本と人との出会い方〜『明治大正史 世相篇』柳田國男


「出会い」は豊かな萌芽を内包している、と僕は信じたい。
本と人の「出会い」にもきっとそれがあるはず、と僕は思いたい。


明治大正史 世相篇 上 (講談社学術文庫 10)

明治大正史 世相篇 上 (講談社学術文庫 10)



本を読んでいると度々目にする人名や書名に出会います。カール・マルクス、『資本論』、『聖書』、丸山眞男マックス・ヴェーバーフリードリヒ・ニーチェ吉本隆明、『古事記』、福沢諭吉、『日本改造法案大綱』、夏目漱石永井荷風レヴィ・ストロース小林秀雄司馬遼太郎などなど、思い出しながら書いてみましたが、その中に「柳田國男」と『明治大正史 世相篇』もいれたいと思います。


明治〜昭和初期のことについて書かれた本を読んでいるとかなりの確率で「柳田國男」という名が出てきます。民俗学関連のものはもちろん、文学にも、官僚制に関するものにも、歴史についてのものにも。柳田國男といえば『遠野物語』がまっさきに思い浮かびますが、いろんなところで「柳田國男」という名を見るにつけ「この人は一体何ものなんだ??」という単一では決して語れない、得体の知れない人物として頭の中で増幅されていきます。今でも本を読んでいると、「またどこかで新たな柳田国男に出会うのではないか?」と思っている節が僕にはあり、それは楽しみでもあり、得体の知れない者に出会う気味悪さでもあります。そういう意味で柳田國男は僕にとって今でも生き続ける「リアル知の巨人」と言えます。


そんな柳田國男の著作で最も気になっていた作品が『明治大正史 世相篇』です。柳田國男の名と同様、この書名もたびたび目にし、その度に「一体どんな本なんだ?」という思いがムクムク膨らんで行きました。それならすぐに買えばいいのに、それをしないのが世の常(?)。気になるばかりでほおっておいたのですが、よく行く古本屋さんで先日偶然にも発見したのです。その古本屋さんは文教堂という、90歳くらいのおじいさんが経営している昔ながらの古本屋さんです。素敵な映画を上映するシネマテークたかさきという映画館によく行くのですが、そのすぐ近くにある文教堂には、映画をみるたびに用がなくても寄ってみます。決して広い店内でもなければ、活発な営業をしている風でもないお店ですが(なにせ90歳くらいのおじいさんなので)、行く度に欲しい本がみつかる不思議な古本屋さんなのです。特に岩波文庫に光るものがあり、文庫本にその率が高いので真っ先にそのコーナーへいきます。中高生男子が喜ぶこと必至の本と文庫本が隣り合わせにおかれているカオス地帯なのですが(笑)。講談社学芸文庫の『明治大正史 世相篇』は上下2巻セット。2冊で300円という値段なら飛びつかないはずもありません。


裏表紙の本の説明にはこのようにあります。


柳田國男が本書を執筆したのは、一九三0年後半、五十六歳の時。民俗学的方法によって、近代日本人のくらし方、生き方の横断面を描き出そうとした意欲的な作品であり、著者が一気に書き下した著作としては最大のものである。明治大正の人々が意識することもなく繰り返していた日常的な事柄が、著者の豊富な体験と鋭い内省を通して再び提示されると、われわれ日本人の心はゆさぶられ、変転きわまりなかった過ぎた時代が蘇ってくる。」


これを読むだけで心動かされます。
僕は歴史が好きで、特に幕末〜昭和前半が好きなのでその時代に関する本に触れる機会がままありますが、それらを読んでいると「歴史の胎動」についてどうしても考えてしまいます。坂本龍馬西郷隆盛伊藤博文児玉源太郎東郷平八郎原敬など、教科書にも年表にも乗っかるような「偉人」が日本の歴史において躍動したことは間違いないことでしょう。彼らが「歴史を動かした」張本人であることは一つの事実ですが、彼らだけで歴史が動いたわけでないこともまた確かな事実です。後者の事実の方が何倍にも強い事実です。一般の人々の生活、欲望、意思などに乗っかる形で「偉人」は踊ったにすぎない、と僕は考えています。その時代の「空気」に必要とされた「偉人」が彼らの能力を使って大きな事業をやったことが年表になるわけですが、その「空気」を作ったのは一般の人々の生活、欲望、意思などです。「偉人」一人で踊ることなどできようはずもない。そのベースとなるもの=一般の人々の生活、欲望、意思などを知らなければ歴史を理解することはできない。「明治大正の人々が意識することもなく繰り返していた日常的な事柄」を知ることが必要になってくるという認識にたてば、『明治大正史 世相篇』は極めて有用な本になるはずです。と、信じています。そう信じることで、信じないよりも本からたくさんのことを学べますので(笑)