人間がフジロックのような有名なイベントに出ることを面白く思わない層が、『音楽に政治を持ち込むな』という理屈を付けてたたいているのかもしれない」と話した。


 ネット上には「純粋に音楽を楽しみたいだけ」との声も上がり、日常から離れる娯楽イベントとして足を運ぶ人も少なくない。


 ただ、1969年夏、米国で約40万人が参加し、野外フェスの「原点」とも言われる「ウッドストック」は、ベトナム戦争に反対する若者のカウンターカルチャーの象徴とされた。同じ年に岐阜県で開かれた「全日本フォークジャンボリー」でも、フォーク歌手らが平和や反戦を歌い上げ、日本全国から若者が集まった。フジロックに計7回出演し「フジの顔」とも言われた故・忌野清志郎さんは反原発ソング「サマータイム・ブルース」などで、政治的なメッセージを発信してきた。


 今回の騒動について、音楽評論家の萩原健太さんは「音楽に限らず大衆文化というものは、映画であれ小説であれ、すべて反骨精神のもとに、権力に対するアンチテーゼという側面を持って成り立っているとも考える」と語る。


 ラジオのDJでもあるピーター・バラカンさんは、フジロックで政治的・社会的な事柄を扱うことに、「大いにやるべきだと思う。アトミックカフェは毎年やっているから目くじら立てることもない」と言う。自身も、ラジオで世間で起こっていることに関する曲や映画を紹介すると文句を言われた体験がある。「今の日本の社会の息苦しさは、健全なことではない」と話す。(小峰健二、藤崎昭子)



朝日デジタル 6/22
http://digital.asahi.com/articles/ASJ6Q55WPJ6QUCLV00W.html?rm=550


僕は基本的にこの記事中のみなさんのコメントと同じ思いをもちます。
「音楽に政治を持ち込むな」
なんていう言葉には、「何を言っているのだろうか?」といった感じです。


ただそれは「昔から音楽は政治を歌ってきた」とか、「フジロックはこれまでも政治的なものも取り上げてきた」とか、そういった直接的なことのみが理由ではありません。
もっとシンプルに、
「音楽と政治は可分なはずないじゃないか」
ということです。
個人が生きるにあたって、自分の趣味趣向、心地よい考え、嫌いな考え、好きな環境、嫌な態度、、、、、、、、そんな無数の「好き」「嫌い」を基準にして物事を選択しています。
それがあくまで基準です。
それを元に、こういう音楽が好き、こういう本が好き、こういう人が好き、こういう家が好き、こういう映画が好きとこれまた無数の選択があるわけです。そしてその中に当然政治についての選択もあるわけです。こういう考えが好き、嫌い、こういう政策が好き、嫌い、といった形で。
それらは「The Beatlesは好きだけど、Bob Dylanは嫌い」と何ら変わることのない一つの選択です。(僕は両方好きですけど笑)
ただそれだけです。
個人がいて、個人を中心とすれば、音楽と政治が結びつかないはずがない。
それは個人の選択の一つ一つとして当然存在しているものだからです。

ことさら、音楽と政治、フジロックと政治の直接的な関係を語るまでもなく、個人として生きていればそれらが繋がっているのは当然なことです。

最期にこのことを端的に表現した言葉で締めたいと思います。

「音楽に政治を持ち込むな」と主張している人たちは、あらゆる人間の営為(恋愛、友情、祈り、嘆き、感謝、生活、歓喜、憎悪、怒り、皮肉、政治、旅などなど)を包摂する芸術である音楽から、特定の要素だけを排除できると考えている点でアタマがおかしいと思うんだが。
小田嶋隆 ‏@tako_ashi · 6月19日  ツイッターより
https://twitter.com/tako_ashi/status/744557165407408128

(久しぶりの更新で画像のUPがよくわからなくなったのでベタうちで笑)

フリーマガジン完成


この半年ほど、個人でフリーマガジンを作っていました。
本の名称は『ARTIFE』(アータイフ)といいます。アーティフではありません(笑)。
当初の発行予定よりも遅れてしまったのですが、何とか完成させることができました。



テーマは「芸術」です。
といっても僕は芸術活動をしていないので、様々な芸術家の方々に写真作品や絵画などを提供していただき、芸術に関わっている方々へインタビューをさせていただき、「芸術」に関する断片を集めることで一冊の本にしました。サイズはB5で、44ページです。


<提供していただいた作品>
・望月柚花さんの写真作品(http://momo11731.wix.com/yukamochizuki
・なかのひろかさんの動物の絵画
・工房あかねさんの絵画(http://www.geocities.jp/studioakane/


