昨日買った本


この本は、丸谷才一さんが『完本日本語のために』という本の中でこんな内容のことを語っていたのがきっかけで購入しました。
司馬遼太郎の‘文章日本語の成立と子規’というエッセーは、日本語について書かれたものの中で、私はかなり上等なものだと思う」
正確な文章ではありませんが、丸谷さんが高評価を与えていたことは確かです。


司馬さんと日本語。
何だか意外な組み合わせのような気がしますが、
丸谷才一さんの『完本日本語のために』を読むと、
そのつながりがとてもしっくりくるようになりました。
「言葉とは民族の集積である」
といった示唆がそのことに直結します。


僕が考える司馬遼太郎という作家は、
「日本人を描き続けた作家」です。
様々な時代、性別、身分、立場の日本人を描き続け、
「日本人とは何だ」を検証、提示し続けました。
そんな司馬遼太郎という作家に、
「言葉とは民族の集積である」
という示唆は、何の障壁もなくつながります。
日本人を考えることは、日本語を考えることにつながる、
というか、同一のものであるということを意味する言葉でしょうから。


言葉は、その民族の「生き方」を示すものです。
ある民族は桜の存在を知りません。
その民族は「桜」という言葉を当然持ちません。
「桜色」という色を持ちません。
「桜吹雪」という自然現象を持ちません。
桜に関する言葉を持ちません。
ある民族は民主主義を知りません。
その民族は「民主主義」という言葉を持ちません。
民主主義に関する言葉を持ちません。


その民族が持つ歴史が、その民族が持つ言葉を選び、与え、そして奪います。
物も考え方も概念も感情も、歴史の中に存在するものだけを
その民族は言葉として持つことができます。
だから、明治時代初期、日本人はそれまでの日本が持たなかった言葉を
翻訳に次ぐ翻訳で海外から得ることに熱中したのです。
それまでの日本になかった、必要がなかった、
哲学、経済、資本、思想、概念、法律などの言葉が、
必要となったその時代に生み出されたのです。
なぜ必要になったのか、を考えることは、
その時なぜ日本人は必要としたのか、を考えることに当然つながります。
そしてそれこそ「歴史」です。


『完本日本語のために』を読んで、司馬遼太郎という作家が、
日本語について考えることは至極当然のことだ、ということがよくわかりました。
司馬さんのことを考えて『完本日本語のために』を読んだわけではありませんが、丸谷さんが「文章日本語の成立と子規」という司馬さんのエッセーについて書かれていたのを読んで、司馬さんと日本語について考えを巡らす機会をいただきました。
その流れで司馬さんの「文章日本語の成立と子規」が収録されている『歴史の世界から』を購入しました。
「競争原理をもちこむな」という中国と日本について書かれた全く関係のないものから読み始めてしまいましたが(笑)。