「考えること」を考える

禅問答のようですが、「考えること」とはどんなことだろう、
とぼーっと考えてみました。


答えが出なさそうだし、そんな能力もないので、
結論なんか出るはずもないのですが、
とりあえずの結論は、
「動かない」状態を作る
ということで落ち着きました。


「考えること」の目的は、その結果を一般的な社会において活かすためが本来だと思います。現状をより良くするために、「考えること」を実践し、その結果を活かす。
その結果が活かされる一般的な社会は、動くことが善である現実社会です。
動くことのために「考えること」を実践するわけです。
では、「考えること」の結果が現実社会に活かされなければ、
その「考えること」は無駄だったのか、ということになりますが、
僕はそうは思いません。
「動かない」状態を考えている時間作ることができたからです。


動き続ける、成長し続ける、進化し続けることが圧倒的善とされている社会において、その対極にある「動かない」ということは圧倒的悪のように扱われます。Grow or die です(笑)。
それが良いのか悪いのか、可能なのか不可能なのか僕にはわかりませんが、
ただ疲れます。
動き続けるのも、成長し続けるのも、進化し続けるのも疲れます。
「怠け者が!」と叱責をくらうかもしれませんが、
疲れるのだからしょうがない。
僕はものごとの基準を、自分の身体に置きます。
自分の身体でできるか、どうか。
体力があるか、どうか、力があるか、どうか、といったことも含みますが、
それだけではなく、「身体的な限度」の中で可能か、どうかを基準にするということです。
そこを基準にすると、物事の「限度の存在」を知ります。
物事には限度がある、という当たり前のことを感じます。
自分の限界を知る、などという前のめりな人間的教訓ではなく、
単純に物事の限度の存在です。
そんな基準を持つものには、
動き続ける、成長し続ける、進化し続けることは、疲れます。
動く時は動きますが、寝る時は寝ます。
ご飯も食べます。休みます。
自分の「身体的な限度」の中で判断します。
その一過程として、「動かない」状態を作る「考えること」は充分な意義を持つものだと思います。
動くことのための「考えること」にならなくとも、
ただ「動かない」状態を作ることだけのために「考えること」を実践するだけでいい。
動くことを強要され、現実的にそれをしなくてはならない現代社会において、
意識的に「動かない」時間を作ることは、想像以上に大切なことの様に感じています。


そんな愚にもつかないことを考えてて、「動かない」状態を作っていました。
ただの怠け者かもしれません(笑)。