<インタビューにご協力いただいた方々>
・the place : f-ritz art centerの小見さん(http://theplace1985.com/
 前橋市に「シネマまえばし」を作られた方です。本、絵本、お花などを売っているお店のオーナーさん


・パレ・デ・パリのフレデリックさん&須藤さん(http://palaisdesparis.org/index.php/jp
 パレ・デ・パリ = 海外アーティストを招聘する機関。高崎市で2ヶ月ほど海外アーティストが滞在させ、制作を行うことを支援しています。


シネマテークたかさきの小林支配人(http://takasaki-cc.jp/
 高崎市が誇る映画館。いわゆる、ミニシアター系です。この映画館がなかったら高崎市はキビシイ。


・ふやふや堂齋藤さん(http://fuyafuya.jp/
 月曜日だけ開店している本屋さん。普段はデザイン会社で、齋藤さんはデザイナー社長。


この他に僕がいくつか文章を書いています。
下記が発行文です。

「複雑なものを複雑に」


なぜ今、芸術か。


芸術は、時間やお金に余裕がある人や、芸術的センスがある人のためのものではなく、全ての人のものであり、全ての人が触れるべきものだと僕は思います。それは芸術が、「人生を豊かにするもの」という人生の味付け的なものではなく、「生きるにあたって必要なもの」であると考えるからです。


芸術は「社会の複雑さ」を教えてくれます。映画でも音楽でも、それを体験することで人は自分の「好き」「嫌い」を知ることができます。さらに「好き」の中にも、「すごく好き」「まあまあ好き」や「大嫌い」「ちょっと嫌い」などのグラデーションがあることにも気付かせてくれます。その結果、芸術に触れれば触れるほど、自分の複雑性に気づくことになります。そして重要なことは、それが自分だけでなく他の人も同様である、ということを芸術は教えてくれることです。自分も複雑であり、他人も複雑である。それは、人の総体である社会が白と黒で分けられる単純なものではないことを意味しています。
しかし現在の日本社会を「複雑なもの」として扱われているでしょうか? 僕には「複雑な社会を単純な社会」として扱おうとしているように感じられてしょうがありません。特に近年その傾向が顕著だと感じていますが、そのような「歪な社会」は何かを隠蔽し、何かを無視し、何かを見ないふりします。既にその弊害が様々なところで表れてはいないでしょうか。


「読書は,人生の全てが,決して単純でないことを教えてくれました。私たちは,複雑さに耐えて生きていかなければならないということ。人と人との関係においても。国と国との関係においても。」


これは美智子皇后の言葉です。(第26回IBBYニューデリー大会1998年)僕はこの言葉に同意します。そしてこの「読書」を「芸術」に替えてみることで、より広く考えてみたいと思います。


「複雑なものを複雑に」。そのことを「芸術に触れること」からもう一度見直してみたい。その思いからこの冊子を作りました。この冊子が芸術に触れるきっかけになってもらえれば、そう願っています。


少しでも、音楽、映画、本、写真、絵画などに触れる人が増えたら嬉しいですね。
文字をもっと大きくすればよかった、と反省。


送料をご負担していただく形になりますが、もし興味ある方がいらっしゃいましたらお送りします。


artife2015○gmail.com
(○をアットマークに)


までご連絡いただけましたらと思います。
よろしくお願いします。

浮く言葉

本日、安倍談話といわれるものが発表されました。
18:00からの発表がはじまるとのことで、テレビで観ていました。
テレビ朝日で観ていたのですが、途中でCMが入ったりしたのでNHKに切り替えました。
局で内容がかわったら面白いですね。


正直内容には興味ありませんでした。
先月、今月の政府を取り巻く状況を考えてもチャレンジするような内容にはならないだろうし、だいたい予想がつくものだったからです。
実際に聞いてみて驚きもなかったですし、「こんなもんでしょ」という感じでした。
現在の安倍内閣の状況において、「反省」や「お詫び」をいれないことなんて有り得ないと思っていましたし。その意味でこの談話は国内向きのものなのだろうと僕は考えていました。
特に談話で中国、韓国と関係改善をしようなどとは思っていないでしょうし(何言っても文句いうだろ、という感じでしょう)、唯一アメリカを怒らせないようにしようというくらいの外への気持ちだったのだと思います。
安保法制が政府にとってスムースにいっていたら、もっと尖ったものになっていたでしょうが、彼らにとって最悪の状況にある現在において鋭利さを出すわけにはいかない、という判断は当然のことだと思います。だから、発表された談話のように、ツギハギだらけの総花的内容になったのでしょう。
フジテレビに出演して安保法制の説明をしたときに、「支持率なんて関係ない」的な発言をしていた安倍氏ですが、彼が気にするという日本テレビでも、NHKでも支持率が下落し、不支持率が大幅上昇する状況は気になっているのだと思います。
僕には今回の談話はそれを念頭において出されるものと思っていましたので、やんわりした内容になるのだろうと想像がついていました。
まあ、「お詫び」に言及しつつ、


