鎮魂


先日、知り合いが亡くなりました。
40歳という、日本人の平均寿命からみると短い人生でした。
もう数年前ですが、僕の父親も平均寿命に達することなく亡くなりました。
ただ、僕の薄情さが出ているのでしょうか、
平均寿命に達しない年齢で人が亡くなっても「短い一生だった」とは
あまり思いません。
‘あまり’というのは、「短い」という事実はそうだな、と思うからです。
その事実を抜きにすると、それほど年齢がいっていない人が亡くなっても、
「短い」とは全く思いません。


そう思うようになったのは、関厚夫さんの『ひとすじの螢火 吉田松陰 人とことば』の一節を読んでからです。その一節です。



「十歳にして死する者は十年の中で四時あり。二十は二十の四時、三十は三十の四時あり。五十、百はおのずから五十、百の四時あり。十歳という一生を短いとするのは、短命のセミ(の成虫)が不老不死の霊木になろうとすることと同じであり、百歳という一生を長いとするのは、不老不死の霊木がセミになろうとするようなもの。いずれも天命に背く」
『ひとすじの螢火 吉田松陰 人とことば』関厚夫 文春新書 P450



「四時」とは春夏秋冬を意味します。
要約すれば、
「十歳の一生も、百歳の一生もそれぞれの人生にはそれぞれ春夏秋冬がある。短いも長いもない」
ということだと思います。
この一節を読んだとき、身体の中にスッとはいってきました。
心地良さすら覚えました。
この言葉が‘正しい’かどうかは知りませんが、(そういう次元で語られることではないと思いますが)
僕の心身との相性の良さにこの言葉を軸にしようと思うようになりました。


それは人の死を受け入れるということ、でもあることに気付きました。
一般的に、それほど年齢がいっていない人が亡くなった時、
「なぜ?」「どうして?」「早い」「もっと生きて欲しかった」などの消化し難い想いは、湧き上がる当然のものとして自然と共有されるものです。
そしてその想いは、時間とともに消えるとも限らない、
もしかしたら時間とともに強くなっていく類いのものかもしれません。
その本質は永遠に解決できないものではないでしょうか。
そこに「春夏秋冬を生きたんだな」という新たな想いを差し込んでみると、
僕はある種の‘納得’を得ることができます。
それはあくまで身勝手な‘納得’です。
亡くなった本人はそんなことを思っていたとも限らず、
無念のうちに亡くなっていったかもしれません。
ただ、その身勝手な‘納得’を得ることで別の場所に行くことができます。
鎮魂です。
魂を鎮める。


それは、亡くなった人を相対視することで初めて可能になります。
自分の領域に死者を置いている状態では、鎮魂はできません。
なぜなら、その状態では鎮めるべき魂をいまだ鎮めるべきものとして認識していないからです。
「なぜこんなに早く死んでしまったの」という想いのうちでは、
死という事実自体は認識できても、死を受け入れることはできません。
魂はまだ、生きている自分が手放さずに持ってしまっているのです。
つまりはその状態において、魂は鎮めてはいけないもの、なのです。
鎮魂は、死を受け入れること、死を自分の手から放すことで、
初めて成されるものと言えます。
そして、それは(恐らく)人類が始まった時から、
現在まで絶えまなく続く人類には欠かせない儀式なのです。
「なぜ鎮魂は必要なのか?」という質問を僕にされても分かりません。
誰もが納得できる回答は残念ながら用意できません。
僕の回答は「昔から続いているから」という人任せなものです。
ただ、その核心は分かりませんが、
長い間どんな民族であれ、どんな環境であれ、どんな習慣であれ、
どんな社会であれ、世界の至るところで行われている儀式に対して、
僕は絶対的な信頼を寄せざるを得ません。
家族を持つ、モノを贈り合うなどとともに、鎮魂はその最たるものの一つである、と僕は思っています。


亡くなった人の魂は鎮めなければならない。


ここまで書いてくると自分であることに気付きます。
先に吉田松陰さんの言葉



「十歳にして死する者は十年の中で四時あり。二十は二十の四時、三十は三十の四時あり。五十、百はおのずから五十、百の四時あり。十歳という一生を短いとするのは、短命のセミ(の成虫)が不老不死の霊木になろうとすることと同じであり、百歳という一生を長いとするのは、不老不死の霊木がセミになろうとするようなもの。いずれも天命に背く」



