「限度」の存在を知ること


「恐ろしい山」


恐ろしい山の相貌《すがた》をみた

まつ暗な夜空にけむりを吹きあげてゐる

おほきな蜘蛛のやうな眼《め》である。
赤くちろちろと舌をだして

うみざりがにのやうに平つくばつてる。

手足をひろくのばして麓いちめんに這ひ廻つた

さびしくおそろしい闇夜である

がうがうといふ風が草を吹いてる 遠くの空で吹いてる。
自然はひつそりと息をひそめ

しだいにふしぎな 大きな山のかたちが襲つてくる。

すぐ近いところにそびえ

怪異な相貌《すがた》が食はうとする。


萩原朔太郎 『青猫』より

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萩原朔太郎さんの「恐ろしい山」という詩です。
丸谷才一さんは『完本 日本語のために』の中で
「詩とは言葉の魔法である。「力をも入れずにして天つちを動かす」技術である」
とおっしゃっていました。
僕はこの詩を読んで、丸谷さんの言葉を一瞬のうちに理解することができました。「理解する」というより、より直接的な「感じる」ことができました。
その肝は、一行目の
「恐ろしい山の相貌《すがた》をみた」
です。この変哲もない一行に「力を入れずにして」動かされてしまいました。
言葉の意味を超えて塊となって迫ってくる力に、
萩原朔太郎の凄さと詩の恐ろしさを感じずにはいられませんでした。
ここで作品批評をするつもりはありません。
なにせ残念ながら僕にはそんな能力がありませんから(笑)。


ここで書きたいのは、
「恐ろしい山の相貌《すがた》をみた」後のことです。
それを読んだ後の僕の心の在り様であり、考えです。
結論から言えば、僕はこの一行を読んだ後、
そこに個の存在を強く意識しました。
その個とは、萩原朔太郎であり、僕自身です。
「恐ろしい山の相貌《すがた》をみた」萩原朔太郎と、
その言葉の意味を超えた塊を全身に浴びてしまった僕自身。
二人の個が、この一行によって僕の頭を占拠しました。


萩原朔太郎と僕に何の関係もありません。
方や山を目の前にしてそれを言葉にする詩人であり、
方やそれを成す術もなく浴びる受け手です。
萩原朔太郎と僕が同じものを観ているわけでも、
何かに共感しているわけでもありません。
ただ全く関係のない二人が、そこに介在する個として存在しているという意味で、時代も知性も感受性も超えて繋がっているということも同時に感じます。
同時代を生きる他人とも同じことを仔細に共感しあうことは困難であり、
厳密に言えば不可能だと思いますが、
違う時代の誰もが知る大詩人と共感しあうなど到底できるものではありません。
しかし、共感という側面ではなく、作品に介在する個としての存在という側面では、確かに繋がることができるのです。
同じものを観なくても、感じなくても、思わなくても、
それぞれの方法でその作品に関係することの個として存在することができるのです。
それは‘文学の幸福’の一つであると僕は思っています。
時代が異なろうが、性別がことなろうが、国籍が異なろうが、
主義主張がことなろうが、受け手は作品を読むことで、
作者と必ずや繋がることができます。
作品に介在する個の存在として。


作品に介在する個の存在は、何も作者と受け手だけとは限りません。
その作品に登場する人物もそこに入ることもあります。
それはその作品の形式もあるでしょうし、巧拙によるところもあるでしょう。
少なくとも文学は、作者と受け手の二人の個が介在するものなのです。



「恐ろしい山」に戻れば、
僕はここで萩原朔太郎という個と、自分自身の個を認識します。
そして、二人の「顔」を見ます。
一人は山を見、様々なことを感じ、詩作に意思を傾ける人の「顔」。
もう一人は、言葉の意味を超えた塊を全身に浴びて感動する人の「顔」。
この二人からは感情の存在を確かに感じることができます。
心の動きの様がどのようなものか、その詳細は分からずとも、
何かに感じるその心の存在は確信できます。
そしてその確信は、この二人に対する、
例えば殴れば痛いだろうし、侮蔑的な言葉を投げかければ嫌な思いをするだろうし、嬉しい言葉をかければ喜ぶだろう、という確信に繋がるものだと思うのです。
つまりは、感情の存在を確信するということは、
その対象が「生身」であることを了解することに繋がるわけです。


「生身」の人間には当然「限度」があります。
殴りすぎれば死んでしまうでしょうし、侮蔑し続ければその相手は攻撃的になるでしょうし、または意気消沈してしまうでしょう。
「生身」の人間は、精神的、肉体的に「限度」を有しています。
一線を超えれば破壊されてしまう脆いものです。



僕は文学の最大の手柄の一つは、この「限度」の存在を認識させることだと考えています。
人間には「限度」がある、という極めて当たり前のことを、しかし忘れがちなことを、作者、受け手、作品の登場人物の「顔」が思い起こさせる、
そういう力を文学は持っています。
作者の苦しみ、楽しみ、登場人物の哀しみ、喜びが、
受け手の心を揺り動かし、三者三様の感情が認識されるのです。
その力が強ければ強い程、文学としての質が高くなるのだと、
僕は判断しています。


文学は、当然現実社会にも影響を与えます。
なぜなら、文学の受け手は現実社会に生きているからです。
文学が教える「限度」は現実社会でどのような力を持つでしょうか。
それは、異なった主義主張、意見、考えなどと折り合う際に
発揮されるのではないでしょうか。
つまり「対話」の場において。


「対話」は相手の「限度」の存在を認識し、自分の「限度」を認識することで初めて成り立つものだと思います。
「対話」とは、相手と折り合うことです。自分の意思を100%通すものではありません。「対話」に10対0の勝ち負けはありません。
自分にも、相手にも「限度」の存在があることを知る者が、
「対話」をすることができます。
「限度」を知る者は、自分と同様に、
相手にも柔らかい感情があることを知っています。
そしてそれは脆さも併せ持つものだということも知っています。
だから、ひどい言葉、態度、雰囲気で接しません。
自然と穏やかなものになります。
「限度」を知らない者は、相手への配慮を失した対応を取り、
相手を傷つけることで、折り合うことを不可能な状況にしてしまいます。
主義主張、異なる意見を乗り越え、折り合うには、
「限度」の存在を無視することはできない、と僕は信じています。


感情を持ち、肉体を持つ個には必ず「限度」があります。
この「限度」の認識に大きな力を発揮するものこそ文学である。
僕はそんな風に考えています。
僕は対話を拒否する態度、言葉、雰囲気を持つ人を恐れます。
しかしもっと恐れるものは、対話を拒否する態度、言葉、雰囲気を持ってしまう自分です。
その荒ぶる自分を呼び起こさないように、文学には平常接して行きたいと思っています。