今日の一冊〜『真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書』


木村久夫さんは、太平洋戦争時にカーニコバル島に駐留し、現地で終戦を迎えた学徒兵です。その後日本に帰ることはありませんでした。戦争が終わる間際に起こった現地人殺害事件の首謀者のひとりとして、絞首刑に処されたからです。B級戦犯として処されました。享年28歳。
1949年に初めて出版され、82年に岩波文庫に収録された『きけ わだつみの声』(岩波文庫)に木村さんの遺書は掲載されています。数々の方の遺書が掲載されている同本の中でも、木村さんのそれは異彩を放つものとして認識されていきたそうです。その遺書が実は二通あった、という記事を東京新聞が4月29日に一面で掲載しました。スクープでした。
 この本はこれまで一般に知られていた遺書と、東京新聞の調査で新たに発見された遺書が掲載されているものです。東京新聞の調査の過程で『きけ わだつみの声』に掲載されているこれまで知られていた遺書は、哲学者・田辺元氏の『哲学通論』の余白に書かれていたものと、今回陽の目を見た新たなものとをくっつけた‘合作’であることが分かりました。当然両方とも木村さんが書かれたものなので、これまでの遺書に嘘偽りがある、というわけではありません。ただ、『哲学通論』の余白に書かれていた遺書と、今回発見された遺書(父親宛てたものです)、そしてそれらを合わせた『きけ わだつみの声』に掲載されている既知の遺書とは趣きを異にする雰囲気が漂っています。それぞれの特徴を記すと、


1 『哲学通論』余白に書かれた遺書 ⇒ 激烈
2 父親宛ての新たに発見された遺書(原稿用紙) ⇒ 家族のことを思う優しさ
3 『きけ わだつみの声』に掲載されている既知の遺書 ⇒ 理路整然とした融和的


といった感じでしょうか。
1 にあって、3では削除されていたものを読むと違いがよく分かると思います。

「日本の軍人、ことに陸軍の軍人は、私たちの予測していた通り、やはり国を亡ぼしたやつであり、すべての虚飾を取り去れば、我欲そのもののほかは何ものでもなかった。」


「大東亜戦以前の陸海軍人の態度を見ても容易に想像されるところであった。陸軍軍人は、あまりに俗世に乗り出しすぎた。彼らの常々の広言にもかかわらず、彼らは最も賎しい世俗の権化となっていたのである。それが終戦後、明瞭に現れてきた。生、物に吸着下のは陸軍軍人であった。」


「この(見るに堪えない)軍人を代表するものとして東条(英機)元首相がある。さらに彼の終戦においての自殺(未遂)は何たることか、無責任なること甚だしい。これが日本軍人のすべてであるのだ。」


P84〜87より


これらは一部ですが、極めて激烈な日本軍人・日本軍部批判です。
自分の絞首刑が既に決定されていた状況で書かれたものなので、自分をそんな状況においやった日本軍人・軍部に対する憤りを全てぶちまけているような印象を受けます。
木村さんは激しい性格を有していたようです。学生時代の担任・八波氏がこのように振り返っています。

「潔癖すぎるほど好き嫌いがはっきりしていた。好きなものは真一文字に打ち込むが、きらいな学科や先生は徹底的に毛ぎらいする。権威主義が大嫌いで、威張る先生、ヒューマニスティックでない教師をきらいぬいた。授業にもでない、白紙答案を出す」
P107より


先生からすればかなり扱いにくい、友達からしてもちょっと変わった人だったのかもしれません。なので、日本軍人・軍部に対しても極めて辛辣です。彼が嫌う要素がそこには充分すぎるほどあったからです。権威主義で、威張ってて、ヒューマニスティックでない日本軍人・軍部。
その激烈な性格によって書かれているもの全てを全て受け入れることには、一端立ち止まる必要があることを自覚しなくてはなりませんが、このような日本軍人を間近にみていた木村さんにとっては、その性格如何に関わらず日本軍人・軍部を強烈に批判することは当然のことだったものと思います。すなわち、木村さんが絞首刑判決を受けた事件において、嘘の供述をして無罪となった参謀・斎藤海蔵氏です。この人は、木村さんたちの上官であり、現地人殺害事件の責任者でありながら、法廷で無言を貫き無罪判決を受けました。戦後日本で木村さんの二十三回忌に斎藤氏が現れたという話が掲載されています。

