『脱け殻を抱く』 浅見恵子


人の「限界」は何で決まるのでしょうか。
スポーツとか、仕事とか、趣味といった個別のことではなく、
‘人’そのものの限界です。
個別のものの全ての根底になる‘人’の限界。


それには「人とはどういうものなのか?」ということを
考えてみるとヒントがあるかもしれません。
えらい漠然と大きすぎる質問設定ですが、
人以外の動物と人とを比較して、人のみがやっていることを考えれば、
大まかな解答にはなりそうです。
逆に言えば、動物がやっていないことです。
と言っても、僕は動物にさほど詳しいわけではありません。
そんな僕でもわかる動物がやっていないことは、
文字を書くこと、話すこと、考えることです。
人と動物をわける決定的な違いです。
これを素材に人を定義すると、
「人は文字を書き、話し、考える存在である」
といった感じになりそうです。


その定義から再度
「人の「限界」は何で決まるのでしょうか。」
を考えてみたいと思います。
「人」にその定義を組み替えると
「文字を書き、話し、考える存在の「限界」は何で決まるのでしょうか。」
となります。
ちょっと変な文章になりましたが、なんとなく見えてきたような気がします。
つまりは、文字を書くこと、話すこと、考えることの範囲が、
「人の限界」になるのではないか。
さらには、それらの範囲を広げることが、「人の限界」を押し広げるのではないか。
そして、それら全てに共通するものが「言葉」ということです。


「言葉」で文字を書き、「言葉」で話し、「言葉」で考える。
「言葉」がなければ、人は人でいることができなく、
「言葉」の更新なしに、人は「限界」を押し広げることができない。




浅見恵子さん、初の詩集『脱け殻を抱く』。
収められた19篇の詩は、様々な状況、様々な事柄について
唄われたもので、そこに物語としての絶対的な柱はありません。
ただ、僕はこの詩集を最初の「殻」から、最後の「石」まで19篇を
一気に読みたくなります。
実際、読むときは19篇通して読みます。
なぜにそうしたくなるのか。
それは、おそらく19篇の詩にある共通点を僕は感じているからだろうと思います。
その共通点とは、浅見さんがもつ‘「言葉」の更新の意志’ではないでしょうか。



文章を書くということの順序は、
頭の中で考え納得したことを文字にする、といったものではありません。
ふと文字にしたものを読み、考え、理解し、納得する、といった順序です。
少なくとも僕はそうです。
文字にしたものから、自分の考えていたことを知るのです。
「自分はこういうことを考えていたのか。自分はこういう人間だったのか」
事後的に自分を知ること。
文章を書くということは、そういう行為だと僕は考えています。
決して、自分の頭の中のものを再現することではありません。
もちろん、文章を書くことだけで、その発見があるわけではありません。
その発見をしたい!という意志が必要であるということは言うまでもありません。


詩を書くということも恐らく同じ理路だと思います。
詩を書くことで自分を知り、自分の考えに驚き、感心し、時に恐れる。
‘「言葉」の更新の意志’とは、それらをより深めたい、という欲求です。
具体的には、新たな言葉を見つけ出し、ある概念を自分がしっくりくる言葉で表現し、ある音を自分の耳が納得する言葉にし、ある匂いを自分が鼻をつまみたくなる言葉にし、もやもやした想いを自分が腑に落ちる言葉で表現することです。
「自分とは何者なのか??」をより知りたい欲望とも言えます。
その欲望が強ければ強いほど、「言葉」は純度を増し、力を持ったものになります。
本詩集の19篇の言葉の数々は、著者の強く深い欲望によってドロッと産み落とされたものではないだろうか、僕にはそんな風に感じられます。
19篇の底流に流れる共通点がそこにあるような気がします。



ただこの欲望は、あくまで著者の側の問題です。
仮に著者の欲望のみの作品だったら、
読み手には届きづらいものになっていただろうと僕は推測します。
この作品の優れた点は、著者の‘「言葉」の更新の意志’が読み手に
届いている点にある、と僕は思うのです。
それにはもちろん仕掛けがあります。
それは詩集の序文


「百年前に生きた朔太郎の感情と、今を生きる私の感情は共有できるもので、私の感情は、また他の誰かとも共有できるのです。」


という力強い宣言です。
読み手はこの宣言によって安心するのです。
さらにそこから
「これらの言葉は私の言葉でもあるけど、もしかしたらあなたの言葉でもあるかもしれませんよ。遠慮しないで、あなたの‘言葉の更新’に使っちゃってね。」
という開かれた優しさも感じるのです。
その優しさが
「ねえ、ねえ、浅見さん、私この詩のこの言葉がすごくよくわかる!」
という読み手の著者と共有する意志を促進させ、読み手に‘「言葉」の更新’を促すのです。
ちなみに僕はこの言葉で自分の‘「言葉」の更新’をした思いがします。


‘ぷつり
 ぷつりと折っては
 細い茎をまきつけ
 あみつなげて
 花輪をつくる‘
       「冠」より


理屈ではないのですが、ここを読むだけで胸がキューンとなって、
幸せな心持ちになってしまいます。
僕は今後このような心持ちを「花輪をつくる」という言葉で表現する方法を獲得しました。
これが‘「言葉」の更新’の具体例であり、そして自分の世界を広げる=感情、状況をよりしっくりくる形で表現する手段になるのです。
自分の感情、世界の状況、リンゴの形、空の色、猫の鳴き声、飛行機の速さ、そして相手を想う気持ち、などなど、‘世の中’を説明するのは、「言葉」によってしかなしえません。
その‘「言葉」を更新’することが、
つまりは、自分の「限界」を押し広げるということなのです。
‘「言葉」を更新’することで、‘世の中’は広くなるのです。
恐らく、世の中ではそのことを「成長」というのだと思います。



この詩集には、‘「言葉」の更新’を読み手に促す言葉が数多く躍動しています。
(もちろん、浅見さん自身数多くの‘「言葉」の更新’をしただろうと想像します)
そして、‘「言葉」の更新’をどうぞしてください、という読み手に対する著者の礼節があります。
この2点においてだけでも、
『脱け殻を抱く』は、僕にとって何度も手に取り、読みたくなる作品になるのです。


【浅見恵子さんホームページ】
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