「風化させてはいけない」について

昨日で、東日本大震災、それに伴う福島第一原子力発電所事故から
丸2年となりました。
ラジオ、新聞、テレビなどメディアは当然そのこと一色といった感じでした。
NHKの夜9時からのニュース番組をみました。
福島から中継していました。
その中でアナウンサーの方が視聴者に2つの質問をしていました。


 Q.あなたの周りでは東日本大震災原発事故の話題は減りましたか?
 Q.東日本大震災原発事故を風化させないようにするためどのようにしたら   
   よいと思いますか?


といった内容だったと思います。
それに対し様々な意見が視聴者の方から寄せられていました。


朝からラジオや新聞(ネット含む)、テレビなどで、
東日本大震災から丸2年」についての報道を見聞きしましたが、
だいたい内容は同じで
「2年経ってもまだ終わっていない。復興は遅々として進んでいない」
といった内容から
「震災を風化させてはならない」
で締められる、といったものだったように思います。


何だかそういう流れ、特に「風化させてはならない」という言葉に、
言葉にうまくできないのですが、以前より何となく違和感を感じていました。
少し言葉に出来そうなのでそのことを書いてみたいと思います。



まず「風化」という言葉の意味を確認してみたいと思います。


「風化」
1 地表の岩石が、日射・空気・水・生物などの作用で、しだいに破壊されること。また、その作用。

2 記憶や印象が月日とともに薄れていくこと。「戦争体験が―する」

3 徳によって教化すること。
  「一世の―に関係する有用の人となることを得べし」〈中村訳・西国立志編
 4[名](スル)結晶水を含む結晶体が、空気中で結晶水を失い、粉末になる現象。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/190187/m0u/


といった意味のようです。
今回の件に該当するのは、この中では


2 記憶や印象が月日とともに薄れていくこと。「戦争体験が―する」


になると思われます。
その意味を当てはめて文章を作ると、
「震災の記憶や印象を月日とともに薄れさせてはならない」
といった形になります。
とても‘正しい’ことを言っている感じがします。
スポーツ選手も、識者と呼ばれる方々も、アナウンサーの方も、タレントの方も、政治家の方も、近所のおばさんも、みんなが言っていことなので、
その‘正しさ’は、折り紙付きなのでしょう。
ただ、みんなが‘正しい’と思っていることは、
反論する人がいないので、その中身が検証される機会が少ないものです。
検証されることなく、
「みんなが言っているから」「反論する人がいないから」「自明のことだから」
‘正しく’なってしまっている可能性もあるわけです。


「震災の記憶や印象を月日とともに薄れさせてはならない」
という言葉に、僕も同意します。
ただ、全面的にではありません。
同意しつつも、全く逆のこと
「震災の記憶や印象を月日とともに薄れさせなければならない」
という思いも持ち合わせています。


その理由は、
「震災の記憶や印象を月日とともに薄れさせてはならない」
という言葉には、被災者ではない方たちに、
地震津波原発事故が起きた直後の、がれきで溢れている状態や
 水浸しの状態、建物がなく見渡す限り平地の状態、高濃度の放射能地帯が
 数多くある状態を忘れてはならない」
といったことを迫り、そしてそれは結果的に、
「震災、津波原発事故に見まわれた被災地を悲惨なままで記憶しておかなければならない」
といった2011年3月11日の状態の記憶の中での固定化を促してしまうのではないか、
と思うからです。


その何が問題か。
それは、被災者の方と、非被災者の方とのズレを生んでしまうことです。
まさか被災者の方は、2年前と全く同じ状況であるはずはありません。
もちろん、思い通りにいかないこと、不自由なことなど、
震災前とは全く違った状態にある方が多いのは事実です。
しかし、震災から2年のうちに、被災された方は何かしらの変化があったはずです。
新しい仕事を見つけたり、漁を再開したり、家を建てたり、商売をはじめたり。
みなさん、それぞれの方法で何かしらを始めているはずです。
そして、今も現在進行形でその変化は起こっているはずです。
片や変化が起こっている被災者の方、
片や「風化させてはいけない」という言葉による記憶の固定化を促される非被災者の方。
このズレが、有効な支援、必要な支援を見失う壁になりはしないだろうか、
と危惧します。
さらに、記憶の固定化が、非被災者の方の被災者の方への関心を減じさせる
要素になりはしないだろうか、ということも危惧します。
人というものは、変化しないものに対し関心を失っていくものだと思います。
それがどんな悲惨な状態であっても、綺麗な状態であっても、
変化しないものに対しては、関心を失っていくものです。
2011年3月11日の悲惨な状態の記憶を固定させることによって、
被災者の方、被災地への関心は薄らいでいきはしないだろうか。
そしてそれは「風化させてはいけない」という言葉によって、
促され得るものではないだろうか。


必要なことは、1年に1回「震災を風化させてはいけない」と‘正しい’ことを
言うことではなく、日々の被災者の方々、被災地の変化を知ることであり、
それに自分は対してどのように関わることができるだろうか、
と考えることではないでしょうか。
必要な時に記憶を呼び起こし、必要な時に記憶を消しておく。
「風化させてはいけない」「風化させなくてはならない」
というどちらか一辺倒ではなく、その両方を状況により持ち合わせることが
重要な気がします。