を引用しましたが、これが方便である、ということに気付きました。
この言葉が‘正しい’のかどうかはわかりません。
「そんなことないよ」と言われれば、「そうですか」としか言えません。
‘正しい’ということを証明する努力もしようとは思いません。
ただ、‘正しい’かどうかに関係なく、
この言葉を自分の中に受け入れることで、人の死を自分の手から放すことができる、つまりは魂を鎮めるべき対象として認識できるようになるのではないか、
というのは想像してみる価値のあることのように思います。
そしてそれは、僕には実にその効果があるものでした。
先に書いた「心地良さを覚えた」とはこれだったのだな、
と今書きながら思い当たりました。
鎮魂に至る道を吉田松陰さんの言葉に求めることで、
自分にしっくりくるルートの解明をできることが僕には心地良かったようです。
吉田松陰さんの言葉は、鎮魂をしっくりくるものにするための道具、
方便だったようです。
「ようです」などと他人事のように言っていますが、
書きながら「なるほど〜」と自分で思っているのでしょうがない(笑)。
吉田松陰さんの言葉を知り鎮魂を考えるようになったのではなく、
鎮魂が先でそれに対しての有効な道具としてその言葉を受け入れた、
という流れだったのでしょう、恐らく。



吉田松陰さんの言葉により、人の死を自分の手から放すことができるようになり、その後鎮魂へと向かうことができる。


では、具体的な鎮魂とはどのようなものか? と聴かれれば、
再び沈黙しなくてはなりません。
僕にはわかりません。


天童荒太さんの作品に『悼む人』という小説があります。
事故などで亡くなった人を‘悼む’旅を続ける人(静人)の話です。
静人が‘悼む’具体的な行動は、死亡した人の知り合いに会い、
「死者が誰にどのようなことで感謝されたか」を聴くことです。
その後に亡くなった場所で独特の儀式をして‘悼む’ことが完了します。
小説中でもこの行動に対して、様々な意見が出てきますが、
様々な意見が出る程に、‘悼む’ことは多様であり、個人的なものと言えるかもしれません。100人いれば、100通りの方法があるのかもしれません。
ただ一つ恐らくほとんどの‘悼む’ことに共通していそうなものがあります。


それは「亡くなった人のことを覚えておく」ということです。
「亡くなった人のことを覚えておく」が、人を‘悼む’ことになるのか、
という質問をされたら、何だかよくわからないけどそんな気がする、
と、わからないながらも肯定する人が多いような気がします。
「亡くなった人のことを覚えておく」ことは悪くないよね、と。
人類がはじまってこのかた死者に対する礼が行われて来たのは、
様々な理由があるのでしょうが、
多くの人に共通する「亡くなった人のことを覚えておく」ことは良いことだ、
という感覚にもあるのではないでしょうか。
多くの人が同じ感覚を共有しているから、長い時間を経ても現在まで残っている。単純ですが、得てして真実のような気がします。
静人の行為も本質的な部分は「亡くなった人のことを覚えておく」です。
そのために死者の知り合いに会い、どのようなことで感謝されていたのかを聞き出すのです。


‘悼む’と鎮魂に厳密に言えば差異はあるのでしょうが、
両方とも死者に対する礼です。
僕が考える鎮魂も、
「その人のことを覚えておく」
ということを基軸にしたいと思っています。
それを実行するためにどうすればいいか、となれば、
それこそ千差万別ですので、蛇足になりますが、
僕の場合は人の好きなものを覚えておくという方法で実行したいと思います。
食べ物でも、人でも、場所、花でもなんでも。
僕がそれらに出会った時、「ああ、あの人はこれが好きだったな」
と思い出せるように、好きなものを自分の周りの人には聴いておきたいと思います。
桜のもとで再会する人もいるかもしれません。
イカを食べる時に再会する人もいるかもしれません。
紅葉を眺める時に再会する人もいるかもしれません。
雪に足跡をつけながら再会する人もいるかもしれません。
その時に
「私はあなたのことを覚えていますよ」
と、そっと言ってあげたいです。
魂が鎮まることを願って。



「鎮魂」について書こうと思ったのは、
「城南信金さん、「CSRとしての脱原発」ってどういうことですか?」
http://blogos.com/article/65122/
という記事を読んだことによります。
記事中に城南信用金庫理事長・吉原毅さんの発言で、
「まずひとつは、東北を応援しようと。東北でなくなった方々の鎮魂のためにも、東北の企業、人々を応援しようということで、全国の企業のみなさんに「あつまってください」と呼びかけました。」
という言葉がありました。
東北を応援しよう、という言葉は至るところで聞きますが、
鎮魂のため、という亡くなった人へ向けた言葉を聞いたのは、
もしかしたら初めてだったかもしれません。
何だか涙が溢れてきました。
企業のトップの方の言葉としても、人の言葉としても嬉しかったです。
震災後の2011年4月に
「立ち上がる一方で」
http://d.hatena.ne.jp/narumasa_2929/20110415/1348034947
という文章を書いたのを思い出した。
震災後、父親の死後、死者に対する礼節が僕の中での重いトピックです。



ひとすじの蛍火―吉田松陰 人とことば (文春新書)

ひとすじの蛍火―吉田松陰 人とことば (文春新書)