7/14(日)東京新聞一面記事に思うこと


500年色あせぬ小津作品 監督のこだわり デジタルで復元



 映画「東京物語」などで知られる小津安二郎監督の遺作「秋刀魚の味」(一九六二年)などフィルムの劣化が進むカラー四作品を、松竹と東京国立近代美術館フィルムセンターが、五百年は保存できる世界最高水準のデジタル技術で修復・保存作業を進めている。この技術を長編映画に用いるのは国内初。小津監督の意図通りに復元するには高齢のスタッフの記憶が不可欠で、時間との闘いだ。その危機感から作業が始まった。 (小田克也)


 「ちょいと、おいで」。父(笠智衆)が縁談話で娘(岩下志麻)に声を掛ける「秋刀魚の味」のワンシーン。スカートの赤い色が修復され鮮明となった。また、バーのママ(岸田今日子)が水割りを作るシーンもフィルムが変形して画面が揺れていたが、ぶれなくなった。


 デジタル技術によるフィルム修復は、色調や明暗の調整、ゆがみの修整、深い傷や雑音の消去などができる。修復後は、富士フイルムが開発したフィルム「エテルナ」に焼き付けて保存するのだが、長編保存は国内初。フィルムセンターの栩木(とちぎ)章・主任研究員は「五百年から千年は劣化しない。これほど長期間保存できる記録媒体は現在ない」と話す。


 修復・保存は、小津監督が今年、生誕百十年・没後五十年を迎える記念事業。四作品は「秋刀魚の味」のほか五八〜六〇年の「彼岸花」「お早よう」「秋日和」。十一月二十三日から東京・神保町シアターで行う、四作品を含む全作特集上映会までに仕上げる。


 監修者はみな高齢。小津監督のチーフ撮影助手を務めた川又昂(たかし)さんは八十七歳、プロデューサー山内静夫さんは八十八歳、助監督の田中康義さんは八十三歳。当時を知るスタッフは今や数えるほどになり、松竹映像ライツ部の藤井宏美さんは「明暗や画調を監修する方がいなくなってからでは遅い」と焦る。


 川又さんは「小津さんは、コダックのフィルムは空が青くなるから嫌で、寝ぼけたアグフア(欧州製)がいいと…。(赤い色を好んだが)『彼岸花』では赤い色のやかんをどこに置くか大変計算している。そして、ワンカットたりとも人に撮らせない。雲も自分で撮る。今日はいい雲が出そうだから外にいろ、と言われて空を見続けたこともありました」と回想する。こだわるだけに小津監督の意図が分からなければ復元できない。


 栩木さんは作業に先立ち、あらためて「秋刀魚の味」を見て、笠智衆演じる父がたばこの火を消すシーンで、「ジュッ」という音がすることに気づいた。娘を思いながらもうまく言い表せない胸の内を表現した音で、その演出の緻密さに舌を巻いた。


 「小津監督はカメラを固定した。物語が進んでも空間は動かないので、光の加減などがズレたりすると目立つ。復元作業としては難易度が極めて高い」と栩木さん。五百年、千年後の未来に「世界の小津」を届ける事業に力を尽くした川又さんは「親孝行ができました」と話している。


 <映画のデジタル修復> 1980年代、米ハリウッドで、現実には撮影できない映像をコンピューターで作る技術が発達。90年代半ば、修復に転用された。東京国立近代美術館フィルムセンターでも2002年度から修復が始まり、小津4作品を含め23作品に達する。


http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013071402000115.html
           東京新聞  2013年7月14日(日) 朝刊一面

      • ここまで ---

7月14日(日)の東京新聞朝刊一面の記事になります。
小津安二郎監督の『秋刀魚の味』など4作品がデジタル技術で修復、保存されるといった内容です。
僕は小津作品が大好きなのでとても興味深く読ましたが、
内容以上に朝刊の一面にこのような記事があることに何だかホッとした思いを抱きました。
参議院議員選挙を1週間前に控えた日曜日の朝刊です。
他誌はどのような記事が一面だったのかわからないのですが、
東京新聞はそんな‘選挙Week’の一面に、選挙とは全く関係のないジャンルで言えば、「文化」に属する記事を持ってきました。


