望月柚花個展「幸福論」


先日、望月柚花さんという写真作家の方の個展にいってきました。
望月柚花個展「幸福論」
http://www.gallerycomplex.com/schedule/ACT154/mochizuki_yuka.html
(既に終わっていますが)
素敵な作品がたくさんあったので、それについて書いてみたいと思います。

自由とは至高のもの、と思いたい。


 芸術作品の質がそこに存する自由さの多少で判断されるとしたら、望月柚花の芸術作品は極めて質が高いものといえる。
 しかし、世の中に ´紛うことなき´ 「自由な芸術作品」というものはない。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』はある人にとっては自由な芸術作品だろうが、ある人にとってはそうではない。尾崎豊の『15の夜』、フランク・ロッダム監督の『さらば青春の光』においても同様である。誰もが認める絶対的な自由な芸術作品はこの世に存在しない。だから、私はここで芸術作品の「自由」を定義しなくてはならない。それは私がどのような芸術作品に自由を感じるか、ということと同義であるが、ここで「自分で物語を紡ぐことができる」ことを「自由」としたい。その範囲、深度が広く、深いほどその作品の自由さが多いということになる。ここで改めて望月柚花の作品を評価するなら、彼女の作品は色彩々の物語を紡ぐことを心地よく、絶えず僕に促してくれるという点において、質の高い芸術作品なのである。


 ここで考えたいのが、望月柚花の作品がどのようにして私に物語を紡ぐことを促しているか、である。それは当然作品それ自体の力による。ここで作品をみていただきたい。



 彼女の作品は自分で撮った写真をパソコンで加工するスタイルである。一目で通常の写真作品とは異なることが分かる。幻想、幽玄などの言葉がパッと浮かんでくるようである。それらの言葉から溢れる物語性を感じられいくらでも物語を紡ぐことができそうだが、逆にその物語性の源泉になる「感じさせるもの」の豊富さに私はのまれてしまうのだ。いくつもの「感じさせるもの」が目に飛び込んできて、その豊富さにより結果的に道を見失ってしまうといったらいいだろうか。そんな迷子を救ってくれるのが作品のタイトルである。望月柚花は上記の作品にこのようなタイトルを与えている。


「いつか無になるその日のために」


 このタイトルは道を照らしてくれる。案内板のようだ。
 言葉を整えれば、「物語を紡ぐ」とは道を見失うことなく一歩一歩着々と歩むことである。その道々を歩み、そしてある場所に行き着くことによって=物語を完結させることによって、異常な快感がゾワゾワと沸き立ってくる、その時、私は作品に大いなる「自由」を感じるのである。その道標となるのが、タイトルなのである。
例えば、作品「いつか無になるその日のために」からどのような物語を紡いだかといえば。


「降り注ぐ光の中で若い女の子が寝息を立てている。この光は何ものからもこの女の子を守る神聖なものであるが、時とともに女の子が女性になり、淑女になり、おばあさんになっていくにつれ、光そのものの力も失われていき、暗闇が迫ってくる。その時、彼女の身体は徐々に腐っていき、肉が削がれていく。骨が見えてくる。全ての肉がなくなり、全てが骨になったとき、彼女は無になってしまったが、彼女は何も悲しむことはない。それは最初からの約束だったのだから」
 

 この物語の内容はどうでもいいのだが、物語のはじめから終わりまで紡ぐことができる、そのことが極めて重要なことなのだ。それこそが自由なのだから。自由とは圧倒的な快感でなくてはならない。
 自由とは至高のもの、と思いたい。
 至高とは絶対的善きものである。絶対的善きものは、あくまで結果である。結果が圧倒的な快感であるなら、その形がどうであれ絶対的善きものである。例えば、「自由」ということにおいて、制限がない、ルールがないということが究極の自由と言えるだろうか。それは絶対的善きものをもたらすだろうか。法という制限がない世界は、その無制限性によって強烈な制限を感じることは容易に想像がつく。法が人に自由を与えるように、制限が人に自由を与えるのだと思う。重要なのは制限がないということではなく、その程度加減なのだ。その程度加減において、望月柚花の写真とタイトルの関係性は抜群である。溢れ出てくる物語性を巧みにタイトルが制御している。物語性を制御しすぎてもいないし、奔放にしすぎてもいない。比率でいえば、写真90%、タイトル10%ほどであろうか。これが写真50%、タイトル50%であるとしたら、そこから圧倒的な快感を得ることができないだろう。制御されすぎている。例えば、タイトル50%とは、「激怒」とか、「自動車」とか、道のおおまかを既にそれ自体で照らしてしまっているようなものである。タイトルなしの写真100%であるなら、繰り返しになるが、道を見失ってしまうことになりかねない。僕にはそこからは圧倒的な快感を得ることはできない。つまり自由を感じることができない。


 そもそもの写真自体に存する潤沢な物語性(これを創りだす彼女の力が際立っていることは強調しすぎてもしすぎることはない)、それに巧みな案内をあたえる道標によって成立する作品には圧倒的な快感がある。望月柚花の作品は自由が溢れている=質の高い芸術作品であるとは、そういうことなのだ。


 最後にもう一作品。何かしらの物語を紡いでもらえたら幸いである。


 「世界が終わるその前に」