定常型社会×死生観

定常型社会―新しい「豊かさ」の構想 (岩波新書)

定常型社会―新しい「豊かさ」の構想 (岩波新書)


友人と話している中で、『 定常型社会―新しい「豊かさ」の構想』に関して、
レポートを書こうということになり書いたものです。


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定常型社会×死生観


「死生観」を取り上げる時点で、とても個人的な内容になることは確実です。
なので、当然社会に対しての‘処方箋’的なものになるはずもなく、随筆のような個人的なものになると思います。



「「(経済)成長」ということを絶対的な目標としなくとも充分な豊かさが実現されていく社会ということであり、「ゼロ成長」社会といってもよい」
と広井さんは『定常型社会 新しい「豊かさ」の構想』(はじめに i)の中で定義されています。
私はこのような社会を「お金に過重な価値をおかない社会」と捉えていますが、
私はこのような社会を支持します。ただ、「こういう社会にしなくては!」といった前のめりな支持とは少し違うかもしれません。
「こうに考えた方が生きやすいから支持する」といった支持の仕方です。



次の数字から今後の社会がどのようなものになるか想像してみます。


【日本のGDP
2000年:474,847  2011年:507,916
単位:10億円
http://ecodb.net/country/JP/imf_gdp.html


【日本のサラリーマン平均年収】
2000年:461 2011年:409
単位:万円
http://nensyu-labo.com/heikin_suii.htm


単純に思うことは
GDPは上がっているけど、給料は下がっている」
ということです。
国全体としては経済的に豊かになっているけど、個人では経済的に以前より豊かでない人が増えている、とも言えます。
これが意味するもので真っ先に思いつくのが、
「富が全体にではなく、特定の人のところに集まっているのではないか」
ということです。
これはすでに「格差社会」として前景化していることですが、
この行き着く先がユニクロ社長のおっしゃるところの
「年収1億円の人と年収100万円の人」の社会なのかもしれません。
この流れは恐らく止まることはないだろうと思います。
この流れを促進させるTPPや、‘グローバル企業’の世間での持てはやされ方を見るとそう思ってしまいます。



そんな状況の中でどのように生きて行くことができるのか、
ということを考えた時、大きくわけて2つの道がありそうです。


1、 めちゃめちゃお金を稼ぐ
2、 お金がそれほどなくても維持、継続できる生活を形成する


1のお金をめちゃめちゃ稼ぐことは上記の様な社会ではとても有効な生活手段だと思います。「年収1億円の人と年収100万円の人」の社会では、
お金によるサービス、物、事について、それを出来る人、出来ない人の明確な線引きが嫌がおうにも目立つようになること、それに引きずられる形での、お金がそれほどない人の存在が前提の「お金がほしい!」という欲望が極めて高くなることによって、お金に対する価値(お金の価値、ではありません)は高いものになることが推測されるからです。
お金をたくさん持つことでの優位性が増すものと思われます。
ただ、私個人のことで言えば、まずお金をたくさん稼ぐ能力がないですし、
それを「是」とする精神がないことにより、
1、 お金をめちゃめちゃ稼ぐ
を選択できないし、することはありません。
よって自然と
2、 お金がそれほどなくても維持、継続できる生活を形成する
の方を選択することになります。
ユニクロ社長曰く「100万円の人」になり、さらに彼曰く「die」の方向です(笑)。


実際私はこの方向での現在、今後の生活を考えています。
そして、そのように考える時、「定常型社会」という考え方に自然と馴染むことができることを実感します。
お金のみに過重な価値をおかずに、それ以外のものも有効に使い心地良い社会を作って行くという「定常型社会」を私が支持する理由はそこにあります。
お金に過重な価値をおいてお金がない状態よりも、
お金に過重な価値を置かずにお金がない状態の方が生きやすいといった単純なものです(笑)。



さて、それでは実際にお金に過重な価値を置かずに生きるには、
どのようなことが必要なのでしょうか。
そもそもお金はなぜ必要なのか、といったことを考えてみたいと思います。
なぜにお金が必要なのか?という問いに対しては、様々な回答があることは明白です。


「欲しいものを買いたいから」
「家、車のローンに必要」
「子供の教育のため」
「税金のため」
「医療のため」
「美味しいものを食べたいから」
「旅行したいから」


などなど、別段考える必要もなく思いつきます。
人によっては上記全てに当てはまる人もいるでしょうし、
人によっては1つだけしかあてはまらないかもしれません。
お金の使い方に正解があるはずもなく、人それぞれ自由なので、
どうに使おうが結構ですが、「なぜにお金が必要なのか?」という問いに対して、選択方式だったら恐らくほぼ全ての人が選ぶであろう回答があります。
それは
「老後のため」
です。
「果たしてどんなことが起こるのかわからない」という「老後」がもつ広範囲に及ぶ不明瞭性が、ほぼ全ての人に当てはまるその要因だということは確かではないでしょうか。
そして、お金が必要だと思う最大の理由こそ、将来の不明瞭さの象徴でもあるこの「老後のため」だと思うのです。
なぜなら繰り返しますが「老後」は不明瞭だからです。
「老後」は不明瞭から発生する不安で覆われているが故、現在も有効で将来も有効であろう普遍的と思われる価値を探した際に見つかるものについて過重な価値を感じるということは容易に想像できます。もちろんその普遍的と思われる価値は、お金です。
お金さえあれば不明瞭な「老後」も何とかなる。
その信憑性が、お金への過重な価値を生む大きな要員になっているのではないか、と私は考えます。
逆に言えば、不明瞭な「老後」が、お金への過重な価値を持つことを強要している、とも言えるかもしれません。
そして、当然でありながら重要なことは、その「老後」には、「死へ向かう過程、そして死」も含まれる、ということです。
さらに言えば、そこに核心がある、ということです。


