「対話」を阻むもの


最近「対話」づいています(笑)。
それは恐らく、世の中の様々な場面において、
「対話」が難しい状況、状態への危惧であり、哀しみであり、虚しさであり、絶望に対する一つの行動のように思えます。
そして当然その世の中には僕自身も含まれます。
「お前は対話をすることができるのか?」
と自問自答しながら書いています。



「自分らしさ」という言葉がもてはやされ始めたのは、
今から10年ほど前でしょうか。
何だか知らぬ間に発生して、知らぬ間に定着して、
知らぬ間に絶対善の存在になった印象があります。
今や特別な言葉でもなく、普通に‘善なるもの’として認識され、
使われています。
生来の天の邪鬼でしょうか、世の中で絶対善や絶対悪など、
極端に設定されているものに対して、僕は常に疑いを持ってしまいます。
自分自身についても極端に陥らないように、
バランスを保つことを心掛けていますが、
世の中に対してもそれを求める傾向があります。
そんな人間の目からすると、「自分らしさ」という言葉に付与された‘善なるもの’の力のあまりの強さは、著しくバランスを崩すもののように映ります。
バランスが崩れることで、世の中にいびつな塊が生まれます。


「自分らしさ」の絶対善化によるいびつな塊とは一体どのようなものでしょうか。
それには「自分らしさ」というものが、
どのようなものを指すかを考える必要があります。
辞書で調べてみます。
「自分らしさ」という言葉自体ではないようです。
「らしさ」でありました。


らしーさ
1 《接尾語「らしい」の語幹に、接尾語「さ」の付いた語》名詞や形容動詞の語幹に付いて、そのものの特徴がよく出ていることを表す。「自分―」「子供―」「確か―」
2 《単独で用いて》その人や物事の特徴。「―を発揮する」


http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/229430/m0u/



1の方ですね。
上記の1を参考に「自分らしさ」の意味を考えると、
「自分の特徴がよく出ていること」
となります。
これを使って「自分らしさ」が絶対善の世の中を推測してみると、
「自分の特徴がよく出ていることを善しとする世の中」となります。
どんどん自分の特徴を出すことを奨励する世の中、ということですね。
そのような価値観が疑われることもなく世の中に行き渡ると
どのようなことが起こるでしょうか。


それは「自分らしさ」の逆の意味を考えてみればすぐに分かります。
逆にすると「自分の特徴が全く出ていないこと」
になります。
換言すれば、
「他人と同じこと」であり、「他人にあわせること」です。
「自分らしさ」が善の世の中では、その逆であるこれらは悪になってしまいます。その善が強ければ強い程、対する悪は強くなります。
つまりは、他人を考慮にいれたら「自分らしさ」が保てない、
とされてしまうわけです。
当然、極端に走らなければ「自分らしさ」と他人を考慮することの
共存は可能だと思います。
しかし、昨今の世の中を見渡すと、「自分らしさ」の圧倒的有利は否定できないのはないでしょうか。
「自分らしさ」には、「他人の目を気にしたら負け」という意味が潜在的にセットされているものと僕は考えます。
「自分らしさ」が強くなればなるほど、意識的に他人を無視するようになるということも、当然延長線上にあります。


「自分らしさ」がもてはやされる現在の状況が、
「対話」を困難なものにしているというのは自然のことです。
他人と折り合わないことで「自分らしさ」を証明できる世の中なのだから当然と言えます。
「対話」の条件の一つは、他人を考慮し、受け入れることです。
行き過ぎた「自分らしさ」はこれらを拒否します。
これがいびつな塊の正体と言えます。


「個性」「信念」などの言葉にも共通します。
行き過ぎた「個性」は他人と距離を置き、
行き過ぎた「信念」は他人を侮蔑します。
いずれも「対話」を拒否する意思をもった言葉です。


「自分らしさ」「個性」「信念」などは、
バランスを保てている状態で力を発揮するものだと僕は考えます。
常軌を逸したそれらは害悪以外のなにものでもない。
そんな風に思います。
上記以外何でも、常軌を逸した状態=バランスを崩した状態になればロクなことは起きないだろうと思います。
天の邪鬼を発揮して、世の中を観察していきたいと思っています。