‘祈る’こと

‘祈る’ことについてここ1年程考えています。


原発と祈り 価値観再生道場」内田樹×名越康文×橋口いくよ著
http://www.mediafactory.co.jp/c000051/archives/029/003/29355.html
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この本を読んでからです。
この本の中で橋口いくよさんが
福島第一原子力発電所の事故以降、事故を起こした原発に対して、
 そこで働く作業員の方に対して毎日祈っている」
といったことを話されていました。
この話を読むまで僕は‘祈り’に対しほとんど考えたことがありませんでした。
「神様に祈る」とか「仏様に祈る」とか、そんな5歳くらいから何の変化もないような
状態でした。
橋口さんの‘祈り’についての話を読んで、
なんだか無視してはいけないもの、のように感じました。
5歳程度の祈り観しか持っていない状態でしたが、
確かにそれを感じました。
なぜに無視してはいけないと思ったのか、それは今もって言葉にすることはできません。
ただ、過去の経験から、
「何だかわからないものでも無視してはいけない、と感じたならば、
そのことを頭に入れておくこと。考えること。何か関係ありそうなことに出会ったら、すぐに引っ張り出せるようにしておくこと」
を大事にしているので、それに当てはめて、‘祈り’についてしっかり認識しよう、と思いました。


それから‘祈り’を実践するようになりました。
ただ、実践するといっても5歳児です。
「神様に祈る」とか「仏様に祈る」方法しか知りません。
それでもそこから始めることにしました。
橋口さんの真似をして、原発について、作業員の方についてから始め、
段々他の人や、身近で困っている人に祈るようになりました。
それでも依然’祈り’そのものについては手探りです。
そもそも「正しい祈り」などあるはずもない、というのが最初からあったので、
自分で自分の‘祈り’を獲得すること、それには手探りでじわじわ進むしかない、
と思っていました。
「神様に祈る」とか「仏様に祈る」から始めたわけですが、
すぐにそのことに疑問を持つ様になりました。
「神様、仏様に祈って何かかわるのか?」という至極ありふれたな疑問です。
もしかしたら何かかわるのかもしれないけど、
どうにも実感できないし、自分の‘祈り’をそこに置いておくことにしっくりきませんでした。
ただ‘祈り’そのものは依然気になるし、太古から行われている‘祈り’にはとても強い力が
あるはずだ、という確信に至るまでになっていたので、
‘祈り’そのものを考え続けました。


そんな状態が続いていた中で、
一つの方向性が見えてきました。
それは、そのまでの‘祈り’が根本から崩れるような方向転換でした。
それまで‘祈る’ことを
「祈られる対象者を助けること」
という観点から捉えていましたが、(それによってありふれた疑問に直面していたのですが)
そもそもその前提が袋小路に誘っていたのではないか。
‘祈る’ことにそんな直接的な力を求めること自体がお門違いで、
‘祈る’ことの本質は間接的な幾重にも絡み合ったその先に現出する力にあるのではないか。
といった方向転換でした。
直接的な力から、間接的な力への転換。
その方向転換後、僕の‘祈り’は、
祈られる対象者を助けることから、
祈られる対象者に寄り添うこと、その人の苦しみを自分の苦しみとして感じることによって、
まったく見ず知らずの第三者を助けること、に変化しました。
何だかわかりづらい理路なので説明を加えます。


‘祈る’ことでその対象を直接的に助けることはできないのではないか、
という疑問から、
‘祈る’ことで助けるのはその対象ではなく第三者である
という仮説を思いつきました。
その仮説を到着点とした時、
「祈られる対象者を助けてもらえるように神様に祈る」
ということはまったく無意味であることになり、そんな直接的な力を求めるのではなく、
ただ「祈られる対象者の苦しみに寄り添うこと」を実践し、その結果
「祈られる対象者の苦しみを自分のものとして感じることができるようになる」
という経路を経て、
「人の苦しみを自分のものとして感じることができる自分を使い、
 第三者に優しく、その人のことを考えられるようになる」
のではないかという道を想定しました。
換言すれば、
祈られる対象が、祈る本人を昇華させ、その人が第三者を優しさや慈愛でもって助けるという経路であり、
結果として祈られる対象が第三者を助けることとなる。
つまりは‘祈り’とは、祈られる対象から祈る本人を通じた第三者への贈り物である、
ということです。
「‘祈る’ことで助けるのはその対象ではなく第三者である」
という仮説から逆算してこの理路を導き出したわけですが、
自分にはこの理路がとてもしっくりきて、心が満たされた思いがしました。
祈る人がいて、祈られる人がいて、そこに直接関係のない人々が労わられ、助けられる。
そしてそれは、祈られる人から第三者への祈る人を通しての贈り物と言えるのではないでしょうか。
‘祈り’という行為を使って届けられる贈り物。
その贈り物が社会がより生きやすいものにするのかもしれない、と今夢想しています。


僕が今もつ‘祈り’は、
本来助けられるべき祈りの対象となる人を助けることができない頼りない‘祈り’です。
そもそもこれは‘祈り’ではないのかもしれませんが、
先述のとおり、「正しい祈り」は存在しない、と僕は考えています。
これが正しいとも間違ってるとも思いません。
‘祈り’とはそういう次元で語られるべきものではなく、
いかに人を助け、社会を生きやすいものにできるかに繋がる個別の実践である。
僕はそんな風に考えます。