「批評」のこと

世の中の至るところに「批評」は溢れていますが、
それは一体どういうものなのだろう?? というのが長年の疑問です。


音楽でも映画でも本でも、何ににも「批評」は存在します。
「この作品は一体何なのか?」を説明するのも「批評」だと思いますし、
作品に対する思うことを表現するのも「批評」かもしれません。
多分これらが一般的で、僕もそのように考えていました。
しかし、ここ2、3年「批評」には別の形もあるな、
とぼんやりと思うようになりました。
それはある作品に対して
「触れる前の自分と触れた後の自分の差を説明すること」
も「批評」に成りうるのではないか、ということでした。
そして、その思いはグングンと大きくなり、
今では「批評」の核はそこにあるべきではないか、とさえ思うくらいになりました。


「触れる前の自分と触れた後の自分の差を説明すること」
その作品前と、作品後の自分はどのように変化したか。
これを表現することで、その作品の一端を浮かび上がらせることができるのではないか。


そう考えるとこの「批評」には時間がかかります。
触れて瞬時に影響がでる作品もあるでしょうが、
大半は作品に触れて時間が経過した後に「ああ、そういえばあの作品を知った後で考え方変わったな」などの自分の変化に気付くものだと思うからです。
変化を知るには時間の経過が必要です。
その意味で最近やっとザ・イエローモンキーを「批評」できるようになってきたような気がします。
僕の10代後半〜20代前半はザ・イエローモンキーが中心でした。
その存在に対して、やっと「その前」と「その後」を、鳥瞰できるようになってきました。
太宰治さん、司馬遼太郎さん、村上龍さんに対しても同様のことが言えるかもしれません。


今後そんな「批評」の対象が増えて行くことを想像すると、
とても楽しい気持ちになってきます。


時間を要しない短期的な「批評」もあれば、
時間を必要とする長期的な「批評」もある。
そう考えると「批評」自体の有効性はより高くなうだろうし、
その2つを通過した作品は重層的な深みをもったものとなるだろう。
そんな風に思います。