「我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫(わ)びの気持ちを表明してきました。」
http://www.asahi.com/articles/ASH8G5W9YH8GUTFK00T.html


と、「自分がお詫びする」ことを回避しているので、ごまかしているわけですが。



僕が注目していたのは、
「どれだけ言葉が浮くのか」
ということでした。


「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」(2013年4月23日、参院予算委)。


と2年前に「侵略」を否定するかのような発言をした安倍氏が、「反省」と「お詫び」を表明する言葉はどれほど浮くのだろうか。
(浮かないだろう、という考えは端からありませんでした)
それを感じたいと思っていました。
結果からいえば、浮きまくりでしたね。


言葉で大事なのは、その内容ではありません。その言葉が発せられるマナーであり、発言者にあります。
発言者が信用ならん人だったり、発言時の態度が悪かったら、どんなに良いことを言ったとしても、その言葉は信用されません。
浮気ばかりしている人に「愛してる」と言われても信用しないでしょ?
それは「愛してる」という言葉自体の信用性ではなく、発言者の信用性の問題です。
それと同様、いくら「反省」をしても、「お詫び」をしても、その言葉を発する者に信用がなければ、その言葉は浮く、のです。
だから談話の言葉自体を検証することより前にすることは、「安倍氏は信用できるか?」ということであるべきだと僕は思います。
発言者は信用できるのか?ということです。
そのリトマス試験紙となるのがさきほど書いた「侵略の定義は定まっていません」という2年前の発言です。
その発言はすでに過去のものとなったのか、それとも現在進行形として人々の頭の中にあるのか、ということです。
この2年間で安倍氏はその言葉を過去のものとすることができたのか。
残念ながら過去のものとはなっていないと僕は思います。いまなお、その言葉は生きている。
安倍氏は心の中では侵略の定義は決まっていない=日本の侵略をごまかしたい」
と思っているのだろう、と多くの人は思っているのはないでしょうか。
いくらその言葉を否定しようが、彼、彼を取り巻く人間のここ2年の言動はその言葉を強化させているものと僕は思っています。
そのような人間がいくら「反省」や「お詫び」を表明しても、空々しいものになるのは当然です。
僕からすれば「何いってんの」と冷笑レベルです。
安倍氏というのは言葉を道具としか思っていないようで、「良い言葉」を使えば事が足りると思っているようですね。
その象徴が特定秘密保護法が成立したあとの、


「私自身がもっと丁寧に時間をとって説明すべきだったと反省もしている」
http://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000017646.html


こんな言葉を聞いて「安倍さんは反省しているんだ」と思うオメデタイ人はいないでしょう。むしろ、「アホか」と思うのが関の山ですが、安倍氏はそれまでの自分の言動とこの言葉に纏わりつく関係性を全く想定できないようで、平気で使いました。
「とりあえず反省しているって言っとけばいいんでしょ」
という思いがありありです。
これは言葉を道具としかみていない人の典型的態度です。
人間は言葉を使う存在ではなく、言葉の檻に閉じ込められている存在です。
自分の知っている言葉でしか物事を考えられないですし、他人に物事を伝えることができません。
「ヤバイ」しか知らない人は、良いものに対しても、悪いものに対しても、素敵なものに対しても、何でも「ヤバイ」としか表現できません。
「ヤバイ」でしか思考できない人の考えが深度をもつことはありません。
言葉を使っているようで、言葉の檻の中でしか人間は生きることができません。
そのことに謙虚になるべきですが、安倍氏は言葉に対して自分が主人と思っているようで、道具としてそれを使うことでいくらでも自分の思い通りになると思っているようです。
その傲慢さがここ2年の間彼の言動から表れていて、彼の信用性を大きく損なっているのだと僕は思います。
今回の談話も、「こういっておけばいいんでしょ」という、言葉を道具として使う態度の上に成り立っていました。
そんな言葉が浮くのは当然のことなのです。