非敵対的矛盾

中沢新一さんと國分功一郎さんの対談本『哲学の自然』の中で、
中沢さんが「非敵対的矛盾」という概念を語られていました。
その概念の僕の解釈では、


「他人との矛盾は即敵対ではない。矛盾していても、それは差異があるということだけで、必ずしも敵対とは言えない。その差異を冷静に見つめ、それを埋める、またはなるべく近くに寄ることが肝要である。
矛盾即敵対という考えのもとでは、お互いに歩み寄るという行為そのものがスキップされてしまう」


といった感じです。中沢さんがおっしゃりたいこととは違うかもしれませんが(笑)。



現在の日本の社会に生きていてよく感じることは、
「敵対的矛盾」をベースにした、「矛盾即敵対」の風潮です。
AかBかの選択を迫るものが社会に溢れているように感じます。
世論調査、様々な分野におけるネット調査、ある出来事に対するネットの書き込み・・・。
そこではAかB、賛成か反対か、肯定か否定か、
そんな二元論が当たり前のものとして採用されています。
そこでは「Cかもしれないなあ」「賛成ともいえるし、反対ともいえる」「まあ、どちらもご事情がありますよね」といった、
どっちつかずの解答ははなから無視される傾向にあります。
その傾向に敏感に反応してか、社会では明快な解答をすぐに表明できる人が
「意見を持っている人」として認められます。
「意見を持っている人」と認められるには、
明快な解答をすぐに出さなくてはなりません。
「AとB、どっち?」
と聞かれたらすぐに「A!」(Bでもいいですが)と答えられる準備をしておかなければなりません。
そこで「う〜ん、ちょっと考えさせて。AにもBにも一理あるような気がするなあ」なんて言ったら、アウトです。
その人は「意見を持っていない人」とされてしまいます。
そんな‘スピード感’が善とされているのが現在日本社会だと僕は認識しています。


しかしここで思うことは、
「スピード感は結構だけど、最も重要なことは、その決定したAという解答が、その後にどのような影響を与えるか、ではないだろうか」
ということです。
スピード感があるなしなんて、さして問題ではないのではないと思ってしまいます。
決定したことが、その問題について効果的な施策となるか、どうかが最大の注目点ではないでしょうか。
それが終わった段階、つまりは実際に‘スピード感’をもって対応された、
と見なされた段階で注目されることはなくなります。
その後にどのようなことが起こったかに注意を払う人が極端に減ります。
‘スピード感’を持って対応されたことが、1年後にえらいことになっていても、
その‘スピード感’ある対応自体は問題にされることはありません。
(「拙速」という言葉を見聞きする機会が減って久しいですね)


それは‘リーダーシップ’という言葉にも言えます。
昨今の政治家は猫も杓子も‘強いリーダーシップ’を強調し、
それを受けてか、社会では‘強いリーダーシップ’が望まれています。
政治だけではなく、様々な分野で‘強いリーダーシップ’は叫ばれています。
(「強いリーダーシップ」で検索してみたら、旭山動物園プロ野球コミッショナーピジョン株式会社などなど様々な分野の結果がずらっと並びました笑)
現在日本における‘強いリーダーシップ’とは、
状況が熟している、いない関係なく、物事を決定するそのことを意味します。
独断的であればあるほど、その強さは高まり、喝采を浴びます。
そして、そういうことをできる人が‘強いリーダーシップがある人’として、
社会では賞讃されています。
しかしここでも思うことは、
「強いリーダーシップをもって決定することは結構だけど、最も重要なことはその決定したことが、その後にどのような影響を与えるかではないだろうか」
ということです。
強かろうが、弱かろうが、決定したことが良い影響を与えれば良いし、
悪い影響を与えるならそれはよろしくありません。
とても単純なことです。
しかし、現在注目されることは、もっと単純で、
その決定が‘強いリーダーシップ’によってなされたか、
ということです。
言葉を換えれば、
その後のことより決定のされ方が最注目事項だということです。


決定された事よりも、その決定のなされ方が重要視される社会。


‘スピード感’溢れる‘強いリーダーシップ’が切望される社会とは、
そんな社会です。
そんな社会における人々は、
結果に責任を追うことを軽視・無視し、とにかくその方法に注力するようになる、という振る舞いを好むというのはいささか短絡的でしょうか。
僕には社会全体がそのような方向に向いているように思えてなりません。



「善きことはカタツムリの速度で動く」


‘インド独立の父’と称されるマハトマ・ガンディーの言葉です。
物事、制度、何でもですが、それらには必ず歴史があります。
そのものが存在した理由、変化した理由、変化しなかった理由などなど。
様々な歴史を経て、現在の形になっています。
それが良い形であるとは限りません。
直さなければいけない形かもしれません。
ただその直すのも時間をかけてやらなければなりません。
なぜなら、その直す対象にも歴史があり、役割があり、意味があり、
それを作った人の想いがあり、現在も関係する人がいるからです。
直すべきものでも、すでに存在し、歴史を持つものは、
必ず役割を持っています。
ジェンガのブロックのように、それが取れることで一気に崩れてしまう可能性を秘める役割が付加されてしまっているものです。
一気に崩さないため、周囲への影響を少なくするためにも、
時間をかけて慎重に行わなければなりません。
それは、
やり方ではなく、決定したことがその後にあたえる影響を考える、
ということです。
もたもたすることもあるだろうし、非効率的なこともあるでしょうが、
すでに存在する=歴史をもつことで役割を与えられたものを直すことは、
時間をかけるべきことなのだと僕は考えています。
(新しいものを作るのも時間をかけるべきだと思います。なぜなら、新しいものもすでに歴史を付与されているからです。
新しいものは現状に対しての問題や課題を解決するために作られます。その現状は脈々と続く歴史を全身に浴びたものです。前史がなければ現状は存在しません。その現状において新しいものを作る際には、当然歴史を考慮にいれなければなりません)
‘スピード感’溢れる‘強いリーダーシップ’によってなされることとは真逆の考え方であり、やり方ですが、僕はそのような方法を支持します。



二元論を誘発する「敵対的矛盾」は、
‘スピード感’、‘強いリーダーシップ’と極めて親和性の高い概念です。
それらに馴染めない僕には、その逆をいく「非敵対的矛盾」という概念はとても響きの良いものとして頭に入ってきます。
こういう心地良い身体感覚を得ることができるものは、
大抵自分にとって良いものです。
その意味で僕は自分の身体感覚を信用しています。
「非敵対的矛盾」という言葉に出会い、
それを一つの軸にして、様々なことを考えていきたいと思いました。