本と人との出会い方〜『君自身の哲学へ』小林康夫


「出会い」は豊かな萌芽を内包している、と僕は信じたい。
本と人の「出会い」にもきっとそれがあるはず、と僕は思いたい。


君自身の哲学へ

君自身の哲学へ


この本とは戸田書店高崎店で出会いました。
國分功一郎さんの『近代政治哲学』(ちくま新書)を買いに行ったのですが、売り切れてしまったのか、在庫がなかったので、ふらふらしている時に目に入りました。というより、本と目が合った。
平積みされており、まず目に入ったのが帯にある推薦文でした。正確には推薦文ではなく、それを書いていた人たちの名です。そこには東浩紀國分功一郎大澤真幸のお三方の名前がありました。
「おお、國分功一郎さん!」と、その日の目的本の著者の名を発見し思わず手に取りました。さらに大澤真幸さん。6、7年前に『歴史の〈はじまり〉』(左右社)という本を大澤さんの名も知らずに本のタイトルに惹かれて買って以来の縁で、その後も『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎さんとの共著、講談社現代新書)、『憲法の条件―戦後70年から考える』(木村草太さんとの共著、NHK出版新書)、『自由という牢獄――責任・公共性・資本主義』(岩波新書)などで大澤さんの名はずっと頭の中にあり続けていました。(東浩紀さんは名前を知っているくらいでほぼ書かれたものは読んだことがありません。TBSラジオの選挙特番で酔っ払いながら話していた、くらいの印象です笑)
 推薦文自体にもとても惹かれました。


「地下深く、引き籠もることで他者に触れるには。ネット世代に知と愛を突きつける、瑞々しい希望のディスクール。」東浩紀
「自由に語れない者にどうして自由が語れよう。ここに君自身の自由の手本がある。」國分功一郎
「この本は井戸だ。哲学が、知=愛(フィロソフィア)が、ここでこんこんと湧き出ている。」大澤真幸


「なんか分からないけどカッコイイなあ」と思いつつよく理解できなかったので、何度か読み直してたのですが、ふと書名と著者に目がいきました。その時点で「まったく書名と著者に注意がいっていなかった」ことに気づきました。何だか挨拶もせずにドカドカ家にあがり込んでしまったかのような気まづさをちょっと憶えたので「改めて挨拶」を、と思ったのですが、「小林康夫??誰だ??」と挨拶どころではなくなってしまいました。「知らない人の家にあがりこんでしまった!」。挨拶のきっかけをみつけようと本を上から下から右から左からみていると、裏表紙の方の帯にこのようなことがありました。


人間の<危機>を凝視しつつ、<幸福な人生へ向かう>思索の可能性を存分に論じきる―――
知の巨人による大胆な試み。


おお、ここにもいたのか、知の巨人!
この言葉が好きなのです(笑)。ただそう称される人はすごい人なんだろうなあ、ということが理由なのですが。
「そうか、そうか知の巨人による著作なのか」と、改めて挨拶をして本をパラパラしました。
『君自身の哲学へ』。
この書名を頭にいれながら。


僕は哲学が好きです。
それはその本を読んだあとに、視界が広がったような、新たな視点を得たような「他の自由」を獲得できるからです。
書いてあることが理解できるから、ではありません。
哲学の本を読んでも僕はほぼ理解できません。何が書いてあるのか、何度読んでも分からないことがしょっちゅうで、それが基本です。分かる(分かったつもりになる)ことのほうが圧倒的に少ないです。
「理解」とは別のところで、湧き出る何かに触れるそのことにより、視界が広くなったように感じることに歓びを感じます。
それがとても好きです。
そのような実感は、哲学そのものの本からも得ることはできますが、その周辺の本からも得ることができます。「その周辺の本」とは、解説書であったり、古典的な哲学を軸にしてそれについて書かれている本です。そのような本で僕が真っ先におもいつくのは、木田元さんの『反哲学入門』(新潮文庫)です。哲学というものを無闇に恐れていた時に出会った本で、「哲学とは単なる西洋の思考の一つにすぎない」といった言葉は救いそのもののように感じました。哲学に対する姿勢を作ってくれ、それは哲学を無闇に恐れていた自分にとって、限りない光となりました。
パラパラして、『君自身の哲学へ』もそのような「周辺の本」のように感じました。装丁は決して僕の好きなものではありませんし、紙質も普通で触っていて楽しくありませんでしたが、「ここには何かあるな」という直感が働いたので購入しました。(ちなみに最近の「手触り部門一位」は、開沼博さんの『はじめての福島学』です。とても気持ちの良い表紙をしています。買っていませんが笑)


「本と目が合うこと」。本屋にはこれがあるからたまりません。