写真を観ること

Illuminance

Illuminance


川内倫子さんという方の写真集『Illuminance』を観ました。
素敵な写真集でした。
装丁がまず素晴らしい。ザラッとした、僕が好きな紙(布?)が使われていて、一日中触っていたくなる感じでした。
内容の方も素晴らしかったです。
176ページものボリュームから察することができるように、
写真の枚数も多く、観応えがあります。
その被写体も様々です。
風景があったり、渦模様があったり、光があったり、闇があったり、動物の死体があったり。
その幅広さが川内さんの表に映る広さでありながら、それら全く異なるものに共通する沈殿物を掬うことで川内さんの鋭利な深さをも表しているようです。


写真集の中には、普段観ることが滅多にないような風景の写真もありますが、
普段いつでも観ることができるような風景の写真もあります。
原っぱや、庭や、階段や、葉っぱや花など。
そんな写真を観ていて、ふとある発想が浮かびました。
「なぜに写真を観るのか。
 それは、世界の多面性を体感するためではないか。」
と。


例えば、何人かで花の写真を撮るとします。
同じ題材でありながら、撮った写真の中に同じものはありません。
それを観たら同じものを撮っている、と認識できる程度の違いかもしれませんが、全く同じ写真はまずありません。
ある人はアップで撮るかもしれません、ある人は引きで撮るかもしれません、ある人は上からのアングルで撮るかもしれませんし、ある人は光を存分に活かして撮るかもしれません。
同じものではあるけど、違うもの。
同じものを撮っている、いう共通認識はあっても、
それぞれの人で撮るもの=見えているもの、イメージしているものが違うものです。
Aさんの写真をBさんが撮ることができないのは、
BさんにAさんの思考、経験、知識、技術、、、などに基づく「視点」がないからです。
逆もまたしかりで、Bさんの写真はAさんに撮ることはできません。
理由は上記の通りです。
写真の善し悪しどうこうとは別に、
同じ被写体を撮っても、写真は必ず違うものになります。


繰り返しになりますが、川内さんの写真集の中にも、
普段よく観る風景の写真があります。
もちろん全く同じ風景というわけではありません。
どこにでもあるような風景、ということで、
既視感とまでは言えませんが、想像することができます。
そして、自分をそこに置き、どんな写真を撮るのだろう、と想像します。
当然ですが、川内さんと同じ写真は撮ることはできませんし、
撮ろうとも思いません。
プロと一般人を激しく分ける技術の差は大前提ですが、
さらにその前提になる「視点」が川内さんと僕とでは全く違うからです。
そこに第三者を入れても結果はかわらず三者三様の写真になるでしょう。
人数をいくら増やしてもそれは同じことです。
人それぞれの「視点」は、共有される部分はあっても、一致することはまずありません。


必ず違いがでる、その中で、僕は二つのことを思います。
一つは、
「君がいる風景、見ている風景において、つらいことがあったとしても大丈夫だよ。君の「視点」からその風景を見るとつらいことかもしれないけど、その風景にも君のことを温かく迎えてくれる側面があるはず。その風景の中に君につらくあたる側面もあるかもしれないけど、優しくしてくれる側面もあるから安心して。大丈夫、君は生きていけるよ」
という包み込まれる様な優しさです。
仮にその風景の中でどうしようもない状況になってしまっても、
少し戻って別の「視点」から見ることができる側面に向かうこともできます。
確かにその「視点」を手に入れることは容易なことではないかもしれませんが、
別の側面が存在する、という認識を持っているということは、
生きて行く中で支えとなるとても重要なことのように思えます。
「同じもの」に対する「違い」は、世界の優しさを感じさせてくれます。


もう一つは、それとは逆に
「君の見ている風景は幾千幾万もある中のたった一つにすぎない。君は君の「視点」が絶対だ、と思っているかもしれないけど、それは独り善がりの自惚れでしかないことをしっかり認識しておきなさい」
という自分の「視点」の絶対化を戒める厳しさです。
例え同じものを見ていても、それぞれの「視点」によって見えているものは違うわけで、自分の「視点」で見えているものがある=自分の「視点」では見えないものがある、という認識の意識化。
自分に分からないことがある、という事実は誰もが否定しないことでしょうが、それを常に意識下に置いているか、と問われれば、YESと言う人は意外と少ないかもしれません。
その意識を常に持つことは、人を謙虚にする、と僕は思います。
そしてその謙虚さは、人への理解になります。
さらにそれは、人への優しさになり、労りになります。
価値観が違う人間どうしが話し合うこと=対話の場において、
その意識は必須の条件であるように思えてなりません。



写真を観るということは、圧倒的な美にひれ伏すその機会であるとともに、
他者の描く世界の存在に安心し、また自惚れを戒め他者の描く世界の存在を意識する機会でもあるのかな、と『Illuminance』を観て感じました。