「老後」「死」が明瞭になれば、お金への過重な価値を持つことを強要されるものの1つから(そして恐らく最強のものから)逃れることができる。


そんな仮説を立ててみます。
しかし「老後」を、「死」を明瞭にする、ということがどのようなものであるか、自分でもよく分かりません。
「老後」を明瞭にする、というのは、「老後」に何が起きるか知る、という意味が一番しっくりきますが、そんなものわかるはずもありません。
そこを求めたら永遠にお金への過重な価値を持つことの強要から抜け出せないので、とりあえず置いておきます。
「死」を明瞭にする、を考えます。
まあ、これもよくわかりませんが(笑)、「不明瞭」をはっきりしないので何だか恐い、という意味で考えるなら、「明瞭」はその反対なので、はっきりするので安心できる、となります。
それを使うと、「死」を明瞭にする、とは、
「死」をはっきりさせ安心できるようにする
となります。
依然としてよくわかりませんが(笑)、「死」を安心なものにする、わけです。
言葉を換えれば「死を受け入れる」と言えるかもしれません。
しかし、いきなりそんなことを言われても宗教者でもない私には飲み込むことはできませんが、ただ自分をそう考えることができるように誘導することを試みることはできそうです。
その支えになりそうな文章があります。
幕末の時代に生きた吉田松陰さんの言葉です。(現代語訳)


「十歳にして死する者は十年の中で四時あり。二十は二十の四時、三十は三十の四時あり。五十、百はおのずから五十、百の四時あり。十歳という一生を短いとするのは、短命のセミ(の成虫)が不老不死の霊木になろうとすることと同じであり、百歳という一生を長いとするのは、不老不死の霊木がセミになろうとするようなもの。いずれも天命に背く」
『ひとすじの螢火 吉田松陰 人とことば』関厚夫 文春新書 P450


「四時」とは春夏秋冬を意味します。
要約すれば、
十歳で死んでも百歳で死んでもそれらの人生にはそれぞれ春夏秋冬がある。短いも長いもない。
ということだと思います。
私にはこの物言いがとても馴染みます。
人生の春夏秋冬。文学的な美しさもありますが、人生そのものを包み込む美しさもこの言葉にはあるように感じます。
私の父は68歳で亡くなりました。日本人男性の平均寿命からみれば10歳以上も短く、誰もが「早すぎる」と言いました。
私はその時、吉田松陰さんの言葉を思い出しました。そうしたら何だか父の「早い死」を受け入れることができるように思えました。父の春夏秋冬がそこにあった、そのことで充分だと思えました。
「死を受け入れる」には‘美しい物語’が必要だと私は思います。
恐らくそれは人それぞれ違うものです。私にとっては、吉田松陰さんの言葉が‘美しい物語’になりました。
この言葉により私は「死を受け入れる」ことの方向へ進むことができるように思います。
いつ死んでもいい、などと達観することはできません。
ただ、「死ぬ時、自分の人生が春夏秋冬に彩られ、四季を編み終わるのだ」
そう思うと、「死」そのものが自分の人生に必要なものであると、
身に沁み入るように感じられます。



「死を受け入れる」を実践するならば、
どこまで医療を受けるか、何を食べるかなど具体的なことを考えなければなりません。それは「死を受け入れる」という理念とはかけ離れた、対極にあるような実際的なことです。そこで「そうはいっても現実はねえ。。。」などと言わずに、実際的なものの上位に理念を置くことを考え、それこそがお金に過重な価値を置かない実践になるのではないか、と思います。
そして、それがお金に過重に価値を置くことの強要から自分を解放させることになるのではないか、と夢想します。
「死」という究極の不明瞭を明瞭に変えることができた時、
「死」に対する必要としない恐れからも解き放たれます。
「死」が明瞭になる、とは、「死」に対してお金以外のもので
(それは人それぞれですが)対応できる、ということを意味します。
お金に過重に価値を置くことの強要からの解放です。
その強要からの解放によって、先述の
「お金がそれほどなくても維持、継続できる生活を形成する」
ことは実行できるのだと思っています。
「お金、お金」と言わずとも生きて行くことができるのだと思います。
私はそのような生き方を心地良く感じます。
その心地良さに寄り添う考え方は、「成長型社会」ではなく「定常型社会」であることは間違いありません。




最後に


「私たちは生それ自体のなかで生を味わうことはできない。死を背景として、はじめて生を味わうことができる。死と生との全体的な構造の上に立って、はじめて生命の充実感と、その秘密に参与することができるのだ」
『人間・この劇的なるもの』福田恆存 新潮文庫 P156