なにが僕をホッとさせたのだろう、と考えてみました。
日本の選挙は、20歳以上の日本国籍を持つ人なら、
誰でも等しく一票を持つことができます。
その意味でとても個人的なものだと僕は思います。
個人の考えで候補者を選び、党を選び、それらに想いを託し、
個人で投票箱に一票を入れます。
ただ投票箱に一票を入れた途端、個人的なものが集団的なものに変化します。
投票箱に入れられた票は、そこにどんな想いが込められていようが、いまいが、
ただの一票として集計されます。
集計され当選、落選が決まるわけですが、
自分の一票が本当に微々たるもので、集団の中のほんの一部でしかないことを思い知ります。
思い知ります、なんて書いていますが、
そんなことは投票する前から分かっていることです。
投票前の極めて個人的な段階でも、最終的には集団的なものになることは
知っているわけです。
選挙は自分一人の思うようにならない、ということ、
さらに選挙後の政治も自分一人の思うようにならない。
選挙、政治は、個人的なものを最初にしながら、
最終的には集団的なものになる。
誰もが認識する当然のことです。


だから、その認識下にいる僕は選挙や政治のことを文章にする際、
個人の感想ではなく、こう思っているのですがいかがでしょうか、
という読む人に対して開いている状態を心掛けています。
それは、自分の思っていることを‘正しい’とは決して思いませんが、
(「自分は正しい」と思って書いた文章は閉じたものになるだろうと推測します)
こうなったら生きやすいなあ、という欲求を形にしたものであり、
賛同者がいればそうなる確率が上がるのではないか、という期待を込めたものであるがためです。
そうすれば、個人の想いが集団的な想いになるかもしれない。
まあ、実際はそんな大胆なことは考えていなく(笑)、
一人でも同じような考えをする人が増えればいいなあ、
くらいのものです。
(あくまで、‘正しい’から、ではなく、生きやすくなるから、です)


そういう意味で、僕が選挙やら政治について書くものは、
集団に目を向けたものです。
個人の想いを表現しているものではありません。
なので、選挙や政治に関するものに頭が行っている時は、
集団的な動きや流れに対して神経が敏感になる傾向があります。
それは、今呼吸をして、ご飯を食べて、お風呂に入って、寝る個人という単位に対して神経が鈍感になる傾向を意味しているような気がします。
集団的なものに対する神経と、個人的なものに対する神経のバランス、
それを上手に保つことが大切なことだと思うのですが、
選挙や政治に関するものに頭が行っている時はそれが崩れているように自分で感じます。
選挙を1週間前にした現在は、まさに集団的なものに対する神経が敏感になっているところです。
天秤がひどく傾いているタイミングで、
冒頭の小津作品の記事を読み、そしてホッとしたわけです。


そのホッとした理由は、映画というものが極めて個人的なものであるため、
それに関する記事が僕の中にある集団的に偏重していたバランスを
修正してくれたからです。


映画のみならず、本や音楽、絵画など芸術は個人的なものだと僕は思います。
それを再度それについて文章を書く、ということから説明すると、
僕は芸術関連のものに関する文章を書く時は、
個人の思うところを書きます。
それについて賛同してほしい、とか、共感してほしい、
といったものは特に意識していません。
もし共感してもらえれば嬉しいですが(笑)。
ただそれはあくまで結果で、意図ではありません。
その意味で、政治的な文章を書く際に意識することとは、
真逆であると言えます。
集団を意識する政治的な文章に対する、個人を意識する芸術的な文章。
僕の中ではこれははっきりしていることです。
それは芸術が個人に属するものであるのですから、
当然のことと言えます。
芸術は、個人の喜び、哀しみ、怒りなどを様々なもので表現するものです。
どんな表現であれ、それを受ける者は個人です。
身分、性別、年齢など関係なく、芸術の前ではどんな人も平等です。
受ける者の感じることは、似たようなものがあったとしても、
完全に一致することはないでしょう。
その人にしか感じることができないものを感じるわけです。
作者の意図するところを読み取ることや、知識を前提とした解釈などで
受ける者の巧拙は出ますが、感じることそのもの自体に巧拙はないと思います。
極めて個人的なものに成らざるを得ません。
それを踏まえての芸術に関する文章も個人的なものになるのは自然なことです。



選挙1週間前の日曜日の朝刊、
‘そういう’記事があるのだと思い(=集団に対する意識)一面を見てみたら、
それとは逆の個人に対する意識の範疇にある芸術の記事だったのです。
それを読んでホッとしたことで、
自分の集団的なものへの偏重に気付きました。
集団的なもの、個人的なもの、どちらが良くて、どちらが悪い
といったものではないと思います。
要はそのバンラスで、集団的な視点を失った個人的なものはあまりに閉鎖的なものになってしまうかもしれませんし、個人的な視点を失った集団的なものは、生身感のないイデオロギーになってしまうかもしれません。



集団的なもの、個人的なもののバランスを失うこともある、という事実に気付かせてくれた東京新聞の一面記事でした。