本堂に上がると、斎藤は木村の母斐野の前で正座して深く頭を垂れ、「ご苦労かけました末、大変なことになりまして、みんな私がいたらんためでございまして、まことに申し訳ありません」とわびた。手が震えていた。
「戦争終わってね、裁判になって、なぜ一言ね、おっしゃっていただけなかったか。『責任は私にある』と言ってくだすって無罪でお帰りになるなら、私たちは納得しますよ。木村君が死ぬまで忘れなかったのは、なぜ言ってくんなかったんだということだと思うんです」
木村の同僚だった大野實がなじるように言うと、「はい、おっしゃる通りです」と認め、「私も証言する予定にしとったんでございます。ところがある弁護士から『斎藤さん、言っちゃいけない』と言われたんです」と弁明した。(中略)
ところが、『週刊新潮』の記者が後日、広島に戻った斎藤にインタビューすると、その態度はすっかり変わっていた。
「木村君の遺族と会った時、まことに気の毒だと思ったし、そういいもしました。ただ、相済まなかったとはいわなくてもよかったと思っています。そういってしまうと私が木村君に罪を着せ、一人生き残ったような印象を与えてしまいますからね」
「木村さんの遺族をお気の毒だとは思う。しかし、恨まれるいわれはないし、謝る必要もない。(中略)人間だから処刑されたくないのは当然ですよ」


P181〜182


こんな下劣な人間が日本軍人であり、軍部であったわけです。
そしてこんな卑劣な人間の罪を負わされて木村さんは死んでいったのです。
その無念さを想像することは難くありません。しかしその深さを想像することは絶望的に不可能です。それくらい深いものであろう、と想像するしか僕にはできません。


この『真実の「わだつみ」 学徒兵木村久夫の二通の遺書』には、実際に日本軍人・軍部を見た兵隊の言葉が収録されています。先に見てきたように、それは激烈です。
激烈にならざるを得ない人間による激烈な言葉です。その言葉には真摯に向き合わなくてはなりません。日本軍人であり、軍部の一端を暴く木村さんの捨て身の言葉なのですから。


この本は、木村さんの激烈な言葉を目的にするだけでも読むに値する作品です。
是非読んでいただきたいと思います。
ただそれだけで終わらないのがこの本の真に素晴らしいところです。
激烈な言葉とは対極にあるような平和的な感情も読む者に与えてくれるのです。
それは、学問をしたくなる欲求です。
新しく発見された父親宛ての遺書の一節です。

死刑の宣告を受けてから、図らずもかつて氏の講義を拝聴した田辺元博士の『哲学通論』を手にし得た。私はただただ読みに読み続けた。そして感激した。


P25


死ぬことが決定している中でも読書を欲望し、そして感激する!
何かに役立てるとか有益だとかいう読書ではなく、ただただ自分の知的好奇心を満たすことのみを求めた読書。真っ新な欲望は人を感化させます。木村さんの『哲学通論』に向けた欲望は、間違いなくその種のものです。別に「その時間がなかった木村さんのために!」という意味ではまったくなく、ただただ「学問をしたい」という、それ以上でも以下でもない自分の中にある欲望を起き上がらせてくれるのです。
僕にとって、それは橋本治小林秀雄という作家の本を読んだ時に度々感じる種のものです。
「もっともっと学問をしたい。勉強したい」
そんな欲望のスイッチを押されることは幸せなことです。
まさか「遺書」という、それも太平洋戦争を戦い、B級戦犯として絞首刑になった人の「遺書」を読んでその欲望スイッチを押されるとは思いませんでした。
もしかしたらそれは不謹慎なことなのかもしれませんが、
木村さんのこの言葉を無邪気に信じてもっともっと勉強をしようと思います。

「私はただ新しい青年が、私たちに代わって、自由な社会において、自由な進歩を遂げられんことを地下より祈るを楽しみとしよう。」


P25


真実の「わだつみ」 学徒兵 木村久夫の二通の遺書

真実の「わだつみ」 学徒兵 木村久夫の